──Side ライソナ
クリスマスといえばプレゼント。
プレゼントといえば手作り。
冬場に手作りのプレゼントといえば──手編みのマフラーで決まりだ。
料理とか、手芸とか、そういうシェラが得意なものはなぜか苦手なソナタだったけれど、大好きな彼のためにはちょっとくらい女の子らしいことだってしたくなる。
そんなわけで、シェラに教えてもらいながらライアンへのプレゼントを制作することとなった。
編み物は初心者のソナタは、実にひと月前から準備に取り掛かったのである。
決して不器用ではなく、むしろ手先が器用なことは自覚しているのだが、いかんせんA型の両親から生まれたソナタは家族で唯一のO型で、だからこそ豪快な性格が災いしてちまちました作業はとても苦手だった。
あんまりみすぼらしいのは嫌だと思うのは、ライアンがモテるであろうことを認識しているからだ。
もしかしたら以前にも同じようなプレゼントを受け取ったことがあるかも知れない。
──負けられないわ!
嫉妬とは無縁の性格をしているソナタではあったが、それとこれとは話が別だ。
誰だって、一番がいいに決まっている。
そんな風に考える程度には、ソナタは彼氏のことが大好きだった。
「あー、また目が飛んだ!!」
「焦らなくていいんだよ。ゆっくり、ゆっくり。時間はたっぷりあるからね」
ふふふ、と微笑んでいるシェラも、手には編み棒。
手元なんて全然見ていないのに、アイボリーの毛糸玉はどんどんちいさくなっていっている。
「……すごいなぁ」
いいなぁ、と言わない辺り、ソナタはきちんと他人を評価する術を持っているといえる。
シェラはくすっと笑って、「年季が違うよ」と告げた。
確かに、もう何十年もしていることだ。
呼吸するのと同じように刃物を扱えるシェラだったが、編み棒や針も彼の手足と同じなのだ。
「どうしてソナタはこういう可愛いこと苦手なんだろう……」
「上手だよ」
「……下手っぴだもん。シェラみたいに上手くいかない」
唇を尖らせる娘に、シェラは緩く首を振った。
「下手なんじゃなくて、ソナタはとっても眼がいいんだよ」
「──眼?」
「うん。私が昔いた世界には機械なんてなかったから、女の人はみんなこうして自分の手で編み物や縫い物をしていたんだ。みんな、私と同じように出来たんだよ」
「──みんな?!」
「もちろん仕立て屋さんだっていたけれど、普通の家庭ではそんなところに頼めないからね。これくらい出来ないと、暮らしていくことが出来なかったんだ。でも、この世界はとても便利だから、みんな機械がやってくれる。自慢するわけじゃないけれど、私のように針や糸を扱えるのは、それを職業としている人くらいのものだ」
「その中でも、シェラはとびっきり上手よ!」
娘の賛辞に、シェラは素直に礼を言った。
「だからね、ちいさい頃から私の作ったものを見ているソナタは、ちょっとやそっとの出来じゃ満足しなくなってるんだよ」
眼が肥えているんだね、と微笑むシェラに、ソナタは「うーん」と唸った。
「……ライアン、喜んでくれるかな?」
「こんなに可愛い子が自分のことを考えながら自分のためだけに作ってくれた──それだけで、とても嬉しいものだよ」
「ライアン、綺麗なものとか、整ったものが好きなんだよ……? それも、とてつもなく恐ろしく」
「彼は芸術家だから。見た目だけじゃなくて、ちゃんとそこに込められた気持ちを汲み取ってくれるよ」
「うん……」
「大丈夫、彼はソナタのことが大好きだから」
万が一にも、『気に入らない』なんて言うわけないことは分かっているけれど、シェラは不安そうにしている娘に言ってやった。
「──ソナタに編み物を教えているのは誰?」
私が教えているのだから大丈夫だ、と言い切るシェラの顔は時々見せる男のそれで、訊かれた少女は一瞬目を大きく瞠り、次いで満面の笑みを浮かべた。
──そして、クリスマス・イヴ。
ソナタは──もちろんカノンもだが──本日十七歳の誕生日を迎える。
本当は二十三日から二十五日までは家族でホテルに泊まるのだけれど、今年は違う。
生まれて初めて、家族以外の人と一緒に過ごす誕生日だ。
きらきらと光るイルミネーションも、自分が生まれたことを祝福してくれているようで頬が緩む。
今日は、服装にだって気合が入っているのだ。
瞳と同じ色のドレスに、袖と裾にラビットファーのついた真っ白いケープ、長く艶やかな黒髪には、同じくラビットファーの髪飾り。
ほんのちょっと、お化粧だってしているのだ──もちろん、シェラにしてもらったのだけれど。
誰もが振り返る抜群の美少女だ。
待ち合わせの場所に来た彼氏は、違えることなくまずソナタの可愛い格好を褒めたのである。
「ふわふわのうさぎちゃんだね。すごく可愛い」
「ありがとう……」
その言葉に嬉しくはなったけれど、ソナタは後ろ手にプレゼントを隠し、もじもじしながら切り出した。
シェラの言葉が後押ししてくれているとはいえ、不安なものは不安なのだ。
「あ、あのね……」
「ん?」
「……あのね……」
「どうしたの?」
もじもじとして、はっきりとものを言わないソナタの『らしくない』態度を見て、ライアンは安心させるように笑みを浮かべた。
ソナタが、何かを怖がっているような印象を受けたからだ。
「……あのね……上手に出来なかったの……」
「上手? 何が?」
「……上手じゃなくても、もらってくれる……?」
不安気に見上げてくる藍色の瞳に、ライアンはお日様のような笑みを返した。
「ソナタちゃんからもらえるものなら、何だって大歓迎だよ」
たとえ、頬へのちいさなキスひとつでも、自分は心から嬉しいと感じるだろう。
だから心配しなくていいんだよ、と伝えるように髪を撫でてやれば、ソナタはほんの少し頬を緩めた。
そうして、手にした紙袋の中から、ラッピングしたプレゼントを取り出したのである。
クリスマスらしい金色の袋に赤と緑のリボンが結んである。
「ありがとう。──開けてもいい?」
「……う、うん……でも、本当に上手じゃないの」
「何だろう──うわぁ、マフラー? これ、ソナタちゃんが編んでくれたの?」
「うん……初めてだったから、シェラが作るみたいに上手に出来なかったの……」
「この色、ソナタちゃんが?」
「うん。ライアン、濃い色似合うから。これくらいの長さなら下品にならないよ、ってシェラが」
袋の中から取り出したのは、深いボルドーのプチマフラーだ。
毛糸ひと玉で編めるので初心者向きではあるが、使う糸や編み方によってはかなり難度が上がることもある。
「おれ、ボルドー好きなんだ。それに、ファーで編むのって難しいんじゃない?」
普通の毛糸と違い、ファーヤーンで編む場合、網目が見えないから目を飛ばすこと度々、しかもやり直しが利かないから失敗したら最初から、という大変なものなのだ。
「うん。でも、ライアンふわふわとかもこもことか似合うから」
「あはは。うん、こういうの好き。ありがとう」
さっそく首に巻いて見せる。 鎖骨の辺りで交差させたらそれで終わりの長さなので、マフラーの端に穴を開けたり、ボタンで留めたりするスタイルを取る。
「全然ヘタじゃないと思うけど。すごいあったかいし」
「……何回もやり直したの。シェラってすごいんだなぁ、って改めて思った。私に教えてくれるときはゆっくりやってくれたけど、するする編んじゃうんだもん」
「ソナタちゃんもすごいよ」
「すごくないよ。だって、カノンもするする編めるんだもん」
「──お兄ちゃん?」
「うん。カノンはすごいの。お料理も得意だし、お裁縫だってシェラみたいに出来ちゃうの」
自慢の兄なのだけれど、女の子としてはちょっぴり羨ましくなってしまうのだ。
「じゃあ、お兄ちゃんも何か編んだの?」
「うん。セーター」
「アー君に?」
「うん。サイズ大きいから大変だ、何であんな無駄に大きい身体してるんだ、って文句言いながら、嬉しそうに編んでた」
くすくすと笑うソナタに、ライアンもちいさく笑った。
そうして、今度は自分の番だ、とお姫様へのプレゼントを取り出したのである。
「じゃあ、おれからもプレゼント」
「石膏像とか作るのかと思ってた」
冗談めかして笑うソナタは、手のひらに乗るくらいの大きさの手提げを受け取った。
「開けてもいい?」
「もちろん」
何だろう。
サイズからして、ピアスとかかな、とわくわくする。
もしかしたらネックレスかも知れない、と思い取り出した箱を開くと。
「──え……?」
藍色の瞳を真ん丸にするソナタに、ライアンは少し首を傾げた。
「こういうの、嫌い?」
反射的に首を振ったソナタだったが、箱の中身をじっと見つめたまま動けないでいる。
「出来れば、つけてくれると嬉しいな」
「……つけていいの?」
呆けたようにそんなことを言うから、ライアンは笑ってしまった。
この子は、とても綺麗で、純粋で、可愛くて、たくさんの愛情を受けて育ったのに男からそれを受け取ることには慣れていなくて──もう、きっとこんな子には二度と出逢えない。
「おれがしてもいい?」
「……うん」
いつもは元気いっぱいのソナタが少し怯えているようにも見えて、ライアンはまずソナタの手をそっと取った。
ぴくり、とちいさく肩が震えるのに、唇が勝手に笑みを刻む。
「Merry Christmas. ──おれの可愛いお姫様」
ちゅっ、と指先に口づけて、左手の薬指にピンクゴールドの指輪を通す。
細身のそれは、白魚のようなソナタの手にとても良く映えた。
ほわぁぁぁ、と藍色の瞳をきらきらさせて、じっと自分の指を見つめるソナタに、ライアンはくすくすと笑った。
「やっぱり、指輪のサイズも見れば分かるの?」
「うん。分かるよ」
「見ただけで服とか指輪のサイズが分かる人は、本職か誑しかどっちかだよ、ってシェラが言ってた」
「えー……おれ、一応『本職』の方だと思われてると思っていいのかな?」
「んー。たぶんね、『両方』だと思うの」
にっこり笑っているお姫様に、ライアンは苦笑を返した。
「浮気すると、その指輪にぎゅーぎゅー締め付けられちゃうからね」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せる恋人に、ソナタはにっこりと微笑んだ。
「ソナタ、パパに似てすぅごい一途なんだから」
「あはは、それは安心だね」
「ライアンだって、気をつけないとそのマフラーに締められちゃうんだからね」
「あー、シェラさんの怒りのオーラとか込められてたら怖いかも」
人を見る眼は抜群の男は、聖母の微笑を浮かべるシェラが、怒らせると誰よりも怖いことをよく分かっていた。
ちょっと視線を落として、見上げてくる藍色に微笑む。
「──大事にするよ」
嬉しそうに微笑むソナタの手を取って、「美味しいもの食べようね~」と会話しながら、ふたりはイルミネーション輝く街に繰り出したのである。
──Side カノキニ
「──言っておくけど、返品不可だから」
待ち合わせ場所に来るなり、無敵の女王様はそう言った。
相手の顔はかなり頭上にあるというのに睥睨するようなその態度に、キニアンは新緑色の目をぱちくりさせた。
「え、何が?」
訊ねてくる彼氏に、カノンはずいっ、と紙袋を押し付けた。
シンプルなクラフト紙の手提げバッグを半ば受け取らされた形になったキニアンは、一応「何だこれ?」と訊いてみた。
「開ければ?」
腕を組んでそっぽを向いてしまっている恋人に、内心でため息を吐いたキニアンは手提げを開き、目を丸くした。
ビニールコーティングされているけれど、おそらくその形状からしてセーターだ。
ダークグレーの糸で編まれたそれを見たキニアンは、爆弾を投下した。
「買ってきたの?」
殺されても文句は言えないような台詞に、カノンはにっこりと微笑んだ。
そうして、キニアンの手にある手提げを引っ手繰ったのだ。
「二度と編まない」
その台詞を聞き、最初は何のことだか分からなかったキニアンだが、分かった瞬間カノンの手からクラフトバッグを取り返そうとした。
しかし、反射神経も動体視力もカノンの方が上だ。
あえなく、背中にバッグを隠されてしまった。
「──っ、カノン!」
「あげない」
「だっ……それ、俺のために」
「知らない」
「買ったなんて言ったのは悪かったから」
「最悪」
「いや、だから、それは……」
口ごもったキニアンは、やがて観念したようにがっくりと肩を落とした。
「……だって、お前がセーター編んでくれるなんて思わないから」
「男が編んじゃいけないの?」
「そういう意味じゃなくて!」
「なに?」
「だから……その……」
あー、もう! と頭を掻いたキニアンは、深々と頭を下げた。
「悪かった。それ、俺に下さい」
「何で?」
「何で、って……」
「欲しいの?」
「欲しい」
決まってるだろう、という風に即答した彼氏に、カノンはもうひとつ訊ねた。
「アリスは、ぼくへのプレゼント用意したの?」
「え? あ、あぁ……」
あまり浮かない顔で頷く男に、カノンは告げた。
「それ、先にもらう。それで満足したら、これあげる」
「──え?」
「アリスの、ぼくにちょうだい」
「……」
えーっと、と視線を彷徨わせたキニアンに、カノンは「ないの?」と訊ねた。
「いや、あるけど」
「じゃあ、ちょうだい」
「……お前の気に入るか分からないし」
「いいよ、ちょうだい」
「……気に入らなかったら、それくれないんだろう?」
「気に入らないって決め付けてない? ぼく、正当に評価するけど」
むすっ、と膨れてしまった女王様に、キニアンはまたため息を零した。
「……ついて来い」
「何様」
「…………ついて来て下さい」
「三十点」
「……」
ま、ついていってあげるよ、とわざとらしく嘆息したカノンを伴い、キニアンは待ち合わせた場所からの移動を開始した。
クリスマス・イヴ──いや、むしろ恋人の誕生日だというのに、こんな始まり方で大丈夫なのだろうか、と思うキニアンなのであった。
キニアンがカノンを伴ったのはちいさなホールだった。
ちいさいとはいっても千人程度は収容出来るホールであり、連れてこられたカノンは首を傾げた。
「コンサートでもあるの?」
「あぁ、まぁな」
簡潔にそれだけを返す無愛想な彼氏に、ちょっと眉を顰めた。
それならそうと言ってくれれば良かったのに。
有名なオーケストラによるコンサートは平日夜か休日に開かれることが多い。
カノンたちも、両親に連れられて行くときは大抵休日の夜だ。
昼間に開かれるコンサートというのは、存在は知っていても行ったことはなかった。
だから、初めての経験をするのならばそれなりにフォーマルな服装をしてきたというのに。
今日の服もシェラが作ってくれたものでとても気に入っているが、どうしてこの男はこう気が利かないのか。
そう思いながら、ホールへ向かう。
「ちいさいけど、音響効果はよく計算されてて、演奏家の間では結構有名なホールなんだ」
「へぇ」
相槌は打ったものの、何かおかしい。
ホールの入り口にはそれらしき看板もなかったし、人の姿もない。
開演まで時間があるのだろうか、とも思うが、自分たちが入れるということは開場されているということだ。
それなのに、他に誰もいないというのは変だ。
「アリス?」
「ん?」
「コンサートなんでしょう?」
「あぁ」
「誰もいないよ」
「当たり前だ」
客席への扉の前に立った長身の少年は、不思議そうな顔をしている天使に告げた。
「──今日は、お前ひとりのためのコンサートなんだから」
そう言って、目を瞠るカノンの前で重い扉を開ける。
ガラン、とした客席の向こうに、生の地明かりとシーリングが照らし出すステージ。
そこには、チェロと一脚の椅子だけがあった。
「……ぼくだけ?」
「まぁ、一応シェラさんたちには声かけたんだけどな」
丁重に断られた、と傾斜のついた客席を抜けてステージに向かう。
少し遅れて後をついていったカノンだったが、キニアンが振り返ったので立ち止まった。
「センター中央には座るな」
「──へ?」
「一階席なら、左右の壁際かセンターの一番奥」
「何で?」
「反響音の関係。たぶんここのホールは二階席の左右どっちか、チケット買うなら一番安い席が一番いい音だ」
「一番いい音なのに、一番安いの?」
「要は、何を目的にして来るかだよな。演奏している人間の表情まで見たいのか、音を重視するのか、オケ全体を見たいのか」
言葉を切ったキニアンは、ちょっと首を傾げた。
「ヴァンツァーさんなら、その辺こだわるだろう?」
「いつも最上階だね」
「だろうな。気にしてなかったのか?」
「あんまり。音がいいんだ、っていうのは聞いたことあるかも」
「……連れて行き甲斐のないやつだな。お前たちだって、弾くんだろう?」
「まぁ、嗜みとして。指は動くけど、才能ないの分かってるし」
「ふぅん」
とりあえずステージを正面にして中央より少し後方の右の壁際にカノンを座らせ、キニアンはステージに上った。
「リクエストしてもいいの?」
「いいよ」
「バッハ! バッハ弾いて!!」
「バッハ? 無伴奏でいいのか?」
「この前弾いてくれたやつ!!」
興奮気味な面持ちを見ると、余程気に入ったらしい。
くすっと笑ったキニアンは、椅子に座るとチェロを構えた。
──溢れ出す、光と水。
清流を朝日が照らし、きらきらと光る水面を川魚が飛び跳ねる。
深い森の空気は清浄で、水の流れる音と時折木々を渡る風の音以外には何もない。
水の流れとはすなわち人生であり、同じ流れに再び巡りあうことはない。
だからこそ、その一瞬一瞬は煌き、前へ前へと進んでいく。
おそらくプロの演奏家──それも、熟練のチェリストが弾いたならば、キニアンのような音にはならないだろう。
もっとずっと深く、それでいて華やかな音になるに違いない。
それは取りも直さず人生経験の差だ。
キニアンの演奏が拙いわけではない──むしろ、彼は類稀な才能の持ち主と言えた。
世界で数人しか触れることを許されない名器と、友人のように語り合う。
多くの演奏者が時に畏怖すら覚えるような楽器を手にしても、彼は若年者特有の無邪気さ故か、生来の正直さの賜物か、はたまた最愛の恋人の前で演奏しているからか、喜び以外のどんな負の感情も抱いてはいなかった。
何より、彼の音は聴くものを傷つけることがない。
演奏技術をひけらかす音楽家『気取り』のような、耳を覆いたくなる音を奏でない。
彼の音は決して繊細ではなく、また豊潤でもない。
抜群のテクニックを誇る父の血を受け継いではいるが、まだ荒削りだ。
指遣いも、弓の当て方も、直すべきところはいくつもある。
だが、聴くものは等しく笑みを浮かべる。
真っ直ぐな音は、どんな頑なな心にもすんなりと滑り込み、ほっと息を吐かせる。
演奏を終えたキニアンに、カノンは惜しみない拍手を与えた。
「この前アリスに弾いてもらったあと、マエストロのバッハ、録音だけど聴いたんだ。やっぱり随分音が違うね」
「マエストロ……? ──あぁ、父さん?」
「うん。アリスの音はきらきらしてて、すごく綺麗。芽吹いたばかりの若葉って感じで。マエストロの音は、もう、大樹だよね」
「……あれはなぁ……」
はぁ、と遠目に見ても深くため息を吐いたことが分かる。
「どうやったらあんな音になるんだろうな……天才って本当にいるんだな、って思い知らされるよ」
これにはきょとん、としてしまったカノンだった。
「アリスってさ、色々自覚ないよね」
「は?」
音楽然り、誑し込み然り、実直で馬鹿正直な少年は、なかなかに筋金入りの鈍感でもあった。
「あれ弾ける? マエストロの弾いてた……えっと、ラフマニノフ?」
「ラフマニノフ? どれだ?」
さすがに作曲者の名前だけでは分からないし、アルフレッドの演奏したラフマニノフなど山のようにある。
「うーんと、『ヴォカリーズ』だったと思う」
「あぁ……弾けるけど、あの人の音と比べるとだいぶ劣るぞ?」
「アリスのが聴きたいの!」
父親にだって嫉妬する年頃の少年だったが、今日はカノンの誕生日。
思いついたプレゼントが音楽しかないというのはちょっと物悲しいが、アクセサリーの類を選ぶ目よりは格段に自信がある。
ふぅ、と息を吐いて、どこか寂しさの募る旋律を奏でる。
──……あぁ、泣いてる。
無口で無愛想で空気も読めない少年の音は、こんなにも表情が豊かだ。
アルフレッドの音と比べて劣るのではない。
込められたものが違うだけ。
喜びも哀しみも出逢いも別れも、音楽家にとってはすべてが音となる。
キニアンの音はまだ若い──けれど、だからこそ純粋なのだ。
演奏を終えたキニアンに、カノンは訊ねてみた。
「何を思って弾いたの?」
「……」
「すごく、哀しそうな音だったけど」
逡巡のあと、嘘の吐けない少年は正直に告白した。
「……セーター、もらえるのかな、って」
これには爆笑してしまったカノンだった。
それであんな音が出るのか。
これは、世のチェリストたちの方こそ泣くぞ、と思った。
「……笑うなよ。他には?」
「アリスの好きなの弾いて」
離れた場所ではあるが、誰もいない広いホールにふたりの声はよく響き、互いの耳に苦もなく届いた。
ほんの少し考えながら指板をトントン、と叩いたキニアンはおもむろに演奏を始めた。
カノンは目を真ん丸にして眉を持ち上げた。
同じメロディーが繰り返されるこの奏法による楽曲の中で、もっとも有名なもののひとつだ。
本来はヴァイオリン三本とともに演奏されるものだが、今はチェロのみの音がホールに響く。
──……恥ずかしい男。
きゅっと眉を顰めて見せるが、頬がほんのりと染まっている。
自らの名と同じ曲を演奏されて、赤面するなという方が無理だ。
もともと、自分たち双子の名も音楽鑑賞が趣味の父がつけたものである。
まったく、と思って聴いていたら、素直で馬鹿正直が身上の少年が、曲にアレンジを加えて演奏を始めた。
弓で低音を弾きながら、左手のピチカートで通常ヴァイオリンが奏でる音階をなぞる。
──何、この無駄な超絶技巧……。
ほとんど素人の自分が見ても、両手がおかしな動きをしている。
なぜ音が当たるのかが分からない。
──天才なのか変態なのか分かんないなぁ、これ……。
恋人のことだというのに、あんまりな評価である。
すさまじい技巧にも関わらず、本人は至って楽しそうだ。
──でも、綺麗だ。
ふふっ、と笑みを浮かべる天使の美貌。
そして曲はまた、ゆったりとした旋律に戻る。
弓が弦から離れ、残響も完全に消えてしばらくしてから、カノンは「ねぇ」と声をかけた。
「一番好きな曲は?」
「俺?」
「うん。アリスの一番好きな曲。それか、作曲家」
「あー……」
少し考えた少年は、「バッハかな」と答えた。
なぜ? とカノンが訊ねる。
「難しいんだよ」
「技巧的に?」
「いや……──『聴かせる』ことが」
美しさと、激しさと切なさと。
パガニーニに比べたら弾くことはずっと楽だけれど、表現することがこれほど難しい曲をつくる作曲家もそう多くない。
「音が汚いとすぐにバレるんだ。誤魔化しが一切利かない。テクニックだけで演奏しようと思っても、音が響かないんだ」
「曲は、何が好き?」
「そうだな……」
ちらり、と相棒に新緑色の瞳を向け、ちいさく微笑む。
あぁ、ここは邪魔しちゃいけないな、と自制したカノンは、仕方なさそうに微笑むと音が生まれるのを待った。
そうして────光が差した。
『主よ、人の望みの喜びよ』──まさに、愛情と光と歓喜に溢れた音。
癒しの音楽というものはこの世に数多存在するけれど、神の寵愛を受けた音楽家というものはそう多くない。
キニアンは、間違いなく彼らに肩を並べる存在になるだろう。
彼の音には光がある。
雨上がり、雲の切れ間から差し込む細い光。
力強さはないけれど、それは万人を救う手だった。
「──……」
嫌なことも、つらいことも、苦しいこともたくさんある。
それらを避けて通ることが出来る人間などいない。
だからこそ、神は愛情と喜びを与えたのだ。
痛みなら、分け合えるように。
哀しみなら、癒せるように。
弓が弦を離れ、こちらを見たキニアンが驚いたように立ち上がる。
些か乱暴にチェロと弓を置き、ステージを降りる。
何をそんなに慌てて、と不思議そうな顔をしているカノンの前で、長身の少年が戸惑ったような顔をしている。
首を傾げると、少年はしゃがみ込んでカノンの頬を指で拭った。
知らず泣いていたのだ、とその仕草でようやく分かった。
「ぁ……あれ?」
「どうした?」
こうしてカノンが泣いたとき、キニアンの声は信じられないくらいやさしく、甘くなる。
いつもそうならいいのに、と思う気持ちと、それを特別なことだと感じられる喜びとは等しく半分だった。
「何でもない……んだけど」
「うん?」
「え……っと……」
言いたいことは良いことも悪いことも何でもかんでも口にするカノンらしくない様子に、本当にどうしたのだろう、と心配になる。
少しして、カノンが首に抱きついてきたから余計に驚いた。
「……カノン?」
「ぎゅって……して」
「……」
一瞬躊躇ったが、少し息苦しさを感じるくらいの強さで抱きしめた。
大きく息を吸って吐き出すのが、服を通して感じられた。
「……一回しか、言わないからね……?」
「え?」
微かに震えているカノンの声に、耳を澄ませる。
「…………──大好きだよ、アリス。ありがとう」
これには大きく目を瞠ったキニアンだった。
まさか、こんな素直なカノンを目の当たりにする日が来るとは。
けれど、嬉しかったから、本当に嬉しかったから、キニアンはカノンの頭を抱えるようにして更に腕に力を込めると、耳元でささやいた。
「──……愛してる」
高校生が口にするには大袈裟かもしれないけれど、偽りのない真摯な気持ちだ。
菫色の瞳から大粒の涙が零れたのを、気配で覚る。
ぽんぽん、と頭を撫でてやると、嗚咽が漏れた。
可愛いな、と心から思う。
我が儘で高飛車でプライドの高い女王様が、本当は誰よりも怖がりで脆いことを知っているから、やさしくしてやりたくなる。
可愛くないことを言われて腹の立つこともあるけれど、次の瞬間に見せる笑顔ですべて赦せてしまう。
「──で? 俺はセーターもらえるわけ?」
少し身体を離し、涙で赤くなった頬を拭ってからかうようにして訊いた。
むぅ、と唇を尖らせたカノンは、「欲しいの?」とまだ震えている声で訊ねてきた。
「下さい」
「……どうしても、って言うなら……いいよ」
「うん。どうしても」
素直にそう返してくる彼氏に、カノンは先ほど取り上げた手提げを渡してやった。
袋を開けたキニアンは、彼にしてはとても嬉しそうな顔でセーターを身体に宛がった。
「よくサイズ分かったな」
「前に採寸したから……教えてもらった」
「ふぅん」
「……なに」
「いや。可愛いことするなぁ、って思って」
「……馬鹿にした」
「してないだろう? 可愛いって言ってるのに」
「らしくない、とか思ってるんでしょ」
「うん」
「ほら、やっぱり」
むすっとした顔になった天使な女王様に、キニアンはくすくすと笑ってひとつキスをした。
「ありがとう。めちゃくちゃ嬉しい」
「……」
真っ赤になり、ボソッ、と口の中で「誑し」と呟くカノン。
「……アリスってさ、チェロ持つと人が変わるよね」
「そうか?」
「普段なんか頼んだってキスなんてしてくれないクセに」
ふん、だ、と背けられてしまったカノンの横顔をまじまじと見つめ、キニアンは感心したように呟いた。
「お前、ほんっと時々すげー可愛いよな」
「……ぼくはいつだって可愛いんだよ」
失礼な男だ、と睨みつけてやる。
気にした風もなく立ち上がったキニアンは、ステージに戻っていった。
「そろそろ時間だ。出るぞ」
「えー、もう?」
「もう、って、一時間以上いれば十分だろうが」
「……あんまり弾いてくれないのに」
「また今度な」
「……」
チェロをケースに入れて戻ってきた長身の恋人は、宥めるようにカノンの頭をぽんぽん叩くと彼の右手を取った。
「腹減った。食事に行こう」
半ば引っ張られるようにして歩くカノンは、端整な横顔を見上げて訊ねた。
「──ねえ、今日ってお泊りデート?」
階段を踏み外しかけ、世界最高の名器が危うく木屑と化すところだった。
Merry Christmas・・・