初夏のある日。
ヴァンツァーは日課である早朝トレーニングを済ませ、敷地内の別宅へと戻ってきた。
母屋である白亜の豪邸とは異なる意匠の石造りで、そこはどこか中世の城を思わせるような佇まいだ。
骨董品で装飾されたこの家は、落ち着いた雰囲気ながら大層金が掛かっている。
それでも、黒髪の美青年の伴侶たる人物からは文句が出なかった。
それどころか「落ち着く」と珍しく上機嫌で、ほっとしたことを覚えている。
敷地内に、母屋とこの建物以外にもまだ離れの家があるが、ここは彼らにとって一番気に入りの場所だった。
台所、食堂、居間のどこにも人の気配がないのを感じ、寝室へと向かった。
──カチャ……。
ごくちいさな音とともに寝室の扉が開かれる。
ヴァンツァーが起きたのは太陽が顔を出すのと同じくらいだった。
まださほど昇ってはいないが、それでも窓からやわらかな光と、爽やかな朝の空気が入ってくる。
部屋に入ってすぐに目に入るのは寝台だ。
大きな天蓋つきの寝台がひとつ、部屋の中央の壁際に置かれている。
寝台の他には華奢な造りのナイトテーブル、同じ意匠の椅子が二脚と、ちいさめのチェストがある。
部屋に入ってすぐのところにある暖炉は、今の季節は出番がない。
そのマントルピースの上には、数枚の絵皿と季節の花々が飾られている。
その花は、シェラが庭で摘んできたものだ。
調度は数こそ少ないが、どれも一級の職人が造ったものだ。
見る者が見れば触るのも躊躇われるほどの逸品だと分かる。
室内は二時間ほど前に自分が出て行った時の様子とまったく同じで、ヴァンツァーは薄く笑みを浮かべた。
一緒に眠っていた人物の睡眠を妨げなかったことにほっとしたのだ。
しっかり男性と分かる美貌は精悍でありながら艶を孕み、鍛えられた長身の青年には、女性がいくらでもなびいてきそうだ。
たとえ同性であろうとも見惚れそうな彼の姿は、幸か不幸か誰も目にする者がいない。
そのままの表情で足音をさせずに寝台へと近付き、端に腰掛けるとちいさく軋んだ。
ふたりが眠っても十分すぎるほどの広さの寝台。
その真っ白なシーツに、埋もれるように眠る人物。
ヴァンツァーの眼下には、長い銀髪が美しい眠り姫がいた。
そっとその人物の頬に触れるが、身じろぎひとつしない。
余程深く眠っているのだろう。
気配には敏感な人物なのだが、安心しきった顔で眠っている。
ここまで自分の気配に慣らすのに苦労したヴァンツァーとしては、小躍りして喜びたいくらいの気分だった。
それをしない代わりに、彼は上体を倒し、そっと口づけを贈った。
朝露を含んだ花弁のようにやわらかな唇を、一度啄ばむ。
僅かに顔を離してみるが、まったく起きる兆しがない。
その様子に、ヴァンツァーは喉の奥で笑った。
眠り姫の紅い唇を親指でなぞり、同じような口づけを、回数を増やして落としてみた。
二度、三度と繰り返すうちに、ピクリとちいさな反応が返ってきた。
しかし、それは起き出す程の効果を与えてはいないらしく、ヴァンツァーは薄く開いた唇から舌を差し込んだ。
苦しくはない程度に深く口腔内を刺激してやると、銀色の長い睫に縁取られた瞼が震え、瞳が開かれる。
ヴァンツァーがこの世でもっとも美しいと思う一対の宝玉が現れた。
「起きたか」
唇を離したヴァンツァーがそう言うと、シェラは二、三度瞬きをして再び目を閉じてしまった。
それを見てまたちいさく笑うと、ヴァンツァーは僅かに寝台を軋ませて立ち上がった。
途端に、シェラはぱっちりと目を開けた。
「……けち」
ボソッと呟いた不服そうな声は、ヴァンツァーの笑みを誘うばかりだった。
「止められなくなったら困るだろうが」
「……」
もっともだ、と思ったシェラは、ゆっくりと身を起こした。
「身体は?」
気遣うようにシェラが身を起こすのを手伝うヴァンツァー。
「平気だ。ちょっと、だるいけど」
そっと腹部に手を添える。
どういうわけか、現在シェラは妊娠初期段階だった。
性別や年齢が変化することが日常茶飯事な自身や知り合いのおかげで、シェラもヴァンツァーもさほど戸惑わなかった──それもどうかと思うのだが……。
「すぐ、朝食にする」
寝起きの良いシェラは、すぐに寝台の外へと足を下ろす。
絹の夜着に上着を羽織ろうとしたが、それをヴァンツァーが留める。
「ヴァンツァー?」
きょとんとした顔で相手を見上げるシェラ。
「俺が作ろう」
ぱちぱちと瞬きを繰り返すシェラは、少し咎めるような顔になった。
それは、何もヴァンツァーの料理の腕を心配してのことではない。
「……私にも仕事をさせろ」
毎日朝早くから夜遅くまで仕事をしているこの男に、休日くらいはゆっくりしてもらいたいのだ。
最近は無茶な働き方をすることはないが、それでも休みの日くらい寝坊してもいいのに、と思う。
「家事を手伝うと言って怒られる男がいるとは思わなかったな」
「お前が働きすぎだからだ」
「最近は控えているだろう? 定時で帰るようにしている」
今のシェラに心労を掛けるのは良くないとの判断なのだろう。
「その分、家でしたら一緒だ。それに、私もまだ働けるぞ……」
ヴァンツァーは嘆息してシェラの隣に腰掛けた。
気に入りの長い銀髪を梳く。
少し、荒れたかも知れない。
僅かに指が引っかかることを残念に思った。
「お前は、俺のことを言えないくらい無理をするからな」
苦笑しているが、その声音はやわらかい。
何事にも手を抜かないシェラの性分を、決して嫌いではないのだから。
「……」
ちいさい子に言い聞かせるような口調に、シェラは俯いて唇を尖らせた。
「それとも、この家にいると鬱屈が溜まるのか?」
シェラは顔を跳ね上げた。
「そんなこと!──少し、寂しいだけだ……」
「寂しい?」
髪を梳く代わりにシェラの肩を引き寄せる。
それに抵抗することなく、ヴァンツァーの肩に頭を預けるシェラ。
「……だって、昼間はお前がいないんだ……」
ヴァンツァーは藍色の目を瞠った。
この銀色がこんなことを言うのは滅多にないことだ。
初めてのことで不安なのだろうか、と思う。
「──分かった」
ポンポン、とシェラの頭を叩き、ヴァンツァーはひとつ息を吐いた。
「身体を冷やさないことと、動きすぎないことを守れるなら、明後日から一緒に行こう」
もちろん、職場にだ。
「いいのか?!」
ぱぁぁっとシェラの顔が明るくなる。
きっと、こういう風に笑っている方が身体にいいのだろう、とヴァンツァーは思い直すことにした。
「お前の性格を考えると、かなり厳しい条件のような気がするがな」
からかうようなヴァンツァーの口調に、シェラはきゅっと柳眉を顰めた。
「言っておくが、お前が働きすぎることが、私にとって一番の心労なんだからな」
「──あぁ、なるほど。家にいると俺が心配でおちおち休んでもいられないのか」
「……自信家め……」
ふいっ、と視線を逸らしたシェラの頬が朱に染まっているのは、何も朝日のせいというわけでもないはずだ。
「ただの事実だろう?」
逸らしたシェラの頬に手を添え、自分の方に向けると、ヴァンツァーはシェラが酸欠にならないように気をつけつつ、少し長めの口づけを贈ったのだった。
END.