寝起きは抜群に良いシェラだったが、そのときはどうしたらいいものか、しばらく沈思黙考した。
じっとこちらを見つめてくるヴァンツァーは、当然のような顔をして裸体を晒している。
「……」
上半身だけとはいえ、非常に目のやり場に困るのだ。
ひと目でヴァンツァーだと分かったとはいえ、さすがのシェラも『女性』の裸を凝視するような悪癖は持っていないのだから。
そうは言っても、真っ白な肌に漆黒の髪が流れ落ちる様は、それだけでどこか官能的な雰囲気を醸し出す。
緩やかに波打つ髪が、白い肌に這う蛇のように見えるからだろうか。
気を抜くと見惚れそうになってしまい、シェラはふるふると頭を振った。
「──着ていろ」
そう言って、ローブを渡す。
ヴァンツァーは不思議そうな顔をして首を傾げている。
視線ひとつで男を虜にできる、震いつきたくなるような『美女』が浮かべるにしては、随分とあどけない印象すら与える表情。
外に出るわけでもないのに、どうしてそんな窮屈なものを着なければならないのか、とはっきり顔に書いてある。
一歩外に出ようものなら、苦しくないのか、と訊きたくなるほど襟元まできっちりと留めている男が、だ。
一言も発していないヴァンツァーの表情を正確に読み取ったシェラは、「いいから」と若干苛立ちながらローブを押し付けた。
不承不承といった感じで袖を通し、腰紐を結ぶ美女。
豊かな胸がローブの隙間から零れ落ちそうで、シェラは深く、深くため息を吐いた。
「……私のときと、随分違うぞ……」
ボソッ、と呟かれた言葉は、どうやら彼が女性になってしまったときの身体と比べてのものらしい。
想像はしたことがある。
この男が女性であったならば、豊かな胸、細い腰、すらりと伸びた長い手足に妖艶な美貌を持った、極上の美女になるに違いない、と。
男であるときから妍麗なまでの造作を誇っていたのだから、それが女性になろうものならば本当に国のひとつやふたつ滅ぼしてしまいかねない、と。
そして、実際には想像以上の迫力美人ができあがってしまった。
ぶつくさと文句を言いつつ、あまりヴァンツァーの方を見ようとはしないシェラ。
ヴァンツァーは一瞬考えるような素振りを見せると、そんなシェラに向かってすっと身を乗り出した。
シェラの身体の横に両手をつき、下から、掬い上げるようにして少女のような美貌を覗き込む。
ほとんど反射的に、近寄られた分だけ身を引くシェラ。
その分にじり寄るヴァンツァー。
さすがに特注したスーパーキングサイズのベッドはそれくらい動くのには何の支障もない。
「……な、何だ」
下方にあるヴァンツァーの顔を見ようとすると、自然と胸に目が行く。
女性ならば誰もが羨むに違いない、形も大きさも申し分のないそれ。
いけない、と思って僅かに視線を上げると、ぴたり、と藍色の瞳とぶつかった。
びくっ、と肩を震わせるシェラに、ヴァンツァーは、それはそれは、魅力的な微笑みを浮かべた。
にこやかだが、どこか影のある微笑。
華やかなのに、憂いを帯びた美貌。
「──……」
みるみるうちに、シェラの頬が赤く染まっていく。
「──なるほど。こういう女が好みなのか」
毒の滴るような美しい笑みを赤い唇に刻み、ヴァンツァーはぽつり、と呟いた。
常の彼に比べればずっと高くなった、それでいて落ち着いている深みのある声音。
ヴァンツァー自身は己の声の変化に若干顔を顰めた。
だがシェラは、と言えば、今にも眩暈を起こしそうに目を白黒させている。
そんなシェラを興味深げに見つめ、目許の笑みを深くする。
緩く口端を吊り上げているだけなのに、どうしてこうも自分の心臓は煩く騒ぐのか、とシェラは思わず胸に手をやった。
その手に自分の手を重ね、ヴァンツァーはそっとシェラの表情を窺った。
そうして、もの言いたげな視線を寄越したのだ。
「……」
並みの男ならば理性を吹き飛ばしただろうが、シェラは違った。
ぴたり、と思考を止めてしまったのだ。
くっ、と喉の奥で笑う癖は、いつものヴァンツァーと変わらない。
男であったときはじゃれついてくる大型犬のようだ、と思っていたのに、女性になると同じ擦り寄る仕草でも猫のように思えるから不思議だ。
──いや、猫というか……。
そんなことをぼぅ、っと考えていると、視界が急速に動いた。
背中にやわらかな寝具の感触。
「──……おい」
自分の身体に乗り上げるようにして、黒髪の美女が覆いかぶさっている。
「何のつもりだ」
「抱いてみるか?」
「──……は?」
「女を抱いたことはないんだろう?」
「……」
「具合のほどは知らんが、──まぁ、そう悪いということもないだろう」
シェラは絶句して頭を抱えた。
「……お前、こんな朝っぱらから何を考えている……」
どうやらかなり錯乱しているらしい、と勝手に見当をつける。
現在時刻は午前六時。
冬のこの時期外はまだ暗く、日の出までは時間がある。
とはいえ、朝である。
さわやかな早朝なのだ。
休日だが、子どもたちもそろそろ起きる頃だろう。
「──あ」
そう考えて、シェラははっとした。
「……あの子たちに、何て説明すればいいんだ……」
「説明?」
「お前の身体のことに決まっている」
「説明する必要があるのか?」
「は?」
「そもそも、何か説明できることがあるのか?」
「……それは……」
口ごもるシェラに、ヴァンツァーは軽く嘆息すると身体を離した。
「──まぁ、これである意味正しい夫婦になったわけだ」
言って、長い髪を鬱陶しそうにかき上げた。
身体構造の変化がこんなところにまで表れてくるのは興味深いが、何も自分の肉体にばかり起こらなくてもいいと思う。
「……」
愕然とした表情になるシェラ。
ヴァンツァーは問いかける視線を向けた。
「……私たちは夫婦だったのか……」
「……」
ポツリ、と漏らされた言葉に、片方の眉を持ち上げる。
「俺は傷つけばいいのか?」
「……あ、いや……そうじゃなくて……」
何と言えばいいのか分からず、眉を寄せ、腕を組んで考え込んでしまう。
もともとあまり表現をすることが得意ではない。
自分の言葉で自分の気持ちを話すことは、とても苦手だ。
「──悪い……」
しばらく考えても言うべき言葉が何も思いつかず、諦めたように頭を下げた。
これには嘆息したくなったヴァンツァーだが、そうすればシェラは余計に口を閉ざしてしまうことが分かるから、「何が?」と訊ねた。
「……気分を悪くしたなら、謝る」
もう一度、ぺこり、と頭を下げる。
「傷つけるとか、そんなつもりはなくて……ただ、夫婦だったのかぁ、と思っただけで……」
ふるふる、と頭を振るシェラ。
今の言葉も違う。
本当に、何と言えばいいのだろうか。
頭の中はぐちゃぐちゃで、無意識のうちに髪をかき乱していた。
ヴァンツァーは、そんなシェラの手を頭から退けさせ、髪を整えてやった。
指通りの良い、真っ直ぐな髪だ。
細くて、やわらかい。
今の自分の髪も、長くてやわらかだ。
それでも、緩く癖があって真っ直ぐではないし、手触りもだいぶシェラのものとは違う。
やはりシェラの髪は好きだな、と思い、二度、三度と撫でる。
自分が頭を撫でられているわけでもないのに、こうしていると、ささくれ立った心も落ち着いてくるから不思議だ。
人を可愛がる、という行為は、それ自体に癒しの効果があるらしい。
だからか、問い掛ける口調も、自然とやさしいものになる。
「何だと思っていたんだ?」
「え?」
「夫婦だとは思っていなかったんだろう? それならば、何だと思っていた?」
「……」
あぁ、そういう表現の仕方があったのか、とシェラは妙に納得した。
そうなのだ。
夫婦であるつもりがなかったのではなく、自分たちの関係を夫婦と呼ぶのだと思っていなかったのだ。
やはりこの男はすごいな、と頭の片隅で思う。
そうして、考える。
「……友達でも、恋人でもないと思う……」
夫婦でないなら何なのだ、と訊かれても、やはり首を傾げてしまう。
そもそも、名前をつけて考えたことがないのだから。
かつては、同業でありながら命を奪い合う関係だった──たとえ、それがシェラにとって不本意なものであったとしても。
そして、生き返ってきてからは、学生という身分であったり、一緒に生活する同居人であったりした。
仕事を始めてからは雇用主と従業者であり、同時に、仕事仲間でもあった──これはある意味、かつての関係に戻ったと言えるのかも知れない。
そして、子どもが生まれ、籍を入れた今は、夫婦というよりも……。
「──家族、じゃ……ダメなのか……?」
不安気に、ヴァンツァーの表情を窺うようにそう答えるシェラ。
美女になった美青年──四十過ぎても彼らの外見は『青年』だった──は、ふっと微笑んだ。
「何でもいい」
「え?」
驚いた顔をするシェラに、ヴァンツァーはもう一度「何でもいいんだ」と答えた。
「正解があるわけじゃない。──ただ、お前がどう思っているのか聞きたかっただけだ」
「……」
我知らず、シェラはその菫の瞳を潤ませた。
こういうところが、ヴァンツァーに敵わないところなのだ。
自分は、何か考えを口にしたり、答えを出そうとするとき、それが正解でないといけないのだと思い込んでしまっている。
正しい答えでなければ、切り捨てられるのだ、と。
だから、想いを言葉にすることが、とても怖い。
口にした言葉を否定されれば、そのまま自分の想いを否定されてしまうから。
──けれど、ヴァンツァーは違う。
まるごと、そのままを受け止め、受け入れてくれる。
──……何て、大きい……。
悔しくて、でも嬉しくて、堪えようと思っていた涙が零れてしまった。
そっとその雫を拭ってくれる仕草は、いつもと同じ。
ただ、女性の指はずっと細くて、頬を覆ってくる手がやわらかい。
「……泣かせると、子どもたちに怒られる」
苦笑したヴァンツァーは、いつものように眦に唇を落とした。
身体の構造は変わっているはずなのに、なぜか唇の感触は同じで、シェラは瞳を閉じて大人しくその行為を享受していた。
仕上げのようにぺろり、と涙の跡に舌が這わされ、ほんの少し、シェラの身体に力が入る。
離れていく顔をそっと窺い、顔を伏せるとシェラは相手のローブの袖を引いた。
「ん?」と視線だけで訊いてくるヴァンツァー。
言わなくても分かっているくせに、こういうところがとても意地悪なのだ。
「……キス……」
してくれたら、子どもたちに便宜を図ってやらないこともない。
ヴァンツァーはゆったりとその美貌に笑みを浮かべた。
「じゃあ、お願いしようかな」
言って、シェラの頤に手を添える。
滑らかな肌の感触を楽しみ、ゆっくりと顔を寄せていく。
──と。
コンコン、というノックの音と、「入るよ~」という声が、ドアの開く音と同時に聞こえた。
「──……わーお」
寝室の扉を開けた長女は、ベッドの上の光景を見るなりそう漏らした。
そうして、キスする直前で身体を止めたふたりに向かってこう言ったのだ。
「……パパって、変身癖でもあるわけ?」
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