苺とホッチョコ

ヴァンツァーは、多忙だ。
今更確認するまでもない。
まだ二十代の頃に構えたオフィスは、超一流企業が軒を連ねる界隈にある。
半ば以上趣味でしているデザイナーの仕事も、経営者としての仕事も、波に乗っている。
彼がデザインする服や宝飾品は、材料に本物しか使わない。
かなり入手は困難なのだが、いつの時代も変わらぬ価値というものを求める客は多い。
フルオーダー製の商品だから数をこなすことはできないのだが、その分そこに価値を見出してやってくる客もいる。
寝食を忘れるとこっぴどく叱られるため、休息の時間は取るようにしている。
それでも、ヴァンツァー・ファロットという男は、かなり多忙なのである。

「……」

そんな多忙な男が、操作していた端末からふと顔を上げ、デスクの上にある時計に目を走らせた。
──時刻は、三時五分前。
彼はおもむろに席を立った。
執務室のドアを開け、忙しく職員が行き交うオフィスへ脚を踏み入れた。

「──あら、ヴァンツァー」

きっちりと髪を結い上げた、少しきつめの美貌をした女性が立ち止まる。
手には前が見えなくなるほどの布地。
ピンヒールにタイトスカートを履いているというのに、そんなものはないかのようにきびきびと動く姿が気持ち良い。

「ちょうどいいわ、あなた──」
「外出する」

にっこりと笑って話しかけたエマは、男の短い言葉に一瞬呆けた顔を晒した。

「……え?」
「外出する」

ちらり、とエマの顔を一瞥すると、ヴァンツァーは何事もなかったかのようにスタスタと歩き出した。

「ちょっ──あなた!」

大量の布地を持ったままヴァンツァーの前へと回り込んだエマは、形の良い眉を吊り上げた。

「外出って、今日そんな予定あった?」
「今できた」
「行き先は」
「そう遠いところではない。すぐに戻る」

何となく話が見えてきたエマは、目許をひくつかせながら訊ねた。

「……理由は」

訊ねられ、逡巡した後美貌の男は返答した。

「──三時だからな。美味いケーキが食べたくなった」
「嘘おっしゃい! あなた甘いものダメじゃないの!!」

本当はただ単にシェラがいる家に帰りたくなっただけのくせに!! と息巻くエマに、ヴァンツァーは呆れた表情を返した。

「分かっているなら聞くな」

しれっと言い切った男に、エマは腕の荷物のせいで痛む頭を抱えることもできず、声を押し出した。

「……じゃあ、その前にこれ、運ぶの手伝ってちょうだい」

『これ』とは、言うまでもなく彼女の腕の中の布地だ。
足取り確かに歩いているとはいえ、女性にこの荷物を持たせるのは酷だった。
しかもエマのような美女がそれを抱えているとなれば、普通の男は何も言わずとも手を貸すというものだ。
ヴァンツァーは、ちらり、と自分がデザインしたものに使われる布地を見遣った。
そうして、一言こう言った。

「一度で運べないなら、二度に分けろ」

絶句して立ち尽くすエマの脇を通り抜け、オフィスの入り口へと向かう。

「──あれ。お出かけですか?」

入り口付近で、今度はレオンと出くわした。

「……あぁ」
「今日、外出の予定、ありましたっけ?」
「急用だ」

エマが聞いたら「──急用じゃなくて、『休養』でしょうが!」と怒鳴ったに違いない。
しかし、そんなことは知らないレオンはにっこりと人好きのする笑みを浮かべた。
さすが、このオフィスで『癒しの人』と呼ばれるだけのことはある。
ほっとする笑顔だ。

「行ってらっしゃい。お気をつけて」
「あぁ」

こうして、ヴァンツァーはオフィスを出ると、最高性能のエア・カーに乗って自宅へと飛ばした。


「──あれ」

驚いたのはシェラだ。
止めなければそれこそ何時間でも働いているような男が、こんなに明るいうちから自宅へと戻ってくることはない。
玄関の開く気配に子どもたちが帰ってきたのかと思えば、違ったらしい。

「どうかしたのか?」

ダイニングへと入ってきたヴァンツァーは、立ち込める甘い匂いに若干顔を顰めた。

「──悪い。今、換気する」

換気扇は回っているのだが、それ以上に焼き上がり直前のケーキの匂いが強いのだ。
キッチンの窓も開け、冬の冷たい空気が流れ込んできて、シェラはちいさく首をすくめた。
それに目を眇めたヴァンツァーは、ケーキに盛り付けるのとは別に器に入れられた苺に目を留めた。

「それは?」
「え? あぁ。たくさんあるから、ちょっと味見しようかと」
「子どもたちが帰ってくる前に、か?」

くすっ、と笑うヴァンツァー。
苺が大好物の双子がいては、味見の分まで取り合いになってしまう。

「さっき一粒味見したら、甘くて美味しかったから……」

もうちょっと食べたくなっちゃって、と困ったように笑う。

「──座っていろ」
「ヴァンツァー?」

苺の器をシェラに持たせ、リビングへ行くように促す。

「そんなことより、お前どうして──」
「後だ」

有無を言わせない口調に、シェラは渋々リビングへ向かった。
広いリビング、ふたりで座ってもかなり余裕のあるソファに、ひとり腰を下ろした。

「……まったく……元気なら、いいけど……」

ブツブツと呟いて苺に手を伸ばす。
大粒の苺のヘタを取り、そこから半分ほどを口に入れる。
じゅわ、っと甘い果汁が口内に広がる。 思わず、頬が緩む。
もぐもぐと咀嚼し、残り半分も味わう。
もう一粒、と手を伸ばし、ふと考える。

「……あいつも、食べるかな……?」

ケーキは苦手だから、せめて果物くらいは。
その果物も、そう食べるわけではないけれど。

「苺は……嫌いじゃなかったよな……?」

そう思い、手を引く。
タイミング良く、ドアが開いた。
目を向ければ、マグカップを手にしたヴァンツァー。
音もさせずに歩く男は、おそらくカップの中身ですら波立たせていないはず。
すぐ横に腰を下ろし、ソファが沈み込む。

「苺には、これが合う」

そう言って渡してきたカップの中身は、

「──ホットチョコレート?」

ちなみに、カノンの大好物だ。
あたためたミルクと、チョコレートの甘い匂い。
キッチンに立ち込めるチョコレートの匂いも相当なものだったと思うが、よくこの男があのキッチンでこれを作ったものだ。

「……お前、気分悪くなってないか?」
「いや」
「そうか──って、お前も飲むのか?」

シェラに渡したものに比べたら少量ではあるが、ヴァンツァーの持つカップにも同じく茶色の液体。

「まぁ、こんな日だからな」
「……」

二月十四日。
チョコレートに想いを込めて贈る日。
製菓メーカーの陰謀とはいえ、この日は普段口にすることを躊躇ってしまうようなことも、素直に言えてしまえたりする。

「……ありがとう」

ボソッ、と呟くと、微かに笑む気配がした。
何だか気恥ずかしくなって、シェラは熱い頬を蒸気で隠すようにカップを傾けた。
身体を内側からあたためてくれる、やさしい甘さ。
ほっと息を吐くと、目の前に苺が差し出されていた。

「……え……」
「苺とチョコレートは、最強の組み合わせだそうだ」

それはカノンの口癖なのだが、シェラはやはり「え?」と呟いた。

「ほら」

ヘタを取り除いた苺を、シェラの口許に宛がう。

「……自分で食べられる」
「俺の手からの方が、甘い」
「……」

どんな台詞だ、とぶつくさ文句を言いながらも、シェラはちいさく口を開けた。
下唇に、微かにヴァンツァーの指が触れる。
一口では食べ切れず、半分ほどを齧ると、果汁がヴァンツァーの指を伝った。

「あ……わる──」

テーブルにカップを置き、布巾を取ろうとして止められる。

「いい」

そのまま、ヴァンツァーは残りの苺を自分の口に入れ、指に伝った果汁も舐め取る。

「……」

目を伏せて行われるその仕草が何だか淫靡で、シェラは思わずじっとその様子を眺めた。
気づいたヴァンツァーが、藍色の視線を流す。
はっとし、慌てて顔をそむける。

「──シェラ」
「……」

苺よりも、チョコレートよりも甘い声で呼ばれ、顔を向けられないままでも耳まで赤く染まっている気がした。

「シェラ」

もう一度呼ばれても、何だか恥ずかしくて返事もできない。
そうこうするうちに、脚に体重がかかった。

「え──」

見下ろせば、ヴァンツァーが太腿の上に頭を乗せている。

「こ、こら!」
「寝る」
「寝るなら寝室へ──って、お前、仕事は?」
「たまには休息も必要だ」
「それはそうだけど……」

シェラがあたふたとしている間に、規則的な寝息が聞こえてきた。

「……嘘だろう……?」

どんな寝つきの良さだ。
しかし、寝たふりをしているようには見えない。
静かで、規則的な呼吸音。

「……」

余程疲れていたのか、と思い、額にかかる黒髪を指で払った。

「……」

この男の漆黒の髪は、見た目とは違って大層指触りが良い。
一度梳き始めると、癖になってしまう。
だから、シェラはどこか一心に眠るヴァンツァーの髪を梳いた。

「──おやすみ。良い夢を」

ささやくと、秀麗な口許が微かに笑みを刻んだ気がした。


「「ただいま~」」

玄関で元気良く帰宅の挨拶をし、ダイニングへ急ぐ。
今日はシェラがチョコレートケーキを焼いてくれているはずだ。
苺を山のように乗せた、チョコレートケーキ。
想像しただけで幸せな気分になる。
しかし、帰宅した双子はキッチンにもダイニングにも誰もいないのを確認し、おや? と思った。
リビングへのドアを開けたカノンは、一瞬固まった。

「──……部屋へ行こう」
「え? どうして?」

静かにドアを閉めてしまった兄に、ソナタは不思議そうな顔で首を傾げた。

「馬に蹴られる」

ピン、ときたソナタだ。

「なぁに。こんな真っ昼間からソファの上でヤっちゃってるの?」
「……ソナタ……」

カノンは今見た光景よりもひどい頭痛の種に頭を抱えた。

「もうちょっと表現を変えてくれないと、お兄ちゃん心配……」
「大丈夫よ。私、人の濡れ場覗く趣味ないから」
「……そういうことじゃなくてね……」

はぁ、と深いため息を吐いたカノンは、妹に言った。

「それに、濡れ場じゃないんだ。────膝枕してもらってるだけ」

だけ、をかなり強調すると、ソナタははっきりしない味の食べ物を味わうような顔つきになった。

「……それって、ある意味、濡れ場より恥ずかしくない……?」

こっくり、とそれはそれは重々しく、カノンは頷いたのである。

その日、外出の旨を告げたヴァンツァーが『No Return』になったことは、言うまでもない。  




END.

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