アリス・キニアンという男は、無口だ無愛想だと恋人に言われていても、KYだと恋人に罵られていても、意外とロマンチストな一面がある。
彼の美しい恋人に言わせれば、それすらも『調教の賜物』ということになるのだが、男という生き物は可愛い恋人が喜ぶ顔を見るのが三度の飯より好きだったりする。
だからこの日、キニアンは恋人が仕事に行っている時間に彼の実家を訪れた。
そして、そこにいるこれまた美しい婦人──便宜上──に深々と頭を下げたのである。
「深刻な顔して、いきなり『お願いがあります』だもんね」
びっくりしちゃった、と聖母の笑みを浮かべる銀髪の主に、キニアンは「すみません」とまた頭を下げた。
「謝る必要はないでしょう?」
「……シェラさんしか、頼る人がいなくて」
家事能力皆無な母親を脳裏に浮かべ、キニアンは頬を掻いた。
「アー君みたいな子に愛されてるカノンは、幸せだね」
「俺みたい、って……?」
「やさしい子、ってこと」
「そんなこと……それを言うなら、ヴァンツァーさんだって」
「うん……そうだね」
「──シェラさん?」
何気なく言った台詞に対するシェラの反応に、キニアンは首を傾げた。
途端に、にっこりと笑ったシェラが「何でもない」と首を振る。
「カノンはね、アー君のことが大好きなんだよ」
「……」
「カノンとソナタが幸せそうに笑ってるのを見るのが、私の幸せ」
「シェラさん……」
何と言っていいのか分からず、キニアンはじっとシェラの横顔を見つめていた。
そして、やはり深々と頭を下げたのである。
「──ありがとうございます」
「アー君?」
「あなたがいなかったら、カノンもいないから」
「……」
「俺も……あいつが幸せそうに笑ってるの見るの、好きです」
いつも怒られてばかりだけど、と眉を下げる青年に、シェラは瞳を潤ませた。
「……もぅ……ダメだよ……おじさんは涙腺ゆるいんだから」
「うわぁ……『おじさん』って、すごい違和感」
「四十も半ばになれば、おじさんだよ」
「そうなんですけど……何か、シェラさんって『男』とか『女』とかじゃなくて、もっと別の生き物っていうか……」
「何それ」
「よく分からないですけど……やっぱり、カノンと似てます」
「そう?」
「はい」
首を捻っていたシェラだったが、「ま、いいか」と、とりあえずの納得を見せるとキニアンに訊ねた。
「今年のヴァレンタインは、アー君があげるの?」
「別にふたりの間でそう決めたわけじゃないんですけど、何となく……もらったから返す、っていうんじゃなくて、俺が何かしたいなって」
それに、と続ける。
「ヴァンツァーさんも毎年シェラさんにあげてるって、聞きました」
「あぁ……あいつは子どもだからね」
「はい?」
「人を驚かせるのが好きなんだよ。もう、ホント子どもみたいなんだけど、こっちがびっくりすると、『してやったり』みたいな顔するの」
やんなっちゃうでしょう? と苦笑するシェラに、キニアンは首を振った。
「シェラさんは、そんなヴァンツァーさんが好きなんですね」
「──え?」
「子どもみたいに喜んでるヴァンツァーさんを見て、嬉しくなるんでしょう?」
「……」
「あいつもよく俺のこと『馬鹿』って言うけど、そんな風に思ってくれてるのかな……」
ため息を零す青年に、シェラはくすっと笑った。
「カノンはきっと、私やソナタよりもアー君のことが好きだと思うよ」
「いや、それはないです」
きっぱりと即答したキニアンである。
「あいつにとって、シェラさんたちは特別なんです。代わりの利かない宝物っていうか……俺は……」
「アー君?」
「俺は、あいつが二番目に大切にしているものの中に入ることが出来たら、嬉しいです」
あまりにも謙虚な言葉に、シェラは呆れてしまった。
本当に、ヴァンツァーに爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい気分だ。
「アー君」
「はい」
「アー君は、かっこいいんだよ」
「……はぁ」
「美形だし、やさしいし、叱るときはちゃんと叱るし」
「えっと……?」
「いいなぁ……カノンに我が儘言ってもらえて」
はぁぁぁぁ、と深くため息を吐く万年天使は天井を仰いだ。
「男としては、可愛い子のお願いは叶えてあげたいじゃない?」
「──ぷっ」
「あ、笑ったな」
「すみません……でも、すごくよく分かります」
もちろんそれはカノン限定だったが、あの素直じゃない口から言葉を引き出すのが楽しくて仕方ないのである。
「次はどうやってねだらせようかな、って」
「そうそう! また、カノンって可愛い顔してお願いしてくるでしょう?」
「何かもう、手玉に取られてるの分かってるんですけど、『それもいいかな』って思っちゃったり」
「あはは。カノンは天然小悪魔だからね」
「ほんと。そのくせ、人一倍寂しがりなんですから」
もう、全面降伏するしかないではないか。
「これも、喜んでくれるといいんですけど……」
手元のレシピに目を落とす。
作り方はこれから見せてもらうことになっているが、不安は拭えない。
シェラのように料理が得意なわけではなかったし、自分が恐ろしく不器用な人間だということは嫌というほど自覚している。
「大丈夫、大丈夫」
「ま、教えてくれる先生がいいですからね」
「あ、巧いこと言っちゃって」
実はキニアンが自覚のない誑しであることに気づいているシェラではあるが、褒められて悪い気分はしないものである。
それも、可愛い息子が選んだ恋人ともなれば尚更。
「──よし。それじゃあ始めようか」
寒い季節だから、ぬくもりというものに敏感になる。
それが想いを寄せる相手のそれともなれば、言うまでもないことだろう。
ふと感じた肌寒さに目を覚ましたカノンは、隣で眠るはずの恋人の姿がないことに気づくと嘆息した。
「……誰が起きていいって言ったんだよ」
まったく、とぼやき、上体を起こす。
時計を見れば午前八時。
休日の朝は大抵こんなものだが、濃密な夜を過ごした気だるさは拭えない。
中高と運動部だったとはいえ、音楽家のくせに体力のある恋人と抱き合って満足しなかったことなど一度もない。
むしろ『勘弁してくれ』と言いたくなることもしばしばなのだが、求められれば応えたくなる。
「言い訳だな……」
ぼくが欲しいんだ、とため息を零す。
キスのし過ぎで、唇が痛い。
鏡を見ずとも腫れているのが分かる。
最近は向こうからしてくれるようになったけれど、こちらからすることの方が圧倒的に多い。
本人には言ってやらないが、彼のことが欲しくて仕方ないのだ。
好きとか、愛してるとか、そんな綺麗なものじゃない。
出来ることなら雁字搦めに縛り付けて、自分以外目に入れないようにして。
自分に触れる以外の自由は一切与えず──そうして、ようやく安心出来るのだろう。
「……ま、しないけど」
もし自分がそう言えば、彼はこの望みを叶えてくれるだろう。
だから、言わない。
「あー、ぼくってば何ていい子」
はぁ、と大きくため息を零す。
喉が渇いた、けれど動きたくない。
さてどうしようか、と思っていると、寝室のドアが開いた。
その向こうに誰がいるかなど確認するまでもないことだ。
現れた長身を、カノンはジロリ、と睨んでやった。
「起こしてよ」
「寝てたから」
「じゃあ起きるまで待ってればいいでしょう?」
「寂しかったのか?」
「──ばっかじゃないの?!」
ふいっ、と横を向いてしまった銀色の頭に、キニアンはちいさな笑みを浮かべた。
「機嫌直せよ」
言って、ベッドの端に腰掛ける。
ふわり、と漂ってきた甘い香りに、カノンは『おや』と眉を上げた。
「……チョコの匂い」
「紅茶もあるよ」
喉渇いただろう? とカップを差し出す恋人に、「たまには気が利くじゃない」と我ながら可愛くないことを言う。
気にした様子もない青年は、キッチンでの格闘の成果を見せた。
「──なに、これ?」
「好きだろう、チョコ?」
「好きだけど……」
ちいさな鍋に入れられた、とろとろに溶けている甘い匂いの正体。
鍋の横には、苺が数個とひと口大に切られたフランスパン、そして、ピンク色のマシュマロがあった。
「可愛い……」
思わず呟いたカノンに、キニアンは唇を持ち上げた。
ピンク色と可愛いもの、そして苺が大好きなカノンだから、もう、このトレイの上は彼にとって楽園のようなものに違いない。
「チョコフォンデュ……久し振り」
「ちいさい頃、よくやったってシェラさんが言ってた」
「シェラに習ったの?」
「あぁ。これだと、好きなものつけて好きなだけ食べられるし」
「……何で今年に限って」
「何となく」
「……」
いつもそうだ。
肝心なことは言ってくれない。
実際、本人もよく分かっていないのかも知れないけれど。
ピックを手に取り、真っ赤な苺にチョコレートを絡める。
頬張れば、甘すぎないチョコレートの風味と苺の酸味、果汁が口の中に広がる。
思わず、ふふっ、と笑みが零れた。
マシュマロやパンもつけたが、どれも美味しい。
ケーキなどに比べたら遥かに簡単に作れ、料理は最近始めたばかり、という青年にもぴったりだ。
「何でチョコフォンデュなのにバナナがないの?」
「……それは、ちょっと」
視線を落とす青年に、カノンは胡乱気な視線を向けた。
「アリスのえっち」
「う、煩いな」
「昨夜あれだけしたのに、まだ足りないの?」
「あ、あれは!」
お前が、と言いかけたキニアンだったが、ちゅっ、とキスをされて言葉が途切れた。
「ありがと。美味しいよ」
「……」
不意打ちのキスと笑顔に、真っ赤になって俯く。
心臓に悪いことを、分かっていてわざとやってくる恋人に、ダメなくらい惚れ込んでいることなど自分が一番よく知っている。
口は悪いしすぐ怒るし我が儘だし、その天使のような外見に反しておよそ好感を持たれるような性格ではないというのに、なぜそれがこんなにも可愛く思えてしまうのか。
──……我が儘言われるのが好き、とか、怒った顔が可愛い、とか……俺、大丈夫かな……?
いや、もう、初期症状から末期だったのはよく分かっているのだが、それにしたって時々しか好意を示してくれない恋人に、何の不満も覚えないとは。
──どうしよう……俺、やっぱりマゾっ気あるのかな……でも、こいつの泣いてる顔見るの結構好き……って、いやいや、そういうことじゃないだろう!
口には出さないがその頭の中では結構イロイロ考えている青年は、青くなったり赤くなったり表情の変化が忙しい。
そんな青年を見て『あー、またやってる』と思ったカノンだ。
そういうのを口に出せば自分に怒られることもないのに、ほんと馬鹿だなぁ、とか思うわけだ。
『馬鹿な子ほど可愛い』なんて嘘だ、と思っていたのだが、そうでもないらしい。
──まったく、嫌になっちゃうなぁ。
ちっとも嫌そうではない顔でそんな風に考えると、カノンは大好物の苺にチョコレートをつけて差し出した。
「はい、あーん」
「……何でだよ」
「あんまり甘くないから、アリスも食べられるでしょう?」
「俺はいいよ」
「じゃあ、ぼくに『あーん』して?」
「……お前、ベタなの好きだよな」
「して」
「……はいはい」
口では「むかー」とか言いながら、口を開けてチョコレートのついた苺を待つ姿は雛鳥のようで可愛らしい。
しかし、軽く目を閉じて薄く開けられた唇に、若い脳は嫌でも刺激されるわけで。
「……」
無口で無愛想とはいえ、その素直な性格からとても分かりやすい青年の顔は赤くなっている。
もぐもぐと苺を咀嚼して飲み込むと、カノンは真顔で告げた。
「──アリスのえっち」
「…………………………………………はい、ごめんなさい」
素直に頭を下げる温厚な大型犬のような恋人に、カノンは綺麗な笑みを浮かべた。
そうして、その耳元でささやいたのである。
──今日はずっと、ここにいようね。
もちろん、否が返るとは思っていないカノンなのであった。
END.