この国の王宮は、白亜の城塞と呼ばれる難攻不落の名城だった。
険しい山脈を背後に据え、そちらからの侵入を懸念する必要がない。
前面は、といえば、王宮を囲む城壁の前には貴族の屋敷が連なっている。
ひとつひとつの屋敷が大きなことは当然だが、王都でありながら樹木の多い敷地を抱え、騎馬による侵攻は難しい。
火をかければ、という戦略だが、実はそれも効果的とは言えないのだ。
なぜなら、各屋敷は周囲に堀を巡らし、行き来はかけられた橋によって行われるからだ。
一箇所を焼き討ちにしたからといって、その戦火が周囲に及ぶことはまずない。
更に、貴族の屋敷の設けられた郭にも城壁が築かれ、その前面には一般の市民が暮らす街がある。
大きな国だ、人口も多い。
必然的に街の規模は巨大になり、家の数もそれに準じる。
生活の場を自然の城郭となし、王宮へ攻め込むことは不可能に近い。
しかし、それは同時に騎馬隊を主力とする兵が出陣をするのにも不都合があるということだ。
それでも、とりあえず周囲にこの国と比肩するほどの大国はなく、ここ数年は大きな戦争も経験していない。
この国は、攻めることよりも、守ることを主軸に置いた国づくりを行っているのである。
ファロット公爵家は、そんな貴族屋敷の中でも最大規模の華麗な館だった。
本館と別館に分かれた屋敷の部屋数はそれぞれ数十を数え、使用人はゆうに数百。
侍女ひとりとっても地方貴族の娘である。
下男として働いているものも、名目上は平民から雇い入れているのである。
売買によって手に入れた奴隷を公然と使えない、貴族の苦肉の策である。
だがもちろん、この屋敷にも奴隷はいる。
ただ、体面上一般的なそれよりもずっと待遇が良い。
奴隷たちのための建物が用意され、内容は貴族のものに劣るとはいえ食事も三食出る。
それだけでも、シェラには驚きだったのだ。
「ここがお前の部屋だ」
だから、ヴァンツァーがそう言って自分を招きいれた部屋を見たときは、驚いたのを通り越して失神するかと思った。
そこは公爵家の別館、主にヴァンツァーとその使用人が居住する館。
そして、新たな主人の私室の隣だったのだから。
採光の良い、広い室内。
公爵家にあるものだから、調度はどれも一級品に違いない。
「世話をしてもらうのだから、近くに部屋があった方が便利だろう?」
何でもないことのような顔をしているヴァンツァー。
シェラは一瞬、やはり貴族の子息は世間知らずなのか、と思った。
だが、違うらしい。
「本当は、下男として働くものたちにも部屋を与えてやれれば良かったのだが……」
あとから侍女に聞いた話だが、奴隷たちの住む建物を建てたのは、ヴァンツァーの指示だというのである。
当時まだ十歳の少年が、父公爵にそれを進言したらしい。
だから、この屋敷内においてヴァンツァーを慕うものは男女も身分の上下も問わず多い。
美しく、聡明で高潔な若き主人。
あまり表情の動かない人物だから冷たい人間と誤解されがちだが、彼と接したことのある人間は皆そう口を揃える。
金で買われた奴隷でありながら、屋敷のものがシェラにやさしいのも、そういった事情があるのだろう。
──そう、シェラは丁重に扱われた。
奴隷だからと蔑むものはなく、若主人の隣室に部屋を用意しろと言われたときも、侍女は不平ひとつ言わなかった。
この主人のすることに間違いはない、とある種盲目的に信じているところがあるのだ。
また、それにはシェラの美しさもものを言った。
屋敷に来たときは薄汚れていたシェラだったが、風呂に入り、清潔な衣服を身に纏った姿は屋敷中の使用人のため息を誘った。
ヴァンツァーですら、一瞬目を瞠ったのだ。
人の視線には慣れているシェラだったが、いつもよりもその数が多い。
戸惑っていると、ヴァンツァーはさらりとシェラの銀髪を梳いた。
「美しいな」
あらゆる女性が気絶しそうになるほどの、艶やかな笑み。
シェラもつい頬を赤らめた。
「必要なものや分からないことがあったら、遠慮なく言ってくれ」
「はい……」
「では、呼ぶまでは部屋で休んでいるといい」
その言葉に頭を下げ、自分に与えられた部屋に入るシェラ。
「……」
広い部屋を見渡し、茫然とする。
休んでいろ、と言われても、こんな高級品に囲まれた部屋では落ち着かない。
よほど他の奴隷たちが住んでいる建物に移して欲しい、と訴えようかと思ったが、主人の気遣いを足蹴にするような真似は許されない。
また、実際世話をするのに離れた場所にいるのでは不都合がある。
「……ふぅ」
大きなため息を吐くと、シェラは恐る恐る長椅子に腰掛けた。
ふかふかとやわらかな感触。
ここ最近、こんなにやわらかなものに包まれたことはなかった。
寝台も、岩かと思うような硬いものだった。
だから、落ち着かないとはいっても、安心したのだろう。
いけない、とは思いつつも、シェラはつい眠ってしまったのである。
次にシェラが目覚めたとき、日は既に落ち、空は藍色に染まっていた。
愕然として跳ね起き、部屋を飛び出す。
慌しく、隣室の扉をノックする。
開いている、という声が分厚い扉の奥から聞こえてきたので、シェラは恐縮しながら扉を開けた。
「も、申し訳ございません、ご主人様!」
部屋に入るなり真っ青な顔で頭を下げるシェラに、ヴァンツァーは訝しげな表情を向けた。
ソファから立ち上がり、入り口へと向かった。
「どうかしたのか?」
心底不思議そうな顔と声音に、シェラは一瞬呆けそうになり、しかし気を引き締めて再び頭を下げた。
「そ、その……疲れが出たようで、つい眠ってしまって……本当に、申し訳ありませんでした!」
早口に視線をさまよわせながら事実を語り、謝罪する。
鞭で打たれるくらいは覚悟しているが、この主人なら、誠意が伝わればひどいことはしない気がしたのだ。
ヴァンツァーはやはり首を傾げてこう言った。
「特に用事はなかったから構わない。疲れているなら、先に食事を摂って寝るといい」
「──……は?」
ポカン、と口を開けて主人を見上げる。
夜空と同じ藍色の瞳は実に生真面目で、不機嫌さはかけらもない。
「腹は減っていないのか?」
「あ、いえ……そうではなく……」
「何だ?」
「あの……お仕置きは……?」
これにはヴァンツァーが目を丸くした。
「何のために?」
「え?」
ふたりとも目をぱちくりさせて顔を見合わせている。
「あ、あの……だって、勝手に眠ってしまいましたから……」
おどおどと口許に手を持っていくシェラ。
ヴァンツァーは嘆息した。
「シェラ」
ピクン、とシェラの肩が上下する。
「はい……」
緊張して肩が強張っているのが見て分かる。
ヴァンツァーはシェラの肩に手を置いた。
その細さと薄さに、僅かに眉を寄せる。
「あ、も、申し訳ありません」
唐突に謝罪するシェラに、ヴァンツァーは「何がだ?」と訊ねた。
「え? あ、いえ、その……お怒りなのでしょう?」
どうやら勘違いをさせてしまったようだ、とヴァンツァーは首を振った。
「──今日はゆっくりと休め。明日からしばらくは、他の侍女に仕事を教わるといい」
紫の目を見開いたまま、シェラは固まってしまった。
「シェラ?」
「……あ、あの……お咎めは?」
「お前は、咎められるようなことは何もしていない」
「ですが」
「睡眠は、人間に必要な行為だ。疲れているのなら尚のこと。人間として当然の欲求に従っただけのお前を、咎める必要がどこにある?」
瞬きすらできず、シェラは穴の開くほど主人の顔を見つめた。
「……人間……?」
「シェラ?」
呟いたまま動かなくなってしまったシェラの頬に、ヴァンツァーはそっと触れた。
この年頃の少年にしては、圧倒的に肉のない身体。
肌はやわらかではあるが、健康的とは言い難い。
「あっ」
弾けたように身を引き、シェラは行き場をなくした手をどうすることもできないでいる主人の顔を見た。
不思議そうに瞬きをしている、妖艶な美貌。
シェラは息を呑んだ。
そして、素早く頭を下げると、自分でも何を言っているのか分からない言葉を残して自室へ飛び込んだのである。
しばらく隣の扉を見つめていたヴァンツァーだったが、そこへ侍女がやってきて食事の用意ができた旨を告げられ、食堂へと向かった。
そして、シェラの部屋へ食事を運ぶように言いつけたのである。
この屋敷は、居心地が良い。
過ごしてみて一週間も経つ頃には、シェラはすっかりこの屋敷の人気者になっていた。
美しいことは言うまでもなく、仕事の覚えも早い。
触ったこともない高級品を扱うことにはまだ慣れないが、その分仕事は丁寧になる。
でしゃばらず、控えめな性格のシェラは、ヴァンツァーはもちろん、他の使用人の不興も買わないような立ち居振る舞いのできる人間だった。
与えられる仕事は、分量こそ多いが今までの生活に比べたらずっと楽なことばかりだった。
食事はお腹いっぱい食べられるし、夜はふかふかの寝具で眠ることができる。
ただの奴隷である自分がこんな生活をさせてもらえるなんて、これは夢なのではないか、とシェラは何度も頬をつねった。
そんなシェラを見るたびに、ヴァンツァーは笑いたいのを堪えるような、妙な顔つきになるのである。
そんな毎日を過ごしていたから、時折種類の違う視線が向けられることも敏感に感じ取った。
むしろ、そちらの視線の方が自分には馴染んだものだ。
「あぁ……それは、本館の、お館様がお使いの使用人ね」
侍女頭のカリンが深くため息を吐いた。
「お館様? 公爵様のことですか?」
カリンは頷いた。
「お館様は王家にも連なる、高貴な生まれの方だから。使う侍女も、特に選ばれた貴族の娘をお使いなの」
シェラは首を傾げた。
「ご主人様とお館様では、お世話する人間が違うのですか?」
「もちろんよ。──大きな声では言えないのだけれど……」
カリンはシェラに耳打ちするように話した。
「公爵というご身分上、お館様はヴァンツァー様が奴隷の待遇改善を訴えなさったときご承知になったけどね、本当はそんな気サラサラなかったのよ」
「……」
シェラは内心、それが当然なのだ、と頷いた。
貴族とはそういうものである。
特に古くからある貴族の家系は、何よりも血統を重んじる。
保守的で、何より新しい流れを恐れる集団。
自分たちの基盤を脅かす存在は、全力で叩く人間たちなのだから。
「でも、お亡くなりになったヴァンツァー様のお母上様が、先王の姫君でいらしたから」
表立って文句も言えなかったのでしょう、と結論付けた。
「お館様のお使いたちは、はっきり言ってあまり心根の良いものたちばかりではないわ。何かあったら、遠慮なくヴァンツァー様に訴えなさい」
「……でも、私は奴隷ですから」
目を伏せ、諦観したような笑みを口許に浮かべる。
「シェラ」
「……はい」
この人も、きちんと自分の名を呼んでくれる。
それだけのことが、こんなにも嬉しい。
「言葉を飾らないで言えば、確かにあなたの生まれは卑しいのかも知れない」
「……」
「でもね、気持ちまで卑しくしてしまってはダメよ」
「カリン様……」
「あなたは美しいのだから、これからは胸を張って、自分の内面を磨くことを心がけなさい」
そう言われても、自分の出自が変わるわけではない。
「いいこと、シェラ。あなたのすることは、すべてヴァンツァー様の評価へと繋がるのよ」
大きく目を瞠るシェラ。
「あなたが生まれの通り卑しい気持ちでいたら、あなたをお傍に置いているヴァンツァー様まで、白い目で見られるの」
「……」
反射的に首を振るシェラ。
それは嫌だった。
自分のせいで、あの人が悪く言われるなど耐えられない。
こんなに素晴らしい生活をさせてもらえているというのに。
「あの方のなさっていることは、人道的にも立派なことだわ」
「はい」
しっかりと頷くシェラ。
あの人は、砂漠の中の砂金にも等しい人。
稀有な魂の持ち主。
「あの方が公爵位をお継ぎになって政治に携われば、この国はきっと今より栄えます」
これにも頷いたシェラ。
「その足を引っ張らないためにも、もっと自分を高めなさい」
厳しいけれど、隠し切れない慈愛の表情をもってカリンはシェラを諭した。
シェラは思わず涙ぐんだ。
こんな風に言葉をかけてくれる人は、数えるほどしかいなかった。
だから、心からの笑顔を浮かべて頷いたのだ。
あの主人のために。
奴隷の自分にも、人間としての価値があると言ってくれたあの人のために。
今よりもっと、もっとあの人に尽くそう。
その恩に報いるためにも。
あの人に、自分のような存在が少しでも減る世の中を作ってもらうために。
シェラはカリンの言葉を胸に刻み込み、ヴァンツァーのために精力的に働いた。
徐々にではあったが、臆することなく、主人の目を見て会話ができるようになっていった。
その変化を、ヴァンツァーは喜んだ。
顔に出したり、何か行動を起こしたわけではないが、ふとした拍子に浮かべる微笑がやさしいのだ。
三ヶ月が経つ頃には、あの『市』で出逢ったときより、ずっと明るい雰囲気になっていた──シェラも、そしてヴァンツァーも。
お互いがお互いに良い影響を及ぼしている。
カリンや、執事のブルクスはそう思ったようである。
本人たちも、そう認識していた。
シェラは、ヴァンツァーの高潔な精神に触れることで自分を高めることを知った。
ヴァンツァーは、まるで弟でもできたかのようにシェラを慈しんだ。
──だが、ふたりは知っていた。
そんな自分たちの考えが、真実を覆い隠す殻でしかないことを。
すべては、一瞬。
瞳がぶつかり、溶け合ったあの一瞬。
どんな言葉を尽くそうと、どんな言い訳をしようと、それは無駄なこと。
一度惹かれあってしまった心は、到底欺き続けることなどできないのだ──。
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