三月三日の雛祭りが終わりを告げ、ちょうど日付が変わった頃、シェラはリビングへ大きな箱を運んできた。
むろん、雛飾りをしまうためのものだ。
リィとルウがソナタのために買ってくれた豪華絢爛七段飾りのそれは、出すのも片付けるのも、ちょっとした時間と労力が必要だ。
「可愛い可愛い私のソナタが、お嫁に行けなくなったら大変だからな」
──いやそれにしたって、別に翌日でもいいじゃあないか。
友人たちにはそう突っ込まれるのだが、シェラは双子が生まれたときから、『日付が変わったら片付け始める』というこの習慣を欠かしたことがない。
双子が生まれて年が明けた節句に贈られたものだから、この作業も、もう七回目だ。
可愛い愛娘は、本当に目に入れても痛くなくて、にこぉ、っと微笑む顔を見ているだけで幸せな気分になる。
その笑顔で『きゅっ』と腕に抱きつかれようものなら、天にも昇るような心地がする。
もう、頭から齧って食べてしまいたいくらいに可愛いのだ。
昼間だってそうだ……。
「ソナタね、大きくなったら、シェラと結婚するの!」
雛あられを頬張りながら、そう言って笑う花丸元気印の美少女。
「──んもうっ! ソナタったら、可愛いんだから!!」
長い銀髪を振り乱して喜んでいる美青年の姿も、負けず劣らず非常に可愛い。
「カ、カノンは?! ソナタ、カノンは?!」
そのときカノンは、不安そうな顔をしてソナタの手を取ったものだ。
「カノン?」
「う、うん……」
ゴクリ、と喉を鳴らす双子の兄に、ソナタはにっこりと微笑んだ。
「──カノンとパパは、『愛人』にしてあげる!」
さすがにぎょっとしたシェラだ。
誰がこんな愛くるしい天使に、そんな言葉を教えたのか。
ひとり思い当たる節がある、と殺意を新たにする。
「──ほんと?! ありがとう!!」
しかし、これにも仰天したシェラだ。
カノンはにこにこ笑っていて、心の底から喜んでいる。
「カ……カノン……? 意味、分かってる?」
「愛人?」
「……うん」
「知ってるよ。お妾さんでしょう?」
「──……」
きょとん、とした顔で、『何を今更』とでも言いたげな利発すぎる息子に、シェラはひどい眩暈を感じた。
小学校に上がったばかりの子どもたちが口にする言葉ではない。
断じて、ない。
「……レティシアめ……」
わなわな、と拳を震わせるシェラに、顔を見合わせた双子はきゅっと抱きついた。
「──カノン? ソナタ?」
「「カノンもソナタも、シェラが一番だ~いすきだよ!!」」
「……うん。私も、だ~いすきだよ」
コロっと機嫌を直して、シェラは子どもたちをぎゅ~っと抱きしめた。
そんな娘たちの姿を思い浮かべ、鼻歌を歌いながら、慣れた作業をこなしていく。
──と、気配などしなかったのに、背後から腰に腕が回る。
「おま……何でわざわざ気配をころ──」
言い終わる前に、シェラは息を呑んだ。
「……っ、あ……こら、ちょっ──」
首筋に、軽く歯を立てられる。
それだけのことで、脚の付け根から駆け上がるような快感が起こり、まともに立っていられなくなる。
風呂上りの石鹸の香りにすら、眩暈を感じる。
「ヴァン……」
やめさせようと黒髪に指を入れるが、それを先を促していると勘違いしたのか何なのか、項から耳朶に向かってなぞり上げるように舌を這わせた。
ひっ、とシェラが息を吸い込むのを、その形の良い唇を持ち上げて笑う。
「ちょっ……やめ、片付け……っ」
「後だ」
「だ……お前があと──」
シャツの裾から忍び込んできた手が、素肌に触れる。
湯であたためられ、いつもは自分より低い体温が、僅かに高い。
その手が、身体の線を辿るようにして上がってくると、シェラは唇を噛んだ。
子どもたちはとっくに寝たとはいえ、音の響く吹き抜けのリビングで、声など上げられない。
「──……」
我慢するその様子に気づいたヴァンツァーは、背後からシェラの顎を取り、自分の方へ向かせると引き結ばれたそこを舌先で突付いた。
逆に固く閉じられる瞳と唇に、止めていた手を再度蠢かせる。
堪えきれず、シェラがあえかな吐息を漏らした隙に、深く、舌をねじ込む。
絡め合う舌の感触と、唾液の甘さを堪能してから、ゆっくりと唇を離す。
ふたりを繋ぐ銀の糸を舐め取り、シェラの濡れた紅唇を吸う。
ヒクリ、と肩が震え、熱い息が吐き出される。
ふるふると震える睫の奥から、潤んだ菫の瞳。
上気した頬に唇を寄せたヴァンツァーは、その、低く甘い声でささやいた。
「────……で?」
勝ち誇ったような笑みを浮かべる男の美貌をしばらく睨むように見つめると、シェラはため息を零してくったりと力を抜いた。
するり、と逞しい相手の首に腕を回すと、その耳朶に齧りつく。
僅かに目を眇めた気配に溜飲を下げると、シェラはそのままささやいた。
「……乗せられてやるよ」
そうして、くすくすと笑ったのだ。
「────心配性な、……『お父さん』」
毎年繰り返される、この三月三日から四日にかけての攻防戦。
我が子の可愛らしい花嫁姿を見たい『母』と、どんな男がきても娘を嫁がせる気などさらさらない『父』の間で繰り広げられるそれは、
──幸か不幸か、健やかに眠っている子どもたちには、まだ知られていない。
END.
【おまけ】
『親馬鹿』というよりも、どちらかといえば『馬鹿親』という表現が似合うヴァンツァーさん。
翌朝、目を覚ました腕の中のシェラさんに言いました。
「──どうせなら、七夕あたりまで片付けなくていいんじゃないか?」
「……お前、七夕になったらなったで、いくら使ってでも雨を降らせる気だろう……」
「いや、雪の方が子どもたちは喜ぶかも知れん」
「……」
シェラさんは、深く……それは深~く、嘆きました。
──私は、どこで人生の選択を間違えてしまったのだろう……?
そして、こうも思うのです。
──昔のこいつは、もっとマシに見えていたはずなのに……。
かつてはあれほど否定していましたが、今、このときになってシェラさんは思いました。
──えぇ、リィ、やはりあなたは正しかった……私は、『あのときのあいつ』には、確かに惹かれていましたよ……。
そう認めてしまってもいいかな、とうっかり思ってしまうほど、シェラさんの苦悩は深かったのです。
おしまい。