妊娠発覚期

冬の終わりのある日。
名残雪の降る夜のことだった。


いつものように食後のお茶を用意したヴァンツァーは、シェラの待つリビングへとそれを持っていった。
半ば指定席と化したソファの背もたれから、銀色の頭が覗いている。
その頭がうなだれているのは、ヴァンツァーの気のせいではない。
彼が仕事から帰ってきた時からこうなのだ。
朝起きたら具合が悪そうだったので、今日は休めとシェラに厳命して家を出たヴァンツァーだったが、自分がいない間に何かあったのだろうかと心配になる。
帰ってきた時に夕飯ができていなかったのも初めてのことだ。
むろん、あまり動き回るなと言ったのは自分なので、それに対してどうこう言う気はないのだが。

「ミルクティーの方がいいだろう」

何があったかは知らないが、刺激の強いストレートティーよりはミルクティーの方がいいはずだ。
シェラの目の前にカップを置くと、「ありがとう」とちいさな声が返る。
表情にも声音にも精彩がない。
ヴァンツァーは僅かに顔を顰めてシェラの右隣に腰掛けた。
軽く足を組み、左腕を背もたれに乗せるがシェラには触れない。
そのまま彼は、シェラに一言も掛けなかった。
何かあったのだろうことは分かっているからだ。
それを話すも話さないもシェラの自由だ。
無理に聞き出す気はない。
聞かれたくないことだってあるだろう。
自分にできることは、ただシェラの隣にいて、話をしたくなったらそれを聞いてやることだけ。
意見を求められれば答えるし、ただ話して気が済むのならばそれでいい。
無言のまま、ヴァンツァーはコーヒーを口に運ぶ。
シェラはカップに手をつけようとしない。
どれくらいそのままで時間が流れただろうか。
沈黙は、時の流れを遅く感じさせる。
いつもは会話がなくともその空気を重苦しく感じることはない。
シェラもヴァンツァーも、必要のないことはしない主義だった。
言葉がなくとも通じ合うこともある。
最近はそういうことが増えた。
もちろん、彼らが諍いをする時の原因の多くは言葉の足りなさだから、会話の必要性も身に沁みてはいるのだが。
と、左肩に重みを感じ、ヴァンツァーはカップを傾ける手を止めた。
カップをテーブルに置くには身体を前に倒さないといけない。
それを避けるため、ヴァンツァーは肘掛の横の台に乗せることとした。
左手でシェラの肩を抱き、空いた右手で銀髪を梳き、そのままシェラの頬に手を添えた。
抗うことなく、透明感のある美貌がこちらを向く。
しかし、菫の瞳だけが逸らされている。

「シェラ」

低い声に甘さとやわらかさを含ませる。
余計逸らされた瞳に、ヴァンツァーは内心で目を瞠った。
甘える素振りにもかかわらず、軽い拒絶を示す理由が分からない。
それは、こちらを誘うような拒み方ではない──少なくとも、シェラは今まで一度もこんな誘い方をしたことがない。

「シェラ?」

呼び掛けると柳眉が寄せられた。
瞳が揺れている。
軽く唇を噛んだのを、ヴァンツァーの指が止めた。

「傷がつく」

口唇をなぞられ、シェラは無言のまま頭を振った。
今度こそ目を瞠るヴァンツァー。
眠くてぐずっているこどものような仕草だ。
癇癪を起こす寸前のようでもある態度に驚きつつも、ヴァンツァーはシェラの白い額に口づけた。
これは拒もうとしない。
まったくもってその境界が分からなかった。
試しに唇を重ねようとすると、肩を押された。
その手を掴み、ソファに押しつけるようにして華奢な身体を押さえ込む。

「やだ……」

言葉とともにもがくが、圧倒的な体格差があるのでどうにもならない。
ただ、ヴァンツァーもそれが分かっているから無理強いをしたりはしない。
その程度の力加減は心得ている。

「い、やだ」

先程までとは違い、はっきりと拒むシェラ。
そのいつになく真剣な様子に、ヴァンツァーは再度驚いていた。
それでも、そんな抵抗などないように上着の裾から手を忍ばせた。
ビクリ、と震えるシェラ。

「や、やだ、やめ──」

唇を塞がれ、言葉を発せなくなる。
その隙に、ヴァンツァーは器用にシェラの服を寛げていく。
シェラの抵抗が大きくなる。

「──あ、赤ちゃんいるんだ!!」

唇が離れた一瞬に、シェラは早口で叫んだ。
ピタッ、とヴァンツァーの動きが止まる。
シェラは肩で息をしている。
そんなシェラを僅かに頭上から見下ろす藍色の瞳は、瞬きもしていなかった。
もしかしたら、呼吸もしていないかも知れない。
息を整えたシェラは、ヴァンツァーに掴まれていた手首を解放させると下腹部を押さえた。

「……赤ちゃん……いるんだ……だから、だめだ」

掠れた声を押し出すように喋る。

「……あか……?」

シェラの言っていることの意味が分からないヴァンツァーは、やっとのことで言葉を発して眉を寄せた。
彼が他人の言葉の意味を解せないというのは、非常に珍しいことだ。

「赤ちゃん……妊娠、してるんだ」

どこまでも真剣な面持ちのシェラは、決して嘘を吐いているようには見えない。
だがヴァンツァーと瞳を合わせようとせず、声もかなり震えている。
怯えている、という表現がしっくりくる。
ただし、それは今しがたのヴァンツァーの行動に対してではない。

「……妊娠?」

お前が? という口調だ。
シェラはちいさく頷きを返す。

「嘘じゃ……ないぞ……?」

泣き出しそうな声に、ヴァンツァーは正直焦った。
疑うつもりはないが、信じられないのも事実だからだ。

「──……どうやって知った?」
「え?」
「男のお前が妊娠していると、誰に言われた? まさか自分で気付いたわけではあるまい?」
「……ルウに……昼間、心配して来てくれて……その時……」

シェラには聞かせないよう、内心深くため息を吐くヴァンツァー。
あの仕立て屋の言葉以上に確かなものがあるだろうか。

「そうか」

それだけ言って、ソファに腰掛け直す。

「……それだけ?」

ゆるゆると顔を上げるシェラ。
菫の瞳にはうっすらと涙の膜が張っている。

「……」

あまり刺激しないよう、そっと肩を抱き寄せる。
その手で頭を撫でてやる。
瞬間、シェラの瞳から涙が零れた。

「……」

ヴァンツァーは何も言わずにただ頭を撫でてやった。

「嘘じゃ、ない……」
「信じてるから、泣かなくていい」
「え?」

シェラの方が『信じられない』といった顔になる。

「嘘だなんて、思っていない」
「……なんで?」

なぜ疑わないのか、と思っていることが分かったので、ヴァンツァーは薄く微笑んでやった。

「別に。──俺は、ただ知っているだけだ」
「……なにを……?」

頬に涙の跡を残したまま、シェラはヴァンツァーの顔を見つめた。
ヴァンツァーは、僅かに視線を下げることでシェラと瞳を合わせる。

「お前は、その必要もないのに嘘を吐いたりしない」
「……」
「少なくとも、俺にバレるような嘘は吐かない。俺は、それを知っているだけだ」

シェラは紫の瞳を丸くした。
また、みるみるうちに涙が溜まり、少女のような顔を歪める。
その頭を引き寄せ、胸に収める。
嗚咽で時折震える肩。
呼吸が定まらない。
細い肩をそっと撫で、反対の手でポンポン背中を叩く。
しばらくそうした後、ヴァンツァーはおもむろに口を開いた。

「──産まないのか?」

何の音もない開放的なリビングに、静かな声は思いの外大きく響いた。
ビクリ、とシェラの肩が揺れる。
ヴァンツァーは同じ言葉をもう一度繰り返した。

「お前がさっきから泣いているのは、産みたくないからでも、妊娠したことを受け入れられないからでもないだろう?」

──信じてる。

ヴァンツァーの言葉が思い出される。

「……いいのか?」
「なぜ?」
「え?」
「まさか実際妊娠するとは思っていなかったが、そうなってもおかしくないようなことはしたからな」

シェラの頬が朱に染まる。

「まぁ、お前の身体のどこに子宮があるのかが気になるところではあるが」
「……あるわけない」
「だからさ。レティー辺りが聞いたら、解剖したがりそうだな」

シェラは思い切り顔を顰めた。

「……お前、友達は選んだ方がいいぞ……」

ヴァンツァーはちいさく笑った。

「あれでも、慣れると結構話せる男なんだ」

それを聞いたシェラが更に眉間に皺を寄せた。

「お前こそ、レティー、レティーって言う……」

呟かれた言葉に首を傾げるヴァンツァー。

「──この赤ん坊がレティシアのこどもだったら、お前どうする?」

藍色の瞳が大きく瞠られる。
そして、しばらく何か考える顔つきになり、やっとのことで言葉を見つけたのか、彼は重そうに口を開いた。

「いい度胸だ、とお前もレティーも褒めるかな……」

シェラに関しては『あの』レティシアと関係を持ったことに対して。
レティシアに関しては自分のものに手を出したらどうなるか知っていて、あえて手を出したことに対して。
ヴァンツァーの言葉を聞いたシェラは目を丸くした。

「……お前も結構いい度胸だな……」

そうか? と不思議そうにヴァンツァーが首を傾げる。
妊娠の話は、もう纏まったらしい。
レティシアがどうとかいうよりも、男が妊娠するということに対する順応性がありすぎることの方が問題ではなかろうか。
非日常をそれと思わなくなってきている自分たちに気付いていないことが一番『いい度胸』だと思うのだが、それを指摘する存在は、幸か不幸か彼らの交友関係の中では皆無だった。  




END.

ページトップボタン