『妻の初産を待つ夫だな』
とは、ヴァンツァーがシェラに言った言葉だった。
──まさか自分がそれを実感する日が来るとは、夢にも思わなかった。
子宮も産道もないシェラがどうやって赤ん坊を産むのかといえば、帝王切開──男性だから開腹手術が正しいか──によってである。
多胎妊娠の場合、単胎妊娠よりも帝王切開になることが多い。
だから、そういう意味ではシェラが帝王切開でこどもを産むのは特筆すべきことではない。
ただ、もしもシェラが産道を持ち、更に多胎でありながら自然分娩が可能なのであればそうしただろうし、ヴァンツァーはそれに立ち会っただろう、というだけのことだ。
妻の出産に立ち会った夫が気絶する、というのはよく聞く話だが、検診にも付き添っていたヴァンツァーはそれを知っていても分娩に立ち会ったはずだ。
しかし、シェラに自然分娩は不可能だった。
それに、帝王切開の方が自然分娩よりもリスクが少ないとも言われている。
そんなわけで、手術室に入るわけにはいかない『妻の初産を待つ夫』は、手術室内部を眼下に収める個室へとやってきていた。
手術室の斜め上にある、観客席のようなものだ。
手術の様子を見られる医者は適度に緊張し、医療ミスの防止になる。
また、見守る家族としても、自分たちの与り知らぬところで身内の身体が扱われるよりはずっと安心できる。
そういった意図で、クーア医療センターでは公開手術を採用していた。
巨大な一枚のガラス窓から下を覗くと、手術台に横たわるシェラの姿が目に入る。
思わず拳を握った。
じっとりと汗ばんでいる。
それでいて、指先はいつも以上に冷たい。
喉はカラカラで、『固唾を呑んで』見守ることすらできないほどだ。
そして、その緊張感を裏付けるかのように、耳に直接心臓の鼓動を聞いている気がする。
「うわぁ、珍獣の檻の前みたいだ」
自動扉が開き、忍び笑いが漏らされた。
ヴァンツァーは振り返りもせず、手術室内を注視し続けている。
「そんなにへばりつかなくても、彼はミスをしたりしないよ」
そう言われても無言のままシェラを見ているヴァンツァーの隣に、ルウが立った。
「そんなの、君が一番良く分かっているはずだ」
何せ、手術担当者はレティシアなのだから。
産婦人科のどの医者も、妊娠した男のこどもを取り出す手術などしたことがない。
共和宇宙中の産婦人科医がそう答えるだろう──産婦人科に限ったことではないが。
そんな人間たちにシェラの身体を弄らせるわけにはいかない、とヴァンツァーは思っている。
「──奴の腕に関しては、他の医者より信用できると思っている」
「だから安心して任せておきなよ」
ルウが何を言っても、ヴァンツァーはシェラから目を離さない。
「王妃が手術をするとなったら、自分でやりたいとは思わないか?」
「……」
「王妃はあんたのいいように、と言うだろう。あんたが手術を担当するのでも、他の医者に任せるのでも」
自分の命を相棒に預けているから。
生きているのは、相棒のためにだから。
きっと、それがルウの選択ならば、それを全面的に信用するのだろう。
「これは、あれの選択だ。俺が口を出すことではない。──それは、分かっている」
レティシアに担当してもらいたい、と言い出したのはシェラだ。
おそらく、自分の身体がどうとかいうよりも、こどもの命を考えてのことだろう。
男が本当に妊娠していたからといって、こどもを取り出す時に手元が狂うような医者では困るのだ。
レティシアならばそんなミスは絶対にしない。
その程度には信用できる男だ、との判断だ。
頼まれたレティシア自身もなかり驚いていたが、担当医がレティシアだと聞かされたヴァンツァーはしばらく口をきけなくなった。
男の身で妊娠するというある種の異常状態に、精神が疲弊したのかと疑ったくらいだ。
「ただ……俺はここにいることしかできないのか、と思っただけだ」
「……」
話している間に、手術が開始された。
シェラとヴァンツァーの距離は、およそ十メートル。
「手を伸ばすことも、声を掛けることも、隣にいることさえもできない」
ヴァンツァーは、形の良い唇に自嘲の笑みを浮かべた。
「俺はいつでも、あいつひとりに苦痛を押し付ける……」
小太刀で腹部を貫かれた感触がよみがえる。
それ以上に鮮明に、自分を見つめる怯えた瞳が浮かんだ。
再会した時もそうだ。
泣き出しそうなのを我慢している顔。
だから、自分にできることはたったひとつ。
今は待たなければいけない。
この不安もやるせなさも無力感も、逃げることなく享受しなければ……。
それしか、できないから。
そうすることでしか、シェラの感じた痛みを知る術も、埋める方法も見出せないから。
せめてこれ以上、シェラだけが胸を痛めなくてもいいように。
「それだけは……」
──呟いた瞬間。
ふと、視界が闇に閉ざされる。
突然のことに目を瞠るヴァンツァー。
停電かと思った。
それならば手術に支障が出る。
だが、いくら目を凝らしても何も見えない──否、見えているのかも知れないが、何も目に映らない。
身体の感覚はあるのだが、視覚がない。
首を下に向けても、自分の足元すら見えないのだ。
たかだか停電ならば、ヴァンツァーはものを見ることができる。
暗視能力は普通の人間よりもずっと高いのだから。
浮遊感がなく、何か硬いものの上に立っているような感触で、床のようなものがあることが分かるだけ。
その床面も視認することはできない。
新月の真夜中に森を歩いても、こんなにものが見えないことはない。
こんな闇は経験したことがない。
目を開いていても、閉じていても同じ。
だから、今自分が目を開けているのかどうか分からなくなる。
視覚は、まったく使い物にならなくなった。
盲目になった経験はないが、光を失った人間はこのような世界に生きているのかも知れない、と思う。
それでもヴァンツァーは不安を覚えることはなかった。
どちらかといえば、闇は自分に近しい存在だから。
それに、たとえ視覚や聴覚が利かなくとも、鍛え上げた神経は気配を敏感に察する。
むしろ、何も見聞きできない方が余計な情報に惑わされることがない場合もある。
「仕立て屋」
どういうわけで今自分がこんな状態に陥ってしまったのかは分からなかったから、とりあえず先程まで一緒にいた存在に呼び掛けてみた。
返事はない。
だが、自分の声が聞こえたことで、聴覚はまともに働いていることが分かった。
おそらく、五感のすべてが正常に機能しているのだろう。
ただ単に、闇に閉ざされているだけ。
だけ、とはいえ、これがいかに異常な事態であるかは理解しているつもりだった。
それが分かったからといってヴァンツァーにはどうすることもできないから、余計な動きはしない。
彼は魔法を使えない。
シェラならば何とかできたかも知れない、とかつて目にした凄まじい光を思い出す。
どうしたものか、とため息を零すと、遠くに光が現れた。
今しがた自分が思い描いたのとそっくりな光だ。
冴えた月の銀色。
だから、誘われるようにヴァンツァーはそこへ向かった。
一歩一歩、確かめるように歩を進める。
どこかでこの床面が途切れているかも知れないのだから。
しかし、足音を立てないで歩くことが癖になっているためか、そういう世界なのか、何の音もしない。
彼らのように水際立った動きをする者にとっては、わざと音を立てて歩くことの方が難しい。
感触でしか自分の進む道を確認できない。
ゆっくりと歩いているため、光になかなか近づけない。
ヴァンツァーは顔を顰め、内心舌打ちした。
──もどかしい。
一度立ち止まり、じっと視線の先の光を見つめた。
光の近くならば今自分の歩いている道が見えるかと思ったのだが、照らし出される道はない。
何とも面妖な世界だった。
どうしたものか、と首を傾げる。
この闇にも、遠くに見える光にも、まったく不安を覚えない。
害意も敵意も感じない。
自分の感覚を信じるならば、特に命に関わる危険はなさそうなのだ。
しかし、勝手に命を落とすと怒られる。
今度こそ、何が何でも自分の方が先に死ぬのだと言い張ってきかない人間がいるのだ。
だから、あまり思い切った行動に出るわけにはいかない。
──と、急速に光の方が近付いてきた。
一歩も進んでいないから、その認識に間違いはないはずだ。
「……?」
不思議に思っていると、迫り来る光がヴァンツァーの目の前で弾けた。
「──っ」
とっさに目を庇うも、僅かに焼かれたらしい。
瞼を閉じてもチカチカと赤く明滅している。
ゆっくりと瞬きし、視力を取り戻そうと試みた。
──しかし、それはある意味失敗した。
先程とは違い、ここには光しかなかったからだ。
自分の手も脚も見えるが、他は真っ白だった。
やはり何かの上に立っているらしいのだが、床面らしきものと周囲が同化しているため平衡感覚を失いそうになる。
先程とは属性が逆になったような、光に満ちた世界。
周囲を見渡しても、どこまでも真っ白な世界が続くだけ──のはずだった。
──光溢れる世界で、なぜ更なる光が存在できたのか。
分からなかったが、ヴァンツァーはその光に向かって歩いた。
随分遠くに見えたのだが、自分の歩幅とは異なり近付き方が速い。
やはりおかしな世界だ、と思う。
だが、そんなことはどうでもいい。
ちいさく丸まっているそれに、ヴァンツァーは呼び掛けた。
「シェラ」
光に溶け込むことのない光──否、シェラがいるからこそ、この世界に光がある。
光源が、周囲に同化してしまうわけがない。
「──ヴァンツァー……?」
横になっていたシェラは数度瞬きをし瞼を持ち上げると、ゆっくりと上体を起こした。
細い。こどものいる身体ではない。
手術室にいるはずのシェラがここにいることと体つきが違うことで、時間の感覚も曖昧になる。
「……なんで?」
なぜここにいるのかを問う声音だった。
「さぁ?」
他に答えようがないので、ヴァンツァーは軽く肩をすくめ、思ったままを口にした。
「幻でも、見てるのかな……」
菫の瞳が困惑に揺れる。
「幻にも自我があるとは面白い発見だ」
薄く笑みを浮かべると、ヴァンツァーはシェラの前に膝をついた。
妊娠はしていないが、髪は肩で切り揃えたままだ。
「……何でもいい」
しばらくじっと藍色の瞳を覗いていたシェラは、そう呟きヴァンツァーの首に腕を回した。
「あたたかい……お前の、においだ」
深く息を吸い込むと、ほっとしたように吐息を零す。
「落ち着く」
腕に力を込めるシェラ。
「……ちょっと、こうしていてくれ」
ささやくシェラの声は、僅かに震えている。
レティシアが執刀し、手術を受けているはずのシェラを、ヴァンツァーは何も言わず、そっと抱き返した。
慣れた感触だ。
幻だろうと何だろうと、自分の知っているシェラの身体と体温だった。
偽物ではない。
本物のシェラだ。
自分が間違えるはずはない。
ヴァンツァーは、腕に力を込めた。
「──いくらでも。お前が望むだけ」
「ヴァンツァー?」
相手の肩口に顔を埋めたまま、くぐもった声で呼ぶ。
「それしかできない。お前が欲しいものを与えることでしか返せない」
抱きしめられながら、僅かに首を傾けるシェラ。
「それなのにお前は何も求めてこないから……。俺はいつでも与えてもらうばかりで、何ひとつ返せないでいる」
更に力を込めた。
「──――……俺も、光になりたかった」
奪うだけでなく、与える存在に。
倒すのではなく、護る存在に。
「ずっと、なりたかったんだ……」
お前のように。
お前が支えてくれるように自分も。
誰かを支え、光を分け与える存在になりたかった。
「なってるよ」
腕の中から聞こえてきた言葉に、ヴァンツァーは力を緩めた。
シェラを見ると、穏やかに微笑んでいる。
その微笑の意味が分からず、ヴァンツァーは首を傾げた。
「今こうして、支えてくれている」
「……今だけだ。しかも、本当に手を貸しているだけで……」
シェラは首を振った。
「お前はいつでも私の前にいて、私を導いてくれる」
追いつけそうで追いつけないのではない。
置いていかないように一歩だけ前を歩いているのだ。
ヴァンツァーは厭味でも、優越感でもなく、自然とそういうことができ、またそれを悟らせないように振舞える男なのだ。
悔しいけれど、嬉しい。
「お前の傍にいられることを、誇りに思う」
「……」
「隣に並びたいのは今も変わらないけれど、でも、まだ並べないからこそ、私は動けるのだと思う」
きっと、隣に並んでしまったらそこで止まってしまう。
そこで満足してしまう。
それまでこの男がしてくれたように、今度は自分が高みを目指せばいいのに、それができない気がするのだ。
どこを目指せばいいのか分からないから。
「目指す場所が分かったら、きっと私はお前に追いつける。いや、何が何でも絶対に追いつく。それから、今度は私の見つけた場所を目指すんだ」
そこに辿り着いたら、次はヴァンツァーの見つけた場所へ。
その次はまたシェラがどこかを見つける。
その繰り返し。
もしかしたら、隣に並ぶのはほんの一瞬なのかも知れない。
隣には並びたいけれど、そこでとどまりたくはないから。
「だから、悪いがもう少し、私の前にいてくれ」
「……」
「まだ見つからないんだ。見つけたら、絶対に追いつくから……そうしたら、今度は私がお前を引っ張るから」
ちょっと重いかも知れないけど、とシェラは笑った。
「今は、お前が私の道標だ」
道標。
行く手を照らす光。
「ほらな。お前は私を支えるどころか、引っ張り上げているんだぞ?」
すごいことだと思わないか、と言おうとして目を瞠った。
「────……」
シェラは息を呑んだ。
反動で呼吸が止まりそうになる。
初めて見る。
藍色の瞳から、ひと滴の涙。
ヴァンツァーは呆けた顔をしていて、どこか幼く見えた。
「お、おい……」
見たことのないものを目にしたおかげで、シェラは狼狽した。
それでもまだヴァンツァーはぼーっとしていた。
「……」
何を言っていいのか分からず、仕方なさそうにため息を零すと、シェラは黒い頭を胸に抱えた。
そのまま、ポンポンと背中を叩いてやる。
「やっぱり、予行演習にしては随分と大きいな」
その微苦笑をきっかけに、ヴァンツァーの視界に病院の風景が戻ってきた。
「おかえり」
ルウの言葉に、ヴァンツァーは今までのことがこの魔法使いの仕業と知った。
精神だけが別の空間へ飛んだのか、それとも身体ごとなのかは分からない。
だが、シェラのことを考えるときっと前者なのだろうとは思う。
「……あんたは魔法を使いすぎだ」
言った途端に、けたたましいまでの泣き声が耳に入った。
分厚いガラスで仕切られているが、スピーカーが取り付けられているので手術室内の音は聞こえるのだ。
ヴァンツァーは慌てて中を見た。
「おめでとうございます」
看護師の声が聞こえる。
シェラに声を掛けたのだ。
下半身の感覚だけがなくなるように部分麻酔を掛けているので、意識はあるのだ。
「可愛い女の子ですよ。双子ちゃんにしては、大きい子ですねぇ」
大きな声で泣く生まれたての赤ん坊を見せられて、シェラは驚いたように目を瞠った。
もしかしたら、本当に生まれてきたことが信じられなかったのかも知れない。
それとも、あまりに大きな泣き声にびっくりしたのだろうか。
だが、次の瞬間には破顔した。
満面の笑みだ。
こんなに嬉しそうな顔は見たことがないかも知れない、とヴァンツァーは思った。
そんなシェラの菫の瞳に、薄っすらと涙が浮かんでいるように見える。
すぐに顔を覆ってしまったので、はっきりとは分からないが。
看護師が、取り上げられた赤ん坊を運んでいく。
帝王切開のように産道を通って生まれて来ないこどもは、母親の血液で赤く染まることがないのだ、と何かで読んだ気がする。
綺麗なものである。
運ぶ先に、水が満たされた容器。
産湯に浸けるのだ。
僅かに付着した血液や羊水らしきものを流す。
やわらかな布でちいさな身体の水分を拭い、産着が着せられた。
「……」
ヴァンツァーが瞬きもせずにその様子を目で追っていると、また大きな泣き声が聞こえてきた。
今度はそちらに目を移す。
「男の子も、すごく可愛い子ですよ。女の子よりもちょっとちいさいかな。でも元気もいいし、みんなよく頑張りましたね」
同じように生まれた赤ん坊の体重を量り、産湯に浸からせ産着を着せる。
そこまで済ませると、看護師は赤ん坊をシェラの元へと連れて行った。
ひとりひとり、胸の上に乗せてやる。
「おめでとう」
一心に眼下の様子を眺めていたので、それが自分に向けられた言葉だとは分からず、ヴァンツァーはしばらくしてからゆっくりと振り返った。
「これから君は、あの子たちを護っていくんだよ」
「……」
再びゆっくりと手術台を見下ろし、シェラと産着を着せられた赤ん坊を見遣った。
ふと視線を感じてそちらを見ると、レティシアの視線とぶつかった。
きっとほんの一瞬。
瞬きの後には開腹した部位の縫合に意識を戻すレティシア。
だが、それで十分だった。
彼が何を言いたかったのかは、それだけで分かった。
レティシアの視線につられたのか、赤ん坊を抱いているシェラもこちらに視線を送ってきた。
その口許が、ちいさく笑みの形を刻んだのが見える。
「──仕立て屋」
その様子を見たまま、ヴァンツァーは声を掛けた。
「なぁに?」
「礼を言う」
「何で?」
きょとんとして首を傾げたルウだ。
自分が創り出した世界から戻ってきた時の様子からいったら、怒られこそすれ、礼を言われるとは思えなかった。
ヴァンツァーは振り返り、部屋の出入り口へと向かう。
ルウは、部屋に入ってすぐのところに立っている。
「生きていて良かった」
すれ違い様そう呟くと、ヴァンツァーは部屋を出て行った。
しばらくポカンとしていたルウだったが、何を言われたのかを理解すると、ゆっくりと、それはそれは嬉しそうに笑みを浮かべたのだった。
END.