────『アリア』
ふわり、と浮上する意識。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
二、三度瞬きをし、息を吐く。
隣で眠る人物を起こさないように、静かに起き上がった。
──やはり、な。
零れそうになるため息を呑み込み、くしゃり、と短い髪に指を梳き入れる。
「……」
薄暗い寝室で、どれくらいそうしていただろうか。
身じろぎする気配に、視線を向けた。
枕に腕を置き、うつ伏せになって眠っていたシェラが、瞬きを繰り返した。
そうして、顔だけを少し、持ち上げる。
菫の瞳と藍色のそれが絡み、菫の方が逸らされる。
枕に沈み込むように力を抜いたシェラ。
しばらく、沈黙が室内を支配した。
「……夢を、見た……」
呟いたのは、シェラだった。
「どんな?」
何となく、返ってくる言葉は分かっていた。
「……お前が、……女性になる夢」
「俺も見た」
「そうか……」
そうして、また短くはない沈黙。
「お前が女性になって……女物の服を買いに行ったり、家族写真を撮ったり……」
「昼間は着せ替え人形になって、──夜はお前に抱かれたな」
くすり、とヴァンツァーが笑う。
シェラも、少し喉を震わせた。
「なかなか、可愛かったぞ」
「服が?」
「どっちも、──って、言っておいてやるよ」
「どうも」
ちいさく笑い合うと、シェラは仰向けになった。
そうしてまた、口を開く。
「……子どもも、できたんだ」
「あぁ、そうだった」
「『アリア』って……やっぱりお前が考えた名前の子……」
「生まれるところは、見られなかったな」
「……」
黙り込んでしまうシェラ。
もともと、沈黙は苦にならないから、ヴァンツァーは黙っていた。
──けれど。
「……シェラ?」
沈黙の向こうに、押し殺した息遣いが聞こえてきて心臓が跳ねた。
顔を向ければ、長い銀色の髪が見えるだけ。
背を、向けられてしまっている。
「……シェラ」
背を向けて、息を殺して泣いている。
「シェラ」
だから、そっと背中から抱きしめた。
一瞬、細い身体が強張る。
それでも抱きしめる腕に力を込めれば、ほんの少し、嗚咽する声が大きくなった。
しばらく、そのままでいた。
こんな風に我慢して泣いて欲しくはなかったけれど、ヴァンツァーは待った。
そうするうちにシェラは身を翻し、声は殺したままだったけれど、ヴァンツァーに縋るようにして泣き出した。
頭や背をやさしく撫でてやる。
どうしてこの銀色が泣いているのかは分からなかったけれど──だからこそ、彼はただ、黙って背中を撫でてやった。
「……そんなに、女の俺の方が良かったか?」
半ば冗談で、苦笑交じりにそう訊いた。
反射的にシェラの顔が上がり、きつく眉根を寄せるとまた俯いてしまった。
すぐにふるふる、と首が振られる。
「それなら、夢で何か嫌なことでも?」
おそらく、同じ夢を見ていたのだろう。
けれど、まったく同じものかどうかは分からない。
自分にとっては存外幸福な夢であったけれど、それがシェラにとっても同じとは限らない。
だが、返ってきたのはやはり否定の仕草だった。
「なら、どうした?」
子どもをあやすように、ぽんぽん、と頭を叩く。
また、ふるふると振られる頭。
まだ嗚咽は止まらないというのに、『何もない』と言い張る。
ちいさく笑い、「シェラ」と呼べば、「何でもない」と涙に濡れた声が返ってきた。
「何でもないのに、泣くのか?」
「……そういう日もある」
低く喉を震わせれば、背中に腕が回された。
「シェラ?」
「……だから、何でもない」
「俺には、言いたくない?」
少し考え込んだあと、シェラはぽつり、と呟いた。
「……きっと嫌な思いをする」
「俺が?」
こくん、と頷く銀の頭。
「しないから、話してくれ、と言ったら?」
「そんなわけない」
「分からないだろう?」
「分かる」
シェラは意外と頑固だから、一度決めるとなかなか考えを翻さない。
強情で泣き虫な銀色の口を割らせるのは、想像以上に難儀することなのだ。
「……それでも、どうしてお前が泣いたのか聞きたいと思うのは、俺の我が儘かな?」
「……」
ヴァンツァーの胸に額を押し付けたまま、シェラの顔が歪む。
「理由も分からず泣かれているのも、結構こたえるんだ」
「……」
言った途端に身体を離そうとしたシェラを、強引に引き寄せる。
こんなときなのに、思わず笑いそうになってしまう。
この銀色のことだから、絶対にそうすると思ったのだ。
「独りで泣かれるのは、もっとこたえる」
「……」
じゃあどうしろと言うんだ、と言いたげに、シェラの眉が寄る。
「話せばいい」
「……だから、嫌だ」
「怒らないから、話してごらん」
この言い方では、まるでぐずっている子どもを宥める父親だ。
実際似たようなものだけれど、シェラは「だから嫌なんだ」と呟いた。
「シェラ?」
「お前はきっと、怒らない」
「だったら」
「だから、嫌なんだ」
意味が分からず首を傾げるヴァンツァー。
もう、だいぶシェラの呼吸は落ち着いてきた。
とはいえ、理由を知りたい、と思う気持ちに変わりはなかった。
「シェラ?」
「……お前は……おこらな──っ……」
再び、瞳にいっぱいの涙が浮かぶ。
せっかく泣き止みそうになったかと思ったのに、また振り出しだ。
それも、どうやら自分の発言が原因らしい。
「シェラ……」
心底困ってしまって、どうしたものか、と思案した結果、彼はこう言った。
「──怒る」
短くそれだけ言うと、シェラの顔がゆっくりと上げられる。
ぽろぽろと零れる涙を指で拭い、唇で啜った。
「お前が言うことで腹が立ったら、怒る」
「……」
「それなら、いいんだろう?」
「……」
本当に子どもを相手にしているようだけれど、この一言が一番効果的だったらしい。
「……本当だな……?」
「あぁ」
「約束、だぞ……?」
「約束しよう」
「……」
それでもしばらく迷っているように視線を彷徨わせたシェラは、ヴァンツァーの胸に手をつくと、ゆっくりと起き上がった。
ヴァンツァーも、それに合わせて身を起こす。
向かい合うようにして、ベッドの上に座っている。
ぐいっ、と頬を拭うシェラ。
ヴァンツァーはもう、何も言わなかった。
決めたことなら、何度も促さなくてもシェラは口を開く。
あとは、待つだけだ。
「……いんだ」
ごくごくちいさな声でささやかれた言葉。
耳はかなり良い方なのだが、ヴァンツァーにも聞き取れないほどにちいさなささやき。
だから、聞き返した。
するとシェラの眉がぎゅっと寄せられ、もうどうにでもなれ、という風に声が大にされた。
「──子どもが欲しいんだ!!」
思わずきょとん、としてしまったヴァンツァーだ。
「子ども……赤ちゃん、……欲しいんだ……」
再びどんどんちいさくなっていく声。
同時に、とめどなく溢れる涙。
ベッドの上でちいさくなり、肩を震わせて泣いている。
その姿が叱られることを恐れているちいさな子どものようで、ヴァンツァーは思わず抱きしめてしまった。
驚きに瞠られる紫の瞳。
「ヴァン……?」
自分を抱きしめている相手の身体が震えていることに気づいたシェラが、怪訝そうな顔になる。
「……笑っているのか?」
答えは返らなかったけれど、間違いない。
腹を抱えそうなほど、けれど声を殺して──出せないだけかも知れないが──大笑いしている。
「……何で、笑うんだ?」
訳が分からず、いつの間にか涙は止まってしまった。
ひとしきり笑ったヴァンツァーは、正面からシェラと顔を合わせた。
やはり目の前の美貌が微笑んでいるので、シェラは戸惑うばかりだった。
「何で怒ってないんだ……」
約束が違うじゃないか、とでも言いたげな顔に、やはり笑いそうになる。
笑いそうになる衝動を誤魔化すために、ヴァンツァーは口を開いた。
「それは、俺の子でなくてもいいのか?」
「──そんなわけあるかっ!!」
冗談じゃない、と激昂する様子に、ゆったりと唇を持ち上げた。
女ならば誰でも、時には男ですらも虜にしてしまう極上の微笑みだ。
我知らず、シェラの頬も赤く染まった。
「だろう? なのに、なぜ怒る必要がある?」
「……だって、私もお前も男なのに……」
子どもが欲しいんだぞ? と言えば、「だから?」と返されてしまった。
「一度起きたことが、二度と起こらないとは限らない」
「……でも、今までは……」
双子を産んでからも身体の関係はあった。
避妊具だとて、使うときもあれば使わないときもある。
それでも、その後一向に子どもができる様子はなかった。
「だから、──また、できるかも知れないだろう?」
言いながら、シェラをシーツの波間に押し倒す。
「協力するよ」
「……」
「嫌なのか?」
「……」
答えなど分かっているくせにそんなことを訊いてくる男の唇に、シェラはかぷっ、と噛み付いてやった。
「……どうせなら、お前によく似た女の子がいい」
そう言うシェラに、ヴァンツァーは一瞬思案顔になった。
「俺が言うのも何だが、──……苦労するぞ?」
思春期には心労が絶えそうもない。
きっと、思春期を過ぎたら、もっと心労の種が増えるに違いない。
「でも、──きっと、素敵な恋もするよ」
「……」
「孫とかひ孫とかたくさんできて、老後はその子たちに囲まれて暮らすんだ」
悪くないだろう? と笑うシェラに、「そうだな」と返す。
本当は、これもすべて夢なのかも知れない。
自分が生き返ったことも、この銀色と想いを通わせ合ったことも。
そういう夢を見ているだけで、実は自分は冷たい土の中にいるままなのかも知れない。
──独りきりなのかも、知れない。
「……ありがとう」
けれど、それでもいい。
「ヴァンツァー?」
夢でも構わない。
たったひと時、幸福な夢を見ているのだとしても。
いつか覚めてしまうのだとしても、それで良かった。
「ありがとう」
今はこうして、腕の中にぬくもりを感じることができるから。
作りものの器でも、命でも。
こうして、笑っている銀色を見ることを赦されるのなら。
「──幸せだよ」
口づければ、穏やかな微笑みと、「私もだ」という言葉が返る。
もう、それだけで良かった。
あとはどうか、この銀色と子どもたちに幸福を。
自分の取り分などあるのかどうか分からないけれど、もしあるのだとしたらすべて。
「──お前が、いるからな」
「……」
「お前と、子どもたちがいるから、幸せだよ」
「……」
ちいさく笑う。
どうやら自分は、思っていたよりもかなり欲張りらしい。
──もう少し。 生きていたい。
まだ、この銀色や子どもたちと、一緒にいたい。
できることなら、もう少し。
──夢ならば、まだ……覚めるな。
「──大変だよ!」
「パパがママで、ママが赤ちゃんなの!!」
今日も、賑やかで穏やかな、一日が始まる────。
END.