ピュアなわんこと女王様

今日は、十二月二十四日──誰が何と言おうとクリスマス・イヴだ。
この日、アリス・キニアンは朝から台所で調理器具と食材を相手に格闘していた。
下拵えなどは自動機械に手伝ってもらうこともあったが、ほとんど彼がひとりで料理をしている。
メニューとレシピは、音楽家を除けば余裕で三本の指に入るくらいに彼が尊敬している人から伝授してもらったものだ。
ちなみに、今彼が身につけているエプロンも、その偉人お手製のありがたいものである──何だかやたらひらひらしているのが気になるのだが。
「つい、いつものクセで」と、言ってぺろっと舌を出す様子はとても四十過ぎには見えなかった。
本当だったら「いや、ふりふりエプロンとか無理ですから」と言うところなのだけれど、別に高圧的なわけでもないというのに、どうにもかの偉人は人に『NO』と言わせない雰囲気がある。
何か魔法でも使っているのではないだろうか。

「えーっと、次は……」

レシピに目を移しながら記憶を辿る。
一度一緒に作ったので、大まかな手順は覚えている。
それでも、不器用が祟ってお世辞にも手際が良いとは言えない。
彼に料理を教えたシェラは何品作ろうとも食べるのにちょうど良いタイミングで作り終えるが、キニアンはそうもいかない。
楽器ならばいかようにでも扱え、穏やかな表情を崩さない青年だったが、今日は眉間にずっと皺が寄っている。
それでも、決して投げ出したり、人に頼んだりしようとは思わない。

──……少しでも、喜んでくれますように。

それだけを考え、心を込めて手を動かしている。
顔つきが険しいのは、機嫌が悪いのではなく、真剣過ぎるがためだ。

「……今日は、絶対俺ひとりの力で作るんだ」

ここは、ファロット邸の敷地内にある家のひとつだ。
だから、どうしてものときはシェラを呼べば喜んで手伝いに来てくれるだろう。
だが、今日ばかりはそれでは意味がないのだ。
きっと今頃ファロット一家とライアンは、和気藹々と昼食でも摂っているのだろう。
羨ましくないと言えば嘘になるが、自分が食べることよりももっと大事なことがあるのだ。
シェラの誕生日である二十三日からクリスマスまで、ファロット一家は昔からセントラル・ホテルでその特別な日を過ごしていたわけだが、双子に彼氏が出来てからはそうでない年もあった。
それでも、シェラとヴァンツァーのふたりは夫婦水入らず、一流ホテルの最上級スイートで過ごしていたのだが、悪いことをしてしまったかなぁ、と。
そう言えば「そんなことないよ」と、シェラはやさしく微笑んでくれるだろう。
頼りにされることも嬉しいし、それがカノンのためなら尚更、と。
きっと、聖母のように穏やかな笑みで答えてくれる。

「アー君は、うちの子だから」

そう言ってもらったときは、不覚にも涙が出そうになった。
ありがたいな、と思いつつ、シェラと同様尊敬しているヴァンツァーとの時間も大事にして欲しいのも本音だ。
そのヴァンツァーにも可愛がられている自覚はあるし、きっと「シェラが笑っているならそれでいい」と、またかっこいいこと言うんだろうなぁ、と思ったりもする。
一度で覚えようと頑張ったとはいえ、やさしくて心配性のシェラは何かあれば電話で指示が出せるよう、手元に携帯を置いてくれているはず。
それに、メニュー自体も見た目より手間のかからないものだったり、下拵えをしておけばあとはすぐに仕上がるようなものだったり、多少手際が悪くとも食べるのに最適なタイミングで提供出来るように工夫されている。

「母親というか、姉貴というか……」

くすっと、キニアンの端正な顔に微笑が浮かぶ。
兄弟のいない彼にとって、ヴァンツァーは兄とも慕う存在であり、シェラは母か姉のような存在だった。
彼の母親は著名な音楽家であり、ほとんど家にいない状態で育ったから、母性の塊のようなシェラに対して余計にそう感じるのかも知れない。
今頃は、「アー君大丈夫かな……」と心配しているだろうか、それとも「頑張れ」と応援してくれているだろうか。
一緒に作ったときは、料理の出来に太鼓判を押してくれた。
家事に関してはとても厳しい評価を下す人なので、それは本心からの言葉だったのだろうとは思う。
だから、もしかすると全然心配なんてしていないかも知れない。

「それはそれで、ちょっと寂しいかな……」

すっかりシェラへの甘え癖がついている自分に気づいて、「いけない、いけない」と苦笑した。
食事のメニューはあらかた用意が出来た。
時計を見ると、午後一時。

「──次は」

ここからが、本番だった。


「誕生日、おめでとう」

十九時ちょっと前。
ようやく準備が終わりました、とカノンを母屋から呼び寄せた。
出迎えたキニアンは、ふりふりエプロンを外し、青灰色のシャツに灰色のジャケット、渋めの紅のクロスタイで男前度を上げている。
母屋からさして距離がないとはいえ、今は冬。
ムートンコートに身を包んでやってきたカノンに玄関で祝福の言葉を贈り、軽く頬にキスをすると、「遅いよ」と文句を言いながらも頬を染める様子に思わず笑みを誘われた。
ごめんなさい、と謝りつつ、暖かい部屋の中に招き入れる。

「────これ……」

ダイニングに入った途端、目に飛び込んできたそれ。
しばらく目を丸くして見つめていたカノンは、やがてぽつり、と呟いた。

「……ウェディングケーキみたい」

テーブルの真ん中に置かれた、実に五段重ねのケーキ。
微笑みながらもカノンの様子はどこか寂しそう。
きっと、先日行われた妹の結婚式を思い出したのだろう。
ソナタとライアンの新居も同じ敷地内にあるから、今までの生活とほとんど変わりないのだけれど、やはりどこか遠く感じるのかも知れない。
気持ちが沈み込みそうになったとき、「カノン?」と不思議そうな顔で声を掛けられてはっとする。
今年は料理を作ってくれるのだという恋人の気持ちは嬉しかったけれど、こんな時間まで放っておかれて少し寂しかった気持ちもあって、どうにも落ち込みがちでいけない。
気を取り直したように、カノンはにっこりと笑った。

「このケーキ、全部味違うの?」
「あぁ」

下から順番に説明をしていく。 クリームとスポンジにも苺のピューレを入れたもの、何種類ものベリーを飾ったもの、苺のソースを乗せたひと口チーズケーキのタルト、チョコレートと苺の最強コンビ、そして最上段にはシンプルなガトー・オ・フレーズ。

「全部食べていいんでしょ?」
「もちろん」

ちょっと前まで浮かない顔をしていたけれど、菫色の瞳をきらきらさせて喜ぶ笑顔が作り物でないと分かったから、キニアンも目許を緩めて頷いた。
それからふたりは、キニアンが一日かけて用意した料理の数々に舌鼓を打った。

「ほんと、料理上手くなったね」
「そうか?」
「どれも美味しい」
「シェラにはまだまだ遠く及ばないけど……」
「美味しいったら、美味しいの!」

自信を持て、と言われている気がしたから、キニアンは「ありがとう」と返した。
「うん!」と満足そうな笑顔が返ってきて、自然と表情が緩む。
甘えるのは大の苦手だけれど、人を褒めるのは大得意。
そんな、やさしくてちょっと寂しい、大事な、大事な人。
自分はこの笑顔を、あとどれくらい見ることが出来るのだろう。
ずっとずっと、一番近くで守ってやることが出来るだろうか。
自分たちは同い年で、年上の包容力も、年下の無邪気さもない。
ヴァンツァーやライアンのような大人の男になれる日はまだまだ遠そうで、その日がいつ来るのかも分からない。
きっと、甘えたがりなのに甘えるのが下手なカノンには、彼らのような男の方が似合っているのだろうけれど。

「──あ!」
「どうした?」
「これ! この鴨のオレンジソース!」
「うん」
「シェラのと同じ味がする!!」

すごぉい! と、満面の笑みが広がる。
瞳はきらきらと輝いて、血色の良い頬はもっと紅潮して。
表情いっぱいに『美味しい!』と書いてある。

「ふっ……かぁわい」

幸福そうな笑みにつられてキニアンが思わず呟くと、カノンは一瞬目を丸くして照れたように首をすくめて上目遣いになった。

「な、なに……急に」
「美味しそうに食べてくれるなぁ、と思って」
「……美味しいもん」

ちょっと大人しくはなってしまったけれど、それでもパクパクと作ったものを全部平らげてくれた。
照れ隠しで悪態をつくことの多いカノンだったけれど、そういえば作ったものを不味いと言われたことも、たとえ冗談でも「嫌い」と言われたこともないのを思い出した。
その事実がただただ嬉しくて、幸せで、可愛くて。 他にどんな言葉で表せばいいのか分からないけれど、胸がちいさく鳴るような思いがした。

「ん~、満足、満足」

さすがに食後のケーキは五段全部綺麗に食べきったわけではないけれど、それでもすべての味をワンプレートに盛りつけたものは平らげてくれた。

「明日また食べてもいい?」
「もちろん」
「やった」

へへっ、とはにかむ顔も、やっぱり可愛い。
可愛くて、可愛くて、どうしようもないくらい可愛くて。

「カノン」
「ん?」
「これ」

食後の紅茶を飲みながら、苦しいくらいのお腹を摩るカノンにキニアンはあるものを渡した。
手のひらに乗るくらいの、ちいさな包み。

「プレゼント?」

すっかり今年の誕生日プレゼントは手料理だと思い込んでいたカノンは、渡されたものに目を丸くした。

「んー、っていうか」

歯切れの悪い言い方をする彼氏に、首を傾げながら「開けてもいい?」と訊ねる。
了承が返ったのでリボンをほどき、箱を開けると。

「──……え?」
「やり直しの分、かな」

そう言って苦笑するキニアンと箱の中身を、何度も交互に見遣るカノン。

「……これ」

ピンクゴールドとホワイトゴールドのアームが交差したデザインの指輪。
メインは石の嵌められたホワイトゴールドのため、アームは同じ太さではなく、ピンクゴールドの方が細身に作られている。
ホワイトゴールドのアームには、同じ大きさで揃えられたダイヤとピンクサファイヤが交互に並べられている。
アームの周囲半分に石が嵌められた、ハーフエタニティリング。
石は爪で留められているのではなく、アームの縁で留めるチャネルセッティング。
ハーフエタニティリングはそのデザインからどうしても華奢な印象になってしまうが、交差するピンクゴールドのアームによりボリュームが出ている。
細い指とはいえ、カノンの手は男のそれ。
ちいさな石を並べたエタニティリングでは、さすがに造りが細すぎる。
こだわったのは、石の大きさよりもデザイン。
決して男性向きではないが、カノンの好きなものがすべて詰め込まれたデザインだと言っていい。

「──結婚、してくれますか?」

訊ねる声にいつものような不安さがないのは、既にプロポーズそのものに対する了承は得られているからだろう。
あとは、この指輪を気に入ってくれるかどうか。
気に入らなければ何度でも作り直してもらう覚悟はあるが、相談に乗ってくれたシェラも、デザインしたヴァンツァーも、自画自賛ながら太鼓判を押した出来だ。
もちろん、彼らの仕事に一切の妥協はない。
使う金属やデザイン、石の材質、留め方に至るまですべて、一流の職人たちの仕事だ。
こういったものには疎いキニアンでさえ、直感的にこれがカノンのための指輪であることを感じ取った。

「……これ、ぼく……?」
「ん?」
「これ……ぼく、していいの……?」

呆然とした様子でそんなことを呟くものだから、キニアンは思わず吹き出した。

「お前がしなかったら、誰がしてくれるんだよ」
「でも……だって、すごく……」
「すごく?」
「……すごく、綺麗だから」

ぼくなんかがしていいのかな、と。
まだ信じられないといった顔をしているカノンの前から、箱を引き上げるキニアン。

「あ……」
「手、貸して」
「……」
「ほーら」

指輪を取り出すと、右と左の手を交互に見ているカノンにやはり内心で苦笑して、キニアンは真っ白な左手を取った。
ぴくっ、とちいさく震える指先は、心なしか冷たい。
冷え性ではなかったはずだから、少し緊張しているのかも知れない──それに関しては、キニアンも大差なかったのだけれど。
薬指にす、と通された指輪はもちろんぴったりのサイズで、交互に入れたら少し派手かな、と危惧したピンクサファイヤは白い手に良く馴染んでいる。

「うん、可愛い」

自然と口をついて出た普段はあまり言わない言葉と仄かな笑み。

「どうかな……──って、カノン?」

及第点はもらえるだろうか、と顔を上げたキニアンは、はらはらと涙を零す天使に目を瞠った。

「え、やっぱりダメか?」

言えば、ふるふるっ、と勢い良く首が振られた。
それにはほっとしたけれど、でも一向に止まる気配のない涙に、どうしていいか分からなくなる。

「……何だよ」

どうしたんだよ、と戸惑いながら、伸ばした指で涙を拭ってやる。
ふぇぇ、と余計に溢れ出した涙にぎょっとする。

「……カノン……?」

可愛い恋人の涙には滅法弱い、心のやさしい青年は、席を立つと座っているカノンの頭を胸に抱え込んだ。
そっと腕を回してくるカノンの頭や背中を撫でてどうにか泣き止ませようとするのだが、しゃくり上げる気配はなかなか収まってくれない。

「気に入らないんじゃなかったら、泣きやんでくれよ……」

あぁ、もう、ほんとにどうしよう、と。
おろおろしている彼氏にぎゅっと抱きつくと、カノンは俯いたまま呟いた。

「……ぼく……」
「ん?」
「ぼく……我が儘、言うよ……?」
「え?」
「いっぱい、いっぱい……今までみたいに……んーん、もっともっと、言うよ……?」

何を今更、と思ったから、キニアンは少し笑って頭を撫でてやった。

「うん。──そのうちいくつ、叶えてやれるかな」

やさしい声音に、また涙が零れた。

「ぁ……アリスなんか……ひっく、……しゅ、主夫なんだからねっ」
「シェラにたくさん教わっておく」
「それから……それから……」
「うん?」

それきりカノンは口を噤んでしまった。
ぐしぐし、と鼻を啜っている泣き虫な女王様の頭を見下ろしながら、キニアンはやさしく微笑んだ。
よいしょ、としゃがみ込むと、真っ赤な眼をした可愛い顔を、下から覗き込む。

「カノン」
「……」
「俺のこと、幸せにして下さい」
「──……」

菫の瞳が大きく瞠られる。
言われるとは想像もしていなかった台詞、むしろ自分が言おうと思っていて、それでも何だか厚かましい気がして言えなかった台詞。
端正な容貌に、ちょっと悪戯っぽい笑みを乗せた恋人の言葉に、カノンはいつもの調子を取り戻した。

「ぼ……ぼくについて来いっ」

照れ隠しの男前な台詞に、キニアンはくすっと笑った。

「よろしくお願いします」

ちゅっ、と鼻の頭にキスをする。

「なっ! 何恥ずかしいことしてんの?!」

いつもは頼まないとしないくせに! と、眼と同じくらい紅い顔になって鼻を押さえた女王様に、キニアンはやはり機嫌良さそうに笑った。

「うん。そういう顔見ると、幸せ」
「……アリス?」
「怒ってる顔も、泣いてる顔も──もちろん、笑った顔も。お前の顔見てると、すげー幸せ」
「……」

ほんと誰だこいつ、とわざと難しい顔を作って見せたカノンだったけれど。
若葉色の瞳があんまり綺麗だったから、文句を言うのを忘れた。
エメラルドよりももう少し淡くて、宝石よりもずっとずっと綺麗な、やさしい色の瞳。
大好きな瞳。
シェラの菫色も、父とソナタの藍色も大好きだったけれど、この翡翠色の瞳はちょっと不思議。
見つめていると、心臓がとくとく音を立てて、きゅんと鳴って、ぎゅうぅぅぅっと締め付けられることがある。
甘かったり、痛かったり、あたたかかったり、切なかったり苦しかったり。
やさしいだけでも、幸せなだけでもないのに、ずっとずっと、見ていたい。
魔除けの石。
清浄な森の緑。
綺麗な気持ちも、汚い感情も、全部包み込んでくれる不思議な色。
普段は少しきつめのその瞳がやさしい笑みを浮かべると、もうそれだけで幸せになる。

「すごいな。これからいつでも、お前のこと見ていられるんだな」

何だか感慨深げに口にされた台詞も、常の彼なら言わないようなもの。
ちょっぴり恥ずかしくて、すごくすごく嬉しい。

「でもま、あんまり怒らせないようにしないとな」

くすっと笑って、眦に残った涙を指で拭ってやる。

「怒られるようなことばっかりしないでよね」
「浮気したりとか?」
「馬鹿っ! そんなことしたら離婚だからね!!」
「でも、それ以外に怒るって」
「いっぱいあるでしょ?!」
「いや、でも怒ってるっていうより、今みたいに照れ隠しだったりすること多いから」
「──っ!」

なぜそれを、という風に頬を染めているカノンを見て、キニアンは目を丸くした。
そうして、ぷっ、と吹き出したのである。

「お前も、結構顔に出るよな」
「煩い! もう!」
「あはは」
「ちゃんと謝れー!」
「はいはい、ごめんなさい」

ちゅっ、と。 今度は顎先にキスをひとつ。
ううう、と悔しそうな顔でわなわな震えているのが愛しくて、嬉しくて。

「俺、たぶん今宇宙で一番幸せだと思う」

音楽家らしく感受性の強い青年は、薄っすらと瞳に涙を浮かべつつそう呟いた。
カノンはふんっ! と鼻を鳴らして、「そんなわけないじゃん」と文句を言った。

──だって、一番はぼくなんだから。

驚きに瞠られる若葉色の瞳に、カノンは宝石のような笑顔を浮かべたのだった。  




More and More Happy.

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