たった一目で囚われた。

惰性が生んだ熱気。
妥協がもたらした喧騒。
人で溢れながら、誰の目にも覇気がない。

その場所と存在する人間を端的に表現するとしたら、そんな言葉が馴染むだろうか。
ただ、活気のある下町、という意味ではない。
どんな国もその大小に関係なく、行儀の良い街だけでは構成されていない。
また、そういった部分が活発である方が国として栄えていることも確かである。
ひしめき合うような人の群れ。
足早に先を急ぐものもいれば、ひっそりと建物の影にうずくまるものもいる。
喧嘩をふっかけるものもいれば、息を殺すようにして顔を隠しているものすらいる。
服装ひとつとっても、様々な階級の人間がいるのだと見て取れる。
そこにいる人間を見て全体像を把握することが難しい、一度入ってしまったら、自分の存在すらあやふやになってしまいそうになる場所──。

冬だというのに熱気に満ちたそこに、何をしているわけでもなく、ただ歩いているだけなのに人目を引いて仕方ないふたり組がいた。
どちらも二十四、五歳といったところだろう。
ひとりは金茶の髪にくっきりとした飴色の猫眼が特徴的な青年。
小柄で細身だが、色が白く端整な面立ちをしている。
上品さとは縁がないが、女には──特に商売女には好かれそうな男である。
もうひとりは黒髪に藍色の瞳の青年。
絶世の、と評しても良いくらいの白皙の美貌に、鍛えられた長身。
いかにも青年貴族といった感じの品格があり、女には苦労したことがないに違いない。
ふたりとも、着ているものは上等だ。
見るものが見れば、彼らの外套をとめているブローチの紋章が下級の貴族のものでないことに気付くだろう。
小柄な猫眼の青年が、ずっと背の高い黒髪の青年を促すようにして歩いている。

「……レティシア。何をする気だ」

黒髪の青年が、低い声で右側の青年に声をかけた。
猫眼の青年は顔を上げ、にやりと笑った。

「王立学院一優秀なヴァンツァー・ファロット君に、社会勉強をさせてやろうと思ってよ」
「……」

その、明らかにからかう調子の声音に、ヴァンツァーは顔を顰めた。
目立つ容姿をしているため、道行く人の方が避けていく。
退廃的な雰囲気に満ち溢れたこの地域で、人々の関心を引くということは並大抵のことではない。
その人波を見渡し、ヴァンツァーは口を開いた。

「こんな下町まで来たことはないが、ここは……?」
「いわゆる、『市』だ」

レティシアの言葉に、ヴァンツァーは目を瞠った。
この国において、『市』が何を指すかは明白だ。
置いてないものはないと言われるそこは、治安や秩序といった言葉とは無縁のスラムである。

「……誰かに見咎められたら、何と言い訳をするつもりだ。俺はともかく、お前は既に伯爵位にあるんだぞ?」

ヴァンツァーは隣の青年に苦い顔を向けた。

「堅いこと言うなって! 学院と社交場以外に目を向けるのも、立派な社会勉強だって」

だいたいお前は社交場にだって顔出さねぇのに、と若くして伯爵位を継いだ青年は笑う。

「……」

何を言っても無駄と思ったのか、ヴァンツァーは嘆息するにとどめた。
本当ならば首に縄をつけてでも引っ張って帰るべきなのだが、いかんせんこの小柄な青年の方が、自分よりずっと力もあれば腕も立つのだ。

「──お。競りが始まるぜ」
「競り……?」

レティシアの視線を追うと、人だかりの更に先に、目線の高さにしつらえられた小さな舞台が見えた。
人々のざわめきと熱気、それと対照的な侮蔑の瞳。
レティシアに、競りとは何かを訊ねようとしたまさにその時、舞台の上に小太りの男が立った。

「さぁ、お集まりの皆様! お待ちかねのお時間でございます。今日の商品は粒ぞろい! 絶対に損はさせません! とくとご覧あれ!」

張りのある男の言葉を合図に、舞台の袖から幼い少女が出てきた。
栗色の髪に緑の瞳の、可愛らしい子だ。
十にも満たないくらいの童女。
ビクビクとちいさな肩を震わせ、しきりに周囲の目を気にし、今にも泣きそうな顔をしている。
それでも、集まった人間の中には歓声を上げるものがいた。

「さぁ、この美少女、もちろん生娘だ! 銅貨五十枚からどうぞ!」

男の掛け声に触発され、舞台の前の人だかりから次々に声が上がる。

「――……人身売買」

ヴァンツァーは顔を顰めた。
この国は十五年前、先進国の仲間入りをしようと、人権を擁護し、人身売買を撲滅する趣旨の条約に調印した。
むろん、それに伴い国内の法で人身売買は規制されている。
しかし、実際には暗黙の了解として残存している。
主に売買されるのは奴隷身分のものたちだ。
同じ人間でありながら、奴隷として扱われるものはあらゆる権利や自由がない──そもそも、人間だと認識されていないのである。
たとえば娼婦や男娼。
人身売買の言い逃れとして、牛馬と変わらぬ家畜なのだと表現される。
奴隷はその待遇もひどい。
ひとたび戦争が起これば大量に手に入るため、余計にぞんざいな扱いになる。
死んでしまっても代替が利く、というのが奴隷を扱う大多数のものたちの意見だ。
政府は機を見て人身売買をする商人たちを摘発するのだが、それで改心するようならばこの世に悪人はいないのである。

「な、社会勉強だろ? お前、潔癖君だからな。どこの国にもこういう裏はあるもんだ」

公爵家の跡取りならしっかり見とけ、とレティシアは言った。

「……あんな年端もいかない子どもを……」
「イチから仕込むのが楽しみ、って男は少なくない。個人客だけじゃねぇ。娼館が娼婦の補給なんかもする」
「――随分詳しいな」
「馴染みの娼婦に聞いた」
「……」

ヴァンツァーの秀麗な美貌には、嫌悪の色がありありと表れていた。
意見したところでこの幼馴染みの生活態度が変わるわけでもないので、何も言わないだけだ。
そうするうちにも競りはどんどん進んでいき、数人の少女が売れていった。
やはり、見目の良いものは値がつり上がる。
それでも、銀貨四、五枚払われれば良い方である。

「さぁて、今日の最後の商品がまた素晴らしい! ちょいと成長しておりますが、 それはそれで楽しめるってもの。しかも、銀髪に紫の目の天使だ!」

一瞬の静寂のあと、割れんばかりの歓声。
吐き気にも近い嫌悪感に耐えきれず帰ろうとしていたヴァンツァーは、足を止めて振り返った。
息を呑み、目を見開く。
男の言葉は誇張ではなかった。
──まさに天使。
まともな食事をしていないのだろう。
長い銀の髪は荒れていて灰色にも見えるし、痩せすぎの身体はみすぼらしい。
冬だというのに着ているものは薄汚れたボロ布一枚だ。
しかし、そんなものは金をかければいくらでも改善できる。
舞台に立った天使は、それなりの金を使っても納得できる程の美貌の持ち主だった。

「この天使、実は男の子だ!」

司会の言葉にどよめきが起こる。
言われてもにわかには信じられない。

「さて、こんな上玉はまず出ない! ちょっと値が張りますよ……銀貨五枚からだ !」

今までとは、値がつり上がる速さが違った。
どうあっても手に入れたいと思う人間たちが、我先にと声を張り上げる。
男だけではない、中には女性の声も混じっている。
あっという間に銀貨三十枚まで上がった。
銀貨五十枚あれば、中流家庭が三ヶ月近く暮らしていける。

「五十!」
「六十!」
「――金貨一枚!」

金貨にまで値が上がり、熱気は最高潮に達した。
しかし、二枚以上金貨を出せるものはなかなか出ない。
金貨に銀貨を足して値が上がっていく。
金貨二枚あれば一般家庭が一年暮らせるのだから当然だろう。
それでもとどまることを知らないかのような値の上がり方。

「……」

ヴァンツァーはじっと競りの行く末を――正確には天使のような少年の顔を見ていた。
鼓動が速い。
手に汗握るとはこのことだろうか。
伏し目がちな少年を睨むように見つめ、心中呼びかける。

『――こちらを向け』

その声が届いたわけでもあるまいに、少年はふと顔を上げた。
紫水晶の瞳と、深い藍色のそれが出逢い──絡む。
一瞬だ。
すべてはその一瞬。
どこまでつり上がるのかと期待された値に終止符を打ったのは、静かでありながらよく通る男の声だった。

「金貨三十」

決して大きくはないその声に、人々は一斉に振り返った。

「……ヴァッツぅ……」

レティシアが頭を抱えている。
社会勉強には来たが、実際競りに参加するなど家に知られたらどうなるか。
しかも金貨三十ときた。
貴族の屋敷とまではいかないまでも、家が一件建つ。
そんな幼馴染みの声音に気づいてないはずもないのに、ヴァンツァーはスタスタと舞台へ向か った。

「聞こえなかったか? 金貨三十と言った」

淡々とした物言いの美しい青年に、競りの対象となっている少年も目を瞠っている。
ヴァンツァーは舞台前に集まった群集に視線を向けた。
威圧的な雰囲気に、一瞬怯む人々。

「まだ出せるものはいるか?────いくらでも上乗せするぞ」
「……き、金貨で?」

自分の聞き違いかと、司会をしている奴隷商の男は裏返る声で訊ねた。
場内は静まり返り、誰もそれ以上の値を提示しない。

「他がいないのなら、これは連れていく」

懐から革袋を出し、ポカンとしている司会に握らせた。
ずっしりとした重さに、 はっと我に返る。

「き、金貨三十以上の方! いらっしゃいませんね?! はい、落札!!」

ホクホク顔の男を後目に、ヴァンツァーは少年の肩に自分の外套をかけてやり、舞台から降りるよう促した。

「あ、あの……」

レティシアの元へ戻る途中、少年が口を開いた。
見た目を裏切らず、少年とも少女ともつかない美しい声。

「何だ」

見下ろしてくる美貌に表情はなく、少年は肩を震わせた。
胸の前で手を握り、懸命に声を押し出す。

「あ……あんな大金……私が何をやっても追いつきません……」
「大金?」

不思議そうな顔になるヴァンツァー。
頷きながら、少年は自分を買った人間のあまりの美しさに、つい見惚れそうになった。
硬質で、誰も侵すことのできない結晶のような美貌。

「……だって、金貨三十枚なんて……もっと安く競り落とせましたのに……」

居心地悪そうに視線をさまよわせる。
金持ちの考えることはよく分からない。
しかし、素直にそう言ったら殴られるかも知れない、と少年は言葉を濁した。
ヴァ ンツァーは面白くもなさそうに呟いた。

「――人ひとりの価値に対して、あれでも安すぎるくらいだ」
「価値……」

自分のような奴隷に対して使われる言葉ではない。
意味は知っているが、奴隷身分の者は牛や馬にも劣る存在とされているのだから。
それは、人身売買が禁止されようと同じこと。
奴隷の子は奴隷として扱われ、当然のように売り買いの対象になる。
平民の子だとて、借金のカタに売られることがあるくらいだ。
それも、タダ同然の捨て値で。
だから、少年は素直に驚いた。

「あいにく手持ちがあれしかなかった。――まぁ、商人どもの懐を潤してやるのは癪だがな」

皮肉な笑みを張りつける。

「……あれ、しか……」

少年は相変わらず、ポカンとしている。
あんな大金を何でもない金額のように扱うこの人物は、一体何ものなのか。
ふ、と視線が落ちてくる。
遠目には黒かと思った、深く澄んだ藍色の瞳。

「お前、名は?」
「……シェラ、と……」
「女の名前だな」

シェラと名乗った少年は、眉宇を曇らせた。

「……そう、扱われてきましたから……ご不快でしたら、お好きなようにお呼び下さい……」

どうせ、今までの自分の主人たちは、ほとんど名前など呼んでくれなかった。

「──ラ」
「……」
「シェラ。聞こえないのか?」
「あ、は、はい! すみません、名前呼ばれるの慣れてなくて……」

驚き顔を跳ね上げるさまに、ヴァンツァーは僅かに目を眇めた。

「……シェラ。お前は今日からうちで暮らす」
「はい……下働きでも何でも」
「人手は足りている」
「──……では、夜伽を……」

僅かに語調が硬くなった。
それでも、どこか諦めている声音だった。
ヴァンツァ ーは苦い顔になり、僅かに躊躇ったが口を開いた。

「……お前は、以前にもそんな扱いを?」

見たところ、十六、七。
発育状態が悪く、年より幼く見えることを考慮した上での年齢だ。
外見に沿って考えるなら、十四程度にしか見えない。

「あ……」

シェラは肩を震わせた。 気持ち悪がっているのかも知れない。
いや、綺麗な身体でないことが気に入らないのかも。

――そもそも、この人はなぜあんな大金で自分を買ったのか。

「あ、あの……」

怯えたように細い身を震わせる。
肩にかけられた外套を、胸の前でかき合わせる。
それを見たヴァンツァーはシェラに気付かれないよう嘆息した。

「……お前には、俺の身の回りの世話をしてもらう」
「……はい?」
「着替えや入浴の手伝い、部屋の掃除、ベッドメイク。できるか?」
「あ……たぶん」

シェラは目を丸くした。 それではまるで侍女か使用人の待遇だ。

――自分は奴隷なのに。

奴隷はそんな、室内での仕事などさせてもらえない。

――室内に入るときは、することなど決まっているのだ。

「では励め」

ヴァンツァーはレティシアの元へ戻ると、ことの顛末を説明し、協力を取りつけた。
過ぎたことを気にしないのは、この青年の数少ない長所のひとつだとヴァンツァーは認識していた。
予想に違わず、レティシアはシェラににこやかな笑みを向けた。

「よろしく、お嬢ちゃん」
「……よろしくお願いします」

シェラは深々と頭を下げた。

「ふぅん。磨けば光りそうだな」

レティシアはシェラの顎を捉えた。

「気安く触るな」

ヴァンツァーは顔を顰め、シェラの肩を抱き寄せた。

「お前が触ると妊娠する」
「するかよ、男が」
「俺のものだ」

今まで言われてきた言葉の響きと違う気がして、シェラの頬が染まる。
力強い腕も、気持ち悪くはなかった。
見た目がいいからだろうか。
何て自分はゲンキンなのだろうか。
たかだか奴隷のくせに。

「相変わらず手懐けるのが上手いなぁ」

シェラの変化を見てレティシアは苦笑した。
ヴァンツァーはたしなめる顔つきになった。

「人聞きの悪い……」
「人間だって動物だぜ? なぁ、お嬢ちゃん?」
「え?」
「つき合うな」
「は、はい……」
「苛めんなよ」
「苛めていない」
「あ、あの……? 喧嘩は……私などどうでも──あ、すみません。思い上がったことを……」

恐縮して縮こまるシェラを前に、青年ふたりは顔を見合わせた。

「すっげーキスしたい気分」
「……お前殴られたいのか……?」
「だって可愛いじゃん。私のために喧嘩しないで、だってよ。男冥利に尽きる台詞だな」
「お前が男もいけるとは知らなかった」
「さすがにヤられるのは嫌だけどよ、可愛がるくらいなら気にしねぇな」

このお嬢ちゃん可愛いし、と言ったら睨まれた。

「……お前心狭いねぇ。昔は可愛かったのに」

深く嘆息するさまに、ヴァンツァーは鼻を鳴らした。
そうして、シェラに視線を移した。

「俺はヴァンツァー・ファロット」
「未来の公爵様だぜ」
「え?!」

そのあまりに高貴な肩書きに、シェラは瞠目した。
今までの主人は商人が多 く、貴族だとしても地方貴族だ。
爵位を持つものなどいなかった。

「あ……あの……」

カタカタと震えるシェラ。
そんな高貴な人物の屋敷へ赴いて、粗相を犯さない自信がない。
それが分かったのだろう、ヴァンツァーは薄く微笑んだ。

「案ずるな。取って食いはしない」
「え……?」
「俺はお前を叱るために手元に置くわけではない。少しずつ、覚えていけば良い」

安心させるように微笑むヴァンツァー。
端正な容貌が、更に際立つ。

「――はい」

ようやくシェラは微笑を浮かべた。
硬く閉じていた蕾が綻ぶような、そんな笑顔だ。

「わぉ、極上!」
「レティー……」

伯爵とも思えない言動に、頭を抱える。

「なぁ、こんなムッツリより俺にしない ? 俺だって伯爵だし、今はこいつより身分上だぜ?」
「レティシア」
「医者だから何かあったとき重宝するって」

さぁ、どうだ、と言わんばかりの態度に、シェラはつい吹き出してしまった。

「ありゃ。これって笑うとこか?」
「正確には呆れるところだな」
「俺、大真面目だぜ?」
「……尚悪い」

そんなやり取りをしながら、シェラは新しい主人の屋敷へと向かったのだ。
今までの主人たちとは比べ物にならないくらいの大人物。
爵位を持つ貴族の生活は未知の世界。
それでもこの青年ふたりは、奴隷である自分にも気さくに話しかけてくれる。
少なくとも、表向きはそういう態度を取っている。
久々に、呼吸が楽になるのを感じる。
大きく息を吸える。
しかし、前を行く主人の顔を見るたび、シェラは言い知れぬ不安を覚えるのだった──。  




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