思春期真っ盛り、十五歳のカノンは現在、おそらくこれからの人生でもないのではないか、というくらい、思い切り、
────ヘコみまくっていた。
人に語って聞かせれば、「そんなこと」と一笑に付されるだろうが、それでもカノンにとっては天変地異と同じくらいに──否、天地がひっくり返ってくれた方がマシだと思えるくらいに、重大事だったのだ。
一体、品行方正・頭脳明晰・眉目秀麗・人畜無害(一部に限り)な彼に、何が起こったというのだろうか。
賢明な、この一家のことをよくご存知の読者様にはお分かりかと思うが、カノンの脳内を円グラフにすると、その内訳は実に綺麗なものである。
──シェラ・ソナタ各四十九%、その他の身内・二%────以上。
その他の身内が二%もの巨大なシェアを有するのは、ひとえにその中身の人数が少なくないからだ。
当然といえば当然、可哀想といえば可哀想だが、ヴァンツァーもその二%のうちに含まれる。
しかし、ヴァンツァーの脳内円グラフではシェラがほぼ純度百%なのだから、人のことをどうこう言うことはできないのである。
──あー……つまり、今現在、ファロット家の長男が頭を抱えてソファに沈み込み、暗黒のオーラをその背に負っているのは、大好きな母──若干誤表記あり──か、妹か、どちらかが原因ということである。
ちなみに、その両者は本日揃って外出している。
「──カノン」
低く、同性でも魅力的だと感じる声に顔を上げれば、色彩こそ違えど、自分と同じ造作があった。
「……ありがとう」
父の差し出すカップを手に取る。
にっこりと天使の笑みを浮かべたつもりだったのだろうが、悲愴な青い顔では何の効果もない。
ソファに向かい合うようにして腰を下ろす父子。
ヴァンツァーはコーヒーを、カノンはホットチョコレートを。
「……おいしい……」
ほぅ、と息を吐きカップの熱で手をあたためるカノン。
広いリビングに、沈黙が横たわる。
音のない空間というものは、時間の流れを遅く感じさせる効果がある。
カノンは、茶色い水面を見つめるともなしに見ている。
ヴァンツァーは何も言わないし、訊かない。
話したくなったら話せばいい、というのがこの家における暗黙のルールだった。
特に構いたてることはしないが、そこにいて、必要なときには耳と知恵を貸す。
力──それが物理的なものであれ、経済的なものであれ──が必要ならば、惜しむような真似はしない。
無理に聞き出そうとしても、逆に心は頑なに閉じてしまうことを知っているから。
だから、ヴァンツァーはただそこにいる。
それは、シェラに対しても同じである。
呆れるほど言葉を欲しがるくせに、自分は肝心なことを口にしない天使。
落ち込んだシェラにココアを淹れるように、カノンにはホットチョコレートを。
「……父さんはさ」
ぽつり、と呟く。
声変わりはしたものの、父親ほどには低くない、けれど、シェラよりは少し低めの綺麗な声だ。
「……シェラに、嫌われたら……どうする……?」
幾分言いにくそうな、たどたどしい口調。
ヴァンツァーは、思わずその秀麗な口許に笑みを浮かべた。
「もともと、好かれていない」
それは、常に感じていること──己に言い聞かせていること、と言った方が正しいかも知れないが。
「でも、シェラは父さんと結婚して、ぼくたちを産んだよ」
「違う。お前たちができたから、俺と結婚したんだ」
「──……それは、だいぶ違うね」
はは、っと乾いた笑いを漏らす、まだ幾分あどけない美貌。
「好かれようとも、赦されようとも思っていない」
自分のしたことは、そういうことだから。
ソナタはまだ知らないけれど、カノンは知っている。
両親のかつての世界での仕事、出逢い、──そして、別れ。
「……それなのに、生き返ってきたんだ……?」
言ってみて、すぐに「ごめん」と首を振る。
「……ダメだ、ぼく……今、ひどいことしか言えない……」
カップをテーブルに置き、また、頭を抱える。
自己嫌悪で、目の奥が熱い。
心臓は異様に速い鼓動を刻むし、手足が震える。
「……さいてー……」
何も父の怒りが恐ろしいわけではない。
ヴァンツァーは、怒らない。
「謝る必要はない。本当のことだ」
そう、言うのは分かっているのだから。
けれど、たとえ真実なのだとしても、口にしていいことと悪いことがある。
「俺があれを利用したのは、紛れもない事実だからな」
自虐的な雰囲気などかけらも見せない、淡々とした口調。
カノンは首を振った。
「……だって、父さんはシェラを大切にしている」
「自分のためだ」
何よりもシェラを優先させるのも、可能な限りその願いを聞き届けるのも、そうしたいと心から思うのも、なにもかも自分のため。
結局は、一度目にした光を失うことを恐れる、自分のためだ。
「手に入ることはないからな。──だから、せめて長くとどまってくれるように」
自分のものになることに、限りなく近付くよう。
できるだけやわらかく絡め取って、居心地の良い空間を与えて……罪悪感でも、同情でも、使えるものは何でも使って。
「……シェラは、やさしいよね……」
「だから、つけこまれる」
苦笑するヴァンツァーに、カノンは喉の奥で笑った。
「シェラは、父さんのこと、好きだよ」
見ていれば、分かる。
「憎まれ口たたくし、よく怒るし、扱いはぞんざいだけど……」
それでも。
「好きだよ……。だって、父さんの前にいるシェラ、すごく────可愛い……」
くるくると表情を変えて、感情を表に出して、気丈なのに時々不安そうな顔になる。
罵声なら簡単に出てくるのに、求める一言が言えない。
引いた袖を振り払われることが怖いから、手を伸ばすことを躊躇う。
「すごく、可愛い」
自分よりずっと腕は立つし、頭もいいし、何より経験値が違うシェラだが、息子の目から見ても本当に可愛らしいと思う。
それは何も容姿だけの問題ではなく、男として見ても、とても素敵な人だ。
「……もぉ、ぼく誰に似て、こんな最低な性格になったんだろ……?」
「何をして、ソナタを怒らせたんだ?」
先程シェラとふたりで外出したときには、ソナタは上機嫌だった。
というよりも、ここ最近、ソナタが機嫌を損ねるのを見ていない。
カノンは、銀の頭をふるふると振った。
「……まだ、怒らせてない」
「まだ?」
コクリと頷く。
「……ソナタ、学校でもモテるからさ」
「あぁ」
「男女問わないし」
「だろうな」
「だから、靴箱にラヴレターとか、プレゼントとか入ってるのはザラで……」
「捨てたのか」
さも当然のことのように、ヴァンツァーの口調は静かである。
自分は秋波を送ってくる少女たちに付け入る隙を与えたりはしなかったし、シェラも同じだろうが、普通に学生生活を送っているのだから、告白されることもあるかも知れない。
カノンの性格であれば、大事な妹に近寄ってくる害虫は、陰で駆除していもおかしくない。
手紙や贈り物を捨てるくらい、可愛いものである──すべてヴァンツァーの感覚だが。
「いや……さすがに捨ててはいないんだけど……」
「捨ててない?」
逆に驚いたヴァンツァーである。
だとすれば、別にソナタの怒りを心配する必要もないと思うのだが。
「ソナタに渡しておいて、って言われた手紙、まだ渡してなくて……」
「……」
呆れ返ってしまったヴァンツァーである。
自分の子ながら、何と律儀な性格をしているのか。
「そんなもの、突き返すなり、捨てるなり、自分で渡せと言うなりすればいい」
苦笑したカノンである。
「残念ながら、その手紙そのものも、ぼくの靴箱に入れられてたんだ」
今度こそ、馬鹿馬鹿しいといった感じでため息を吐くヴァンツァー。
「俺は捨てるぞ」
「うん。ぼくも捨てようと思った」
「そうすればいい。手紙も渡すことができないような人間を、気にしてやる必要はないだろう」
「……そうなんだけどさ……何か、その手紙、一生懸命書いたのかな、とか思ったら……」
捨てられなくて、と困ったように笑う。
ヴァンツァーは藍色の瞳を丸くした。
「お前は……」
どこが最低だというのか。
むしろ逆だ──やさしすぎる。
一体、誰の子だったら、こんな子が生まれるのだろうか。
自分もシェラも、そういう意味ではカノンのような親切な性格をしていない。
下手をすれば、自分よりもシェラの方が余程手厳しい。
「そんなことをしていると、疲れるぞ?」
「う~ん……」
すっかり冷めてしまったホットチョコレートに口をつける。
「でも、好きな子に告白するのって、すごく勇気がいると思うんだ」
どう? と訊ねるカノンに、ヴァンツァーは肩をすくめた。
どうやら、肯定の合図らしい。
「だから、つい持って来ちゃったんだけど、やっぱり渡さなきゃいけないかなぁ、って……」
でも、今更渡すと怒られそうだし、と少年は少年なりに深い苦悩を抱えているのである。
「……」
ヴァンツァーは、顎に指を添えて何事かを考えているようだ。
「──カノン、ソナタの機嫌を取る手伝いをしよう」
「え?」
立ち上がったヴァンツァーに、カノンは眉を上げた。
不思議そうに首を傾げる息子に、父は口端を吊り上げる。
「──古今東西、女を釣るには最適な方法だ」
この父親が言うと、非常に頼もしくあるはずなのに、何だかそこはかとない不安を覚えるカノンなのであった。
「──……玄人が伝授する最適な方法って……これ?」
リビングを出てどこへ行くのかと思えばそこはキッチン。
冷蔵庫や倉庫からは新鮮な卵、バター、小麦粉、ココア、砂糖、クーベルチュールチョコレート、収納スペースからボウルやら泡だて器が出てきたところを見ると、お菓子作りをすることは間違いないらしい。
「……父さん、お菓子なんて作れるの?」
広いキッチンに並べられた食材と器具を見て不安に駆られたカノンは、恐々と呟いた。
シェラの料理は絶品だ。
菓子類も、何でも玄人並みに作る。
父の淹れる飲み物は美味だが、甘味を好まないヴァンツァーがお菓子を作る姿は、見たこともないし、想像もつかない。
「まぁ、一通り。必要に迫られて」
「……」
その激動の人生においてどんな必要があったのか、知りたいような、知りたくないような。
「……何を、作るの?」
「ヴァレンタインだからな」
「チョコレートだね」
クーベルチュールの袋を手にし、目線の高さに持っていく。
「それを、ナイフで割ってくれ」
「どれくらい?」
「百グラム。一口大に割って、六十グラムのバターと一緒にレンジで溶かす」
「はい」
計りを使って重さを量るカノンの横で、ヴァンツァーは器用に卵三個分を黄身と白身に分けていった。
黄身と砂糖・生クリームそれぞれ五十グラムを電動泡だて器で混ぜる。
「……父さん、作り方覚えてるの……?」
「一度見れば覚える」
混ぜながら、顔を上げる。
「お前もそうだろう?」
「まぁ……」
それにしても、まさかこの父がお菓子の作り方を覚えているとは思わないではないか。
「チョコレートを溶かしている間に、卵白でメレンゲを作ってくれ」
「砂糖は何グラム?」
「六十。三回に分けて卵白に混ぜるんだ」
「はい」
この家は、双子とシェラの三人でお菓子作りをすることはよくある。
だから、電動泡だて器は双子用にふたつあるのだ。
昔から、カノンはお菓子を作るのが好きだった。
甘くて良い匂いがするし、ソナタもシェラも笑顔になる。
作業そのものも楽しいし、工程が進むたびに形になっていくのも面白い。
カノンが固いメレンゲを作っている間に、ヴァンツァーはレンジから取り出したチョコレートとリボン状に混ぜた卵黄を混ぜ、オーヴンを百七十度に予熱する。
混ぜたチョコレートと卵黄に、ココア三十グラムと小麦粉二十グラムをふるいながら加え、さっくりと切り混ぜる。
「器用だね」
愚問のような気がするが、本当に何でもできる両親である。
「メレンゲができたら、これに三回に分けて混ぜてくれ」
「……難しいんだよなぁ……」
「女の気を引くのは、大変なんだ」
冗談めかす父に、カノンは呆れながれも言ってやった。
「シェラ以外で苦労したことないくせに……」
カノンが生地を混ぜている間に、ヴァンツァーは型にクッキングシートを敷いた。
「できたよ」
「あぁ、良さそうだな」
「分かるの?」
「大体。シェラほど正確ではないがな」
「必要に迫られて、どれくらい作った?」
紫の瞳をきらきらと輝かせる。
好奇心が旺盛なところは、この年頃の少年らしい。
「──企業秘密だ」
生地を型に流し、空気を抜くと、予熱の終わったオーヴンに入れた。
一時間オーヴンで焼くのだが、三十分を越えるとチョコレートの甘い香りが漂うようになる。
それからは二十分、十分とどんどん匂いが強くなり、五分を切る頃には今すぐにでもオーヴンを開けてしまいたい衝動に駆られるようになる。
甘いものが大好きなカノンは、オーヴンの前にじっと佇んでいる。
膨らんでくる生地を見ているのも、成長を見守る親になった気分がして楽しい。
ヴァンツァーは、ダイニングでコーヒーを飲んでいる。
甘味を好まない彼にとって、キッチンの甘い匂いは強すぎるのだろう。
「──やっぱり、ケーキって魔法だよねぇ……」
ほんの少しの小麦粉とココアしか、粉を使っていない。
あとはチョコレートと卵だ。
それなのに、とろりとした生地はしっかりと膨らむのである。
「カノン」
呼ばれた少年は、キッチンのカウンターから返事をした。
「焼きあがったら取り出して、ケーキクーラーの上に乗せて冷ますんだ」
「それで、ガトーショコラのできあがり?」
「あぁ。冷めるまで見ているといい。面白いぞ」
「そうなの?」
わくわくしながら焼き上がりを待ったカノンは、言われた通りにケーキクーラーにガトーショコラを乗せ、ふっくらと焼きあがったそれが冷めるのをじっと見つめていた。
「ただいま~」
弾んだ明るい笑い声を響かせ、ソナタはヴァンツァーとカノンのいるダイニングへと入ってきた。
「ただいま」
その後ろからシェラも入ってくる。
そして、ふたりは甘い匂いに気づいて足を止めた。
「──ケーキ焼いたのか?」
帰ってきたふたりに紅茶をふるまうため、ヴァンツァーは席を立った。
「カノンがな」
「え?! ケーキ?!」
ソナタが藍色の瞳をきらきらと輝かせる。
長い黒髪まで、その艶を増したかのように興奮しているのが分かる。
「……座ってて。切ってくる」
カノンも立ち上がり、ヴァンツァーとキッチンへ向かった。
幾分ソナタの顔を見づらそうではあったが、笑顔でティータイムの準備をする。
ガトーショコラにゆるく泡立てた生クリームを添えて。
「わぁ、美味しそう! これ、カノンが作ったの?!」
「父さんと一緒にね」
「すごぉい!!」
満面の笑みで喜んでくれるソナタに、カノンは胸が痛んだ。
持って帰ってきたまま渡せずにいた手紙は、持って来てある。
「食べていい?」
「もちろん」
ケーキと紅茶がテーブルに並び、同じ美貌の男ふたりがウェイターとして動く。
ガトーショコラをひと口食べたソナタは、言葉もなく、ただ『ふにゃぁぁぁ~』っという感じの笑みを浮かべた。
「し~あ~わ~せ~」
外はサックリ、中はしっとりとしたガトーショコラ。
ほろ苦く、甘さもちょうどいいそれは、シェラが作るものと同じように美味しかった。
「カノンもパパもすごい! すごく美味しい!!」
「うん、これは美味しい」
「良かった……」
ふたりがすっかり食べ終わるのを待ち、カノンはソナタに謝罪した。
「……ごめん。手紙、渡して、って書いてあったんだけど……」
シェラと妹がいなくなったら生きていけない、と自負しているカノンは、ソナタの顔をまともに見ることもできずに手紙を差し出した。
ソナタはきょとんとした顔をしている。
「これ、カノンの靴箱に入ってたの?」
「うん……ごめん」
「え? じゃあ私もごめん」
「……え?」
目をぱちくりさせあう双子。
見つめ合い、コテン、と同じタイミングで首を傾げる。
「私、友達からカノンに渡して、って言われたお菓子とか、全部自分で食べちゃったし」
「……」
「手紙なんか、自分の靴箱も、カノンの靴箱も覗いて捨ててるし」
「……」
「大体、直接告白もできないような根性ナシなんて私は真っ平だし。お菓子も渡せない女の子にカノンあげるなんてもったいなくて嫌よ」
「……ソナタ……」
それでよく女の子たちに嫌われないね、と胸中思ったカノンだったが、彼女がリィたちも含め家族さえいればそれでいいと思っていることは知っているので、何も言わないでいた。
そういえば、時々忘れていまうのだが、ソナタは可愛い顔に似合わず歯に衣着せぬ物言いをする。
「え? あ、あれ? カノン、もしかして欲しかった? だったらやっぱりごめん!」
「……いや、いらないけど……」
「そう? 無理してない?」
「してないけど……」
「……けど……?」
不安そうな顔で見つめてくる妹に、カノンは『仕方ない』といった感じの微笑みを向けた。
「良かったぁ……ソナタに嫌われたら、どうしようかと思った」
肩から力を抜き、ほっとして胸に手をあてる。
「え~? なるわけないじゃない。顔綺麗だし、頭いいし、こんなに美味しいお菓子も作れるし」
それに、とつけ加える。
「同じ日に生まれた双子じゃない。カノンは私なんだから」
嫌いになんて、なるわけない。
「……」
そんなことを当たり前のことのように言う。
不覚にも泣きそうになってしまい、カノンは照れくさそうに頭を掻いた。
「それより! 今日ね、入ったショップですごく可愛いランジェリー見つけてね」
もちろんそこにはシェラも入ったのだろう。
興奮気味に、買ってきたらしい紙袋を手に立ち上がる。
「カノンにも見て欲しいから、部屋行こう?」
「……ぼくは別にいいんだけど……」
普通の女の子は、双子とはいえ、高校生を目前にして兄に下着姿を見せたりするものなのだろうか。
「ファッションショー決行!!」
きゃっきゃと足取り軽く部屋へと向かうソナタを見送り、カノンは苦笑した。
両親を振り返れば、こちらも困ったように笑っている。
「父さん、ありがとう」
「面白かっただろう?」
「──うん。すごく勉強になったよ、ガトーショコラが美味しい理由」
じゃあ、とダイニングをあとにする。
残ったシェラが、ヴァンツァーに不思議そうな顔を向ける。
「何だ、ガトーショコラが美味しい理由って?」
紅茶のおかわりを用意し、自分用のコーヒーも淹れると、ヴァンツァーはシェラの向かいに腰掛けた。
「焼きあがったときはふっくらしていたガトーショコラも、冷めると嵩が減って重厚感を増すだろう?」
「あぁ。焼きたても美味しいけど、あのしっとりした感じがまた美味しいんだ」
それが? と先を促す。
「カノンが、ソナタに悪いことをしたと、随分心配していたんだ」
「さっきのか?」
「あぁ。だいぶヘコんでいたからな」
「──なるほど」
くすくすと笑ったシェラだ。
「ガトーショコラは、ヘコんで美味しくなる。──だから人間も、ヘコんで強くなる」
お前にしては、随分といいこと考えるじゃないか、と茶化す。
「どこの女に教わったんだ、そんなこと?」
悪戯っぽく煌く瞳に、血は争えないな、と嘆息するヴァンツァー。
「……守秘義務があるんでね」
「私に言えないような相手なのか?」
ほれ、吐け、とでも言いたげな口調。
「──きっと、お前の方がよく知っている」
それだけ言うと、ヴァンツァーはソナタの使った皿とカップを下げにキッチンへ向かった。
その後姿を見送って、シェラは何か気づくところがあったのか、
頬杖をついた。
「……ふぅん……」
あの男は、何かというと彼女の話題を出す。
それが嫌なわけではない。
彼女の人柄は、好ましい。
けれど……。
「一番初めにお前の世界に差し込んだ光は……彼女なのか……?」
END.