「順調らしいじゃん」
夏のある日、シェラがクーア総合医療センターへ定期健診に行くと、金茶色の髪をした痩身の男に会った。
連邦大学病院から引き抜かれた、優秀な医師だ。
しかしここは産婦人科の待合室である。
なぜ外科の医師がこんなところにいるのだろうか。
というか、ここに来るといつも顔を合わせる気がする。
「レティシア……」
少々声音が硬い。
この男が何もしてこないのは分かっていても、どうしても警戒してしまう。
それは長年の癖だった。
「俺に言ってくれれば診てやるのに」
からかうように笑う青年に、シェラはきついまなざしを返した。
「んな顔すんなって。俺がヴァッツに怒られるんだぜ?」
身体にも精神にも負担を掛けさせるな、と顔を合わすたびに言われているのだ。
一度言われれば分かるというのに。
「お前の都合など知らん」
「つれないねぇ」
大仰に肩をすくめて見せるが、まったく困った様子がない。
「髪切っちまったのか?」
この間見た時は腰まであった銀髪が、肩で切りそろえられている。
「……荒れたから」
「ああ、栄養取られるからな。さすがのあいつも許したか」
レティシアの台詞に、シェラは顔を顰めた。
「──取られるんじゃない」
「あん?」
「栄養。あげてるんだ。訂正しろ」
「──へぇ。そりゃ悪かった」
一瞬目を瞠ってそう言うと、レティシアは周囲を軽く見渡した。
「そういや、今日あいつ一緒じゃねえの?」
検診日にはいつも一緒に来る人間の姿が見えないことを不思議に思う。
どうりで待合室が静かだと思った。
シェラとヴァンツァーが並ぶと、興奮して産気づく患者がいるとかいないとか。
まあ、看護師の間の噂だが。
「どうしても抜けられない仕事がある」
「検診日ずらしゃいいのに」
「……そんなに迷惑ばかり掛けられない」
口の中でボソボソと喋るシェラに、レティシアは呆れたような顔を向けた。
「お前ねぇ、変なところで他人行儀なの、やめたら?」
「煩い!」
「ここ病院」
「……」
悔しそうに口を引き結ぶシェラ。
俯いたその視線を追って、レティシアはふと、シェラの腹部に視線を落とす。
ゆったりとした薄桃色のマタニティードレスに身を包んでいるシェラは、どこから見てもとびきりの美少女だった。
年齢的には『美女』と称すべきなのだろうが、何か可愛らしい感じがするのだ。
だから、きっと普通の産婦人科医ならば驚いたことだろう。
清楚可憐この上ないシェラが実は男性で、なぜか妊娠しているというのだから。
もしかしたら、その理由を解明しようと精密検査や人体実験をしたがる医者もいるかも知れない。
だから連邦大学病院ではなく、クーア総合医療センターにしたのだ。
ここは、ルウの持ち物だから。
医者の配置も、医療器具の使用も、ルウの采配でどうにでもなる。
この医療センターの人間もシェラの身体のことは気になっているのかも知れない。
だが、表立って何かをしようという気配はない。
まあ、待合室にいる分には、誰も今のシェラを男だとは思わないだろう。
妊婦の多くは、美しいが気取らないシェラと気さくに会話をした。
何度か出産を経験している妊婦からは、子育ての失敗談などを聞いたりした。
シェラのお腹の中のこどもは双子なので、双子を出産したことのある先輩妊婦から経験談を聞いたりもした。
打って変わって、妻の検診についてきた夫がシェラに見惚れ、危うく喧嘩しかけた夫婦もある。
大抵シェラが検診に来るときにはヴァンツァーも一緒なので、女性の方はヴァンツァーに見惚れてしまい、どっちもどっちだったのだが。
大事に至らなかったのは、ひとえにシェラとヴァンツァーの中睦まじい様子に、入る隙を見出せなかったからかも知れない。
そんなふたりの仲の良さを示すような可愛らしい薄桃色のマタニティーは、もちろんヴァンツァーが作らせたのだ。
「お嬢ちゃん細いからなぁ。あんま目立たねぇな」
軽く自分の顎に手を添える。
細い、という意味では自分もどっこいどっこいなのだが、さすがにレティシアは妊娠したりしない。
「もう五ヶ月だろう?」
「それが?」
「つわりもひどくなかったみたいじゃん」
「そんなことはない……が、つわりは精神面が起因することがあるから、我慢すると余計に辛くなる。だから、したい時にしたいことをしろ、と言われた。そうしたら随分楽だった」
「医者に?」
「ヴァンツァーに」
レティシアは飴色の瞳を大きく瞠った。
「へぇぇ!」
そのわざとらしいまでの声に、シェラは懐疑的な顔になった。
「何だ?」
「いんやぁ、べっつにぃ?」
にやり、と笑う男に、シェラは顔を顰めた。
「言いたいことがあるなら言え」
「だからそんな顔すんなって。カルシウム不足か?」
牛乳よりヨーグルトの方が吸収いいぜ、と言いながら隣に腰掛けられ、シェラは一瞬身を引きかけた。
実際引かなかったのだからえらい進歩だ。
レティシアはそんなシェラの態度に気付かないふりで、悠然と足を組んだ。
そして、シェラの言葉に答えてやったのだ。
「ヴァッツがどの面下げて妊娠・出産・育児本と格闘してるのか想像すると、ちょっと笑えてこねぇか?」
「……」
きょとんとしてレティシアの顔を見たシェラだったが、しばらくしてちいさく吹き出した。
一度タガが外れると、止まらなくなるらしい。
声には出さず、長いこと笑う。
「おいおい、あんま笑いすぎんなよ? こども出ちまうぜ?」
それでなくとも、双子は早産しやすいのだから。
どこかシェラを気遣うようなその台詞にも、また笑いが込み上げてくる。
「おい、お嬢ちゃん……」
眦に涙まで浮かべているシェラに、レティシアは少し戸惑ったようである。
まさか自分の前でこんなに笑うとは思っていなかったのかも知れない。
ひとしきり笑ったシェラは、涙を拭うとレティシアに視線を送った。
「そういえば、やたら詳しいんだ」
「はん?」
「私だってそれなりにつわりはあったんだが、あいつが食べられるものを作ってくれた」
「……」
「きっと、何かの本で研究したんだな」
また笑い出しそうになって腹を抱えるシェラ。
いい加減腹筋に堪える。
こどもは大丈夫だろうか。
「……相変わらず勉強熱心だな、あいつ」
レティシアが苦笑した。
三度の飯よりは、確実に勉強を楽しみにしていたような男だ。
「あぁ。その料理がまたおいしくて。嬉しかったけど、お株を取られた気がしてちょっと悔しかった」
料理だけではない。
妊娠期にも身体を動かすことは必要で、日常するような家事であればどんどんこなした方が良い。
動くことで気分が晴れることもある。
気分が良ければ、つわりもひどくならないことが多いようだ。
それでもやはり体調が優れない時はあるもので、ヴァンツァーは他の家事も率先して行った。
大半は自動機械に任せもしたが、それでも几帳面な性格のあの青年は、できるだけいつもシェラがやっているのと同じような結果になるよう努めていた。
だから仕事は定時でやめて帰ってくるし、休日はシェラに合わせて行動するおかげで大分休息するようになったのだ。
これなら一生妊婦でもいいかも、とシェラはこっそり思っていた。
「仲が良さそうで何よりだよ」
うんざり、といった感じでレティシアはため息を吐いた。
それを見たシェラがちいさく笑う。
「でも、訓練に付き合えないのが残念だな……」
シェラの妊娠が発覚してからは、ヴァンツァーはひとりで運動したり、仕事がなければレティシアを相手にすることが多くなった。
いつもは自分が相手していたのに。
「あと半分じゃねえか」
「こどもが生まれてからだって、しばらくは無理だ。私はともかく、こどもを放っておくわけにはいかない」
「こども好きの兄さんに見させておけばいいじゃねえかよ」
ルウのことを言っているのだ。
「え?」
「あの兄さん、こどもひとり育てたことあんだろ? たまにゃあ押し付けちまえ」
それくらいならサボっても許されるだろう、と悪戯っ子のように笑って提案してくるレティシアに、シェラはポカンとした表情を向けた。
「何だ? あの兄さんだって喜ぶと思うぜ? 頑張りすぎるな、ってヴァッツも言うんじゃねぇか?」
きょとんとした顔で可愛らしく首を傾げるレティシア。
シェラは呟く。
「──……お前、ちょっといい男かも……」
あまりのことに絶句したレティシアだった。
猫のような眼は、限界まで見開かれて真ん丸だ。
次いで、込み上げてくるものを堪えきれなくなったのか、身体を折って笑い出した。
場所が場所だから、大声を出すようなことはなかったが。
かなり長いこと笑っているレティシアを、シェラは不思議そうな顔で見ている。
何がそんなにツボに嵌ったのだろうか。
皆目見当もつかない。
ひとしきり笑ったレティシアは、ゴシゴシ目を擦り、シェラの頭をポンポン叩いた。
やはり首を捻るシェラを横目に立ち上がると、レティシアは一言だけ残して去っていった。
「ヴァッツには、内緒にしといてやるよ」
ひらひらと手を振る男の言葉の意味が分かったのは、その姿が見えなくなってしばらくしてからだった。
END.