ソナタが最初に口にした言葉は「あー」とか「うー」以外では「せら」だった。
『せら』とは『セラ』、つまり『シェラ』のことだ。
正しい発音をするのは難しいらしく、しばらくの間ソナタは母を『セラ』と呼んでいた。
そして、それが転じて二歳頃までは「セーラ」というのがシェラの呼び名だった。
カノンが口にしたのは、意外にもヴァンツァーの名だった。
ただ、これも『シェラ』と同様口にするのが難しいようで、「ば、あ!」と口にしたのを、シェラが「お前のことらしいぞ」と指摘してやったのだ。
シェラがセーラと呼ばれたようにヴァンツァーにも何か別の名前がついたかといえば、そうではなかった。
では、どう呼ばれたのかというと──。
「セーラ!」
座っている床をパンパン叩いてソナタは大きな声できゃっきゃと笑う。
もうすぐ二歳だ。
しかもよく動き、よく笑い、よく喋るので可愛くて仕方ない頃だ。
「セーラ?」
リィが首を傾げる。
「シェラって言えないんです」
「あぁ。それでセーラか」
「お前名前が更に美少女になってるぜ?」
レティシアがおかしそうに笑っている。
「私で笑っていられるのも今のうちだぞ」
シェラもクスクス笑っている。
リィ、ルウ、レティシアは顔を見合わせた。
と、ヴァンツァーが人数分のお茶を用意して持ってくる。
「パパ!」
カノンとソナタは、声を合わせてそう言った。
さすが双子。
「ぱ──」
「パパ……?」
「──誰が?」
問われたのはなぜかシェラで、その銀髪の美青年はお腹を押さえて笑っている。
「──……」
三人は再び顔を合わせて── けたたましく爆笑した。
「パパ! パパだってよ!!」
レティシアなど転げ回って死にそうになっている。
「……」
部屋に響く笑い声の理由が自分らしいと分かったヴァンツァーは、嘆息するとテーブルに茶器を置いた。
「よ! パパ!」
起き上がってヴァンツァーの肩を叩いたレティシアは、直後また床をのたうち回 った。
痙攣すら起こしそうな勢いだ。
「なぁ、何でよりによってパパなんだ?」
リィも眦に涙を浮かべて腹を押さえている。
「私と同じで、ヴァンツァー、って言えなくて。最初は『ばあ、ばあ』って呼んでいたのですが……」
「『ばあばあ』が『パパ』になったんだ」
ポン、と手を打つルウ。
「みたいです」
苦笑を返すシェラ。
「パパ! あっこ!」
手を伸ばすソナタを抱き上げてやるヴァンツァー。
「っこ!」
カノンはソナタと一緒がいいらしく、手を伸ばすとそのままペタンと前屈した。
「さすが赤ちゃん。身体やわらかいねぇ」
ルウが感心したように言う。
ヴァンツァーはカノンもヒョイ、と抱き上げ、双子を両腕に抱えてソファに腰を下ろした。
お茶の用意はシェラが代わっている。
「黒すけ。デレデレだなぁ」
リィがからかうように言うが、ヴァンツァーは気にした様子もない。
それどころか「可愛いだろう?」 と言い出す始末だ。
「うん、まぁ、実際可愛いよね」
子供好きのルウが手を差し出すと、ソナタがそれに応えた。
ソナタが動けばカノンも動く。
父親の腕の中から、すっかりふたりとも乗り換えてしまった。
「うわっ、シスコン!」
と、レティシアはまた爆笑を始めた。
「何かシェラと黒すけ見てるみたいだな」
リィが苦笑すると、シェラはきょとんと目を瞠り、ヴァンツァーは静かにコーヒーを飲み、 レティシアは声も出せずに笑う、という様子が展開された。
「ウー、ウー!」
「うわぁ、感激! ぼくのこと分かるんだ!」
カノンに名を呼ばれ、ルウはご満悦だ。
「レティ!」
きゃっきゃという明るい声に、皆一様にそちらに目を遣った。
「レティ、レティ」
はっきりとその名を発音するのはソナタだ。
「──……嘘だ……」
シェラが愕然とした表情で、わなわな震える手をソナタに伸ばした。
「セーラ!」
基本的にシェラが一番好きなソナタは、無邪気にその腕に移った。
やはりカノンも腕を伸ばす。
シェラはカノンも抱いたが、視線はソナタに注がれたままだ。
「ソナタ、もう一回言ってみろ」
レティシアがシェラの背後からソナタを覗く。
「レティ!」
「わお! 聞いたかよ、おい! お嬢ちゃんもヴァッツもまともに呼べねぇのに、俺の名前はっきり呼んだぜ!」
結構嬉しそうな顔と声音だ。
意外とこどもが好きなのかも知れない。
少なくともこう見えてかなり面倒見は良い方だ。
面倒くさがりなので、あまり表に出すことはないのだが。
「レティ!」
「……」
さすがのヴァンツァーも、信じられない、と顔中に貼りつけている。
「レティ、あっこ」
「?!」
子供とは残酷なものである。
あろうことか、ソナタはレティシアに腕を伸ばした 。
「だ……だめだ!」
慌ててきゅっとソナタを抱きしめたシェラだった。
「レティ! あっこ!」
しかしソナタは手足をばたつかせ、必死に腕を伸ばす。
「ソ、ソナタ」
「こらこら。泣いちまうって」
苦笑したレティシアは、ヒョイ、とソナタを抱き上げた。
「っ!」
「……シェラの方が泣きそうな顔してるぞ」
リィが相棒に耳打ちする。
「そりゃあショックだよ。よりによってレティだもの」
「……どーゆー意味だよ」
ソナタを抱く姿は結構さまになっていて、余計にシェラは嘆いた。
「……」
「レティよりルウの方が言いやすいんじゃないか?」
リィが素朴な疑問を口にする。
「俺は暇さえあればここ来てるからな」
「なー」
ソナタが同意するように声を発した。
「お前出入り禁止だ!」
涙ぐんだ顔で、シェラは噛みつくように言った。
「妬くなって」
「妬くに決まってるだろう?! 私の子だ!!」
「ほら、大声出すとちびどもびっくりすんだろうがよ」
確かにソナタもカノンも、大きな目をまん丸にして固まっている。
その言葉にシェラは何も言えなくなり、鋭い眼光だけを送った。
「セーラ」
呼ぶのはカノンだ。
ソナタと一緒でなければ嫌なカノンも、レティシアのところへは行かないらしい。
打ちひしがれている母親が心配なのか、単にレティシアが気に食わないのかは分からない。
「セーラ……」
大きな紫の瞳でシェラの顔を覗き、服をきゅっとつかんでいる。
心配しているのであろうその様子に、シェラは笑顔で「大丈夫だよ」と言ってやった。
するとカノンはほっとしたようにぷっくりと丸い頬を緩めたのだった。
それから、カノンはレティシアが遊びに来る度に可愛らしい顔を一生懸命難しくし、ソナタに抱きついて離れなくなった。
傍から見ると大層仲睦まじく可愛らしい様子なのだが、カノンはカノンなりに必死だった。
大好きなシェラが怒ったり寂しそうな顔をするのも、ソナタがレティシアのところに寄っていくのも嫌なようだ。
それはそうだろう。
生後間もない頃から、何でもかんでも一緒でないと泣き喚いていたくらいなのだから。
実は今でも同じような服装をしていないと気に入らないらしい。
普段はおっとりにこにこしているカノンだが気質はかなりの頑固者で、その辺りはシェラに似たらしい。
レティシアがソナタに手を伸ばすと「めっ!」と手を叩くのだ。
そんなカノンを見て、レティシアはヴァンツァーに言った。
「おい。どっかの誰かのミニチュアがいるぜ?」
「どっちにも似ているが?」
「そういうの、白々しいって言うって知ってるか?」
呆れて目を丸くするレティシア。
「別に構わないだろう。仲が良いのは悪いことではない」
ソナタに抱きついているカノンだったが、ソナタにしてみれば自分と同じ重さが寄りかかっているわけで、かなり重いことは間違いない。
「やっ!」
と、双子の兄を跳ね除けている。
こどもは頭の比重が高い。
突き飛ばされたカノンはそのまま後ろに倒れるが、床に頭をぶつける前にヴァンツァーが支える。
それでもびっくりしたようで、菫の瞳を大きく目を瞠り、次いでたっぷりと涙を溜め、泣き出しそうになったので抱き上げてあやす。
父親の首にしっかりと抱きつく。
カノンの背をポンポン叩いてやりながら、ヴァンツァーはぽつりと呟いた。
「それに、少なくともこいつらは、『もし相手が生まれていなかったら』なんて考えなくて済むんだからな」
双子は、同じ時を誰かと生きることの素晴らしさに、他の誰よりも早く気付くことができるのだ。
「……やっぱ、どっかの誰かのミニチュアじゃねぇか」
苦笑するレティシアの耳に、食事の用意を終えたシェラの、「お前、カノンを泣かせたのか?!」という怒声が響いた──。
END.