だから、それは錯覚なのだ、と。

良好な環境で生活しているため、シェラは輝くばかりに美しくなった。
奴隷どころか、良家の令嬢と言っても誰もが信じるだろう。
むろん女性ものの服ではなく、白いシャツにズボン、ベストという飾り気のない服装なのだが、緩く編んで胸の前に垂らした銀髪も美しく艶やかで、華やかな印象を与える。
襟元にはスカーフを用いることが多いので、それをとめるためのブローチをヴァンツァーは贈った。
七宝焼きの、青地に紅い薔薇の模様が綺麗なブローチ。 シェラは「とんでもない」と返そうとしたのだが、「似合いだ」と微笑まれてしまえば突き返すことはできなかった。
シェラにしてみれば、こんなに美しいブローチは、自分のようなものには似合わないのを通り越して滑稽でしかないのだ。
着こなし方も、扱い方も分からないのだから。
それでも、別館の使用人たちはシェラの美しさを讃え、ヴァンツァーからの贈り物を似合うと言うのだった。
ヴァンツァーも、シェラを美しいと思った――否、それは一目見たときから分かっていたこと。
だから、やはり、という思いが強い。
屋敷──主に本館のものがシェラを見る目も変わった。
ただの奴隷を見るものから、羨望や欲望の混じったものに。
侍女たちは美しい若主人のもっとも傍にいるのが、自分より余程美しい、しかし男だということが許せないようだった。
男たちは、男とも思えない、少女のように可憐な美しさに目を奪われた。
それに、シェラの銀髪は、彼らにとって馴染みの深い色彩なのである。
ヴァンツァーの手前、あからさまに表に出したりしないが、シェラを様々な感情のこもった眼で見るものは多い。
──そして、使用人たちのそんな思惑に気づかないほど、ヴァンツァーは愚鈍ではない。
シェラの美しさが認められて嬉しいのか腹が立つのか、彼にも分からなかった。
最近のシェラは外見だけでなく、内面からも滲み出るような美しさがあるのだ。
おそらく、貴族である使用人たちにも、それが見て取れるのだろう。
よく笑うようになったし、姿勢も良く、歩く姿も美しいと思える。

「今日は、気持ちの良い風が吹きますね」

ふたり並んで広い庭を散歩するのは、朝の日課とも言える行為だった。
今は紐を解いているため風になびく銀髪。
それを耳にかけるだけの仕草に、そこはかとない色気を感じる。
こうして緑濃い庭に立っているだけで、絵画から抜け出したかのような華がある。

「……絵の中に戻ってしまえばいいのに」

ポツリと呟いた自分の言葉に、ヴァンツァーは愕然として口を押さえた。

「ご主人様? 何かおっしゃいましたか?」

風で聞き取りづらくて、と首を傾げるシェラ。
身長差のために、自然と上目遣いになる。

「……」

それだけ。 他意はない。
シェラは、何も意識してはいない。
ただ歩いているだけなのに鼓動が速くて、ヴァンツァーは己の心臓の動きに寒気がした。

「……何でもない」
「ご主人様?」

やはり不思議そうな顔で見つめてくるシェラ。

「何でも、ない……」

自分に言い聞かせるように、ヴァンツァーはぎこちなく微笑した。


その日は、朝から慌しかった。
本館の様子は分からないが、別館では料理人たちが休む間なく料理を作り、侍女たちは食器やテーブルクロス、カーテンなどを常より質素なものに替えていった。
テーブルに置かれた花瓶には白い花、燭台も銀製、あらゆるものが白色に替えられた。

「今日は、何かあるのですか?」

起床時刻もいつもより早く設定されており、シェラは気になっていた。
忙しさになかなか訊ねる暇がなかったのだが、仕事がひと段落したところでカリンに話しかけた。

「──あぁ。シェラは知らないのよね」
「はい?」
「明日は奥様の──ヴァンツァー様のお母上様の命日なのよ」

紫の瞳が瞠られる。

「もう十三年になるのだけれど、この一両日は冥福をお祈りするために敷地の外へ出ることはできないから、注意してちょうだい。明日は火を熾すことも許されないの」

だから料理人たちは作り置ける料理をひたすら作っていたのか、と気付く。

「……お館様は覚えていらっしゃるのか。本当ならば、親子ご一緒に会食などなさるべきなのでしょうけれど……」

大きなため息を吐くカリン。

「あ……ご主人様を、起こして参ります」

言い置いて行こうとしたシェラに、カリンが制止の声をかける。

「たぶん、お部屋にはいらっしゃらないわ」
「え?」
「奥様のお部屋へ赴いて、礼拝をなさっているはずだから」
「あ、はい」

頷き、シェラは先王の姫君の部屋へと向かった。

「失礼いたします」

軽くノックをしたあと、できるだけ静かに扉を開けた。
室内には、カリンの言葉に違わずヴァンツァーの姿。
ゆっくりと振り返る主人の礼拝の邪魔をしてしまったかと、シェラは恐縮した。

「あ……お邪魔でしたでしょうか?」
「──構わん。入れ」

シェラは一礼して入室した。
質素ではあるが、埃ひとつない祭壇が置かれた部屋。
この館でもっとも採光の良い部屋である。
祭壇の上には肖像画。

「……この、方が?」

食い入るように絵を見つめるシェラ。

「あぁ。母だ」
「お美しい方……」

半ば放心して呟く。 ヴァンツァーは母親似なのだろう。
絵の中の人物は、黒髪に青い瞳の美女である。
穏やかな笑みをたたえた姿は、まるで聖母。
王族だというのだから、その高貴さが絵に表れているのかも知れない。

「こんなお美しい方、お目にかかったことがありません」

ヴァンツァーはふっと笑った。

「母が聞いたら小躍りして喜ぶ」
「こお──」

絶句してしまったシェラだ。
ヴァンツァーの母は高貴な姫君なのではないのか。
そんなシェラの戸惑いを感じ取ったのだろう。
ヴァンツァーは言葉を加えた。

「子どものような人だったからな。だが、できないことのない、本当に、非の打ち所のない人だった」
「……」
「家事が好きで、よく料理長やカリンを泣かせていた。それに乳母を使わず、俺のことは自分の手で育ててくれた」

昔を懐かしむかのようなヴァンツァーの声音は、いつになくやわらかい。

「……ご自分で?」
「それどころか、剣術も馬術も嗜む」

目も口も真ん丸にして、シェラは茫然とした。
想像していた姫君というものの姿と、全然違う。
城の奥深く、すべての仕事を使用人に任せて日々を暮らしているのではないのか。

「──嗜むなどという程度ではないな。俺は幼い頃、母に剣を教えてもらった。暴れ馬だろうと難なく乗りこなすし」

まさに稀代の女騎士だった、と楽しそうにくつくつと笑う。
シェラは、もう呆れるしかできなくなった。

「……こんなに、お美しい方が……」
「外見だけではなく、内面の美しい人だった。下男のための建物も、後押ししてくれたんだ」

シェラは反射的に頷いていた。

「きっと、ご主人様はお母上様に似られたのですね」
「……俺はそんなに破天荒か?」

真顔で訊ねてくる主人に、シェラは苦笑して頭を振った。

「いえ。心の高さの話です」
「……どうかな?」
「え?」
「──いや、何でもない」

首を傾げるシェラだったが、ヴァンツァーに促されて部屋を出た。
その日は静かに、つつがなく過ぎていった。

──日付が変わる直前までは。

喪に服する日として、いつもより軽い酒を自室で嗜むヴァンツァー。
普通の使用人がこんなことをするのかどうかは知らないが、シェラは酌をするため主人の部屋にいる。
デカンタに移した葡萄酒がなくなったので、グラスと一緒に下げようと立ち上がるシェラ。
その手を取るヴァンツァー。

「ご主人様?」

訝しげに首を傾げる。

「……もう、休む」

軽く目を伏せて呟く。
それに頷きを返し、シェラは一端盆を置いた。

「おやすみなさいませ」

礼儀正しく頭を下げる。
ヴァンツァーは表情を険しくし、唇を引き結んだ。

「ご主人様?」

緊張感がこちらにも伝わってきて、シェラは主人の顔を覗き込んだ。

「……少し、いてくれないか?」

目を丸くするシェラ。
ヴァンツァーの声が震えている気がするのだ。

「あの……」
「……情けないと思ってくれて構わない。──怖いんだ」

シェラは一瞬息を止めた。
自分の手首を掴む手が、小刻みに震えている。

「……どうしても、この日だけはダメなんだ」
「ご主人様……?」
「俺を寝かしつけた母は、翌朝隣で冷たくなっていた」
「……」
「いつもと同じように物語を読み聞かせてくれて、いつもと同じ笑顔でキスをくれたのに……」
「……」

ギリッ、と手に力が込められた。
痛みに顔を顰めそうになり、それを我慢するシェラ。

「……だから、明日朝起きたら、また誰かが死んでいるんじゃないかと……」

毎年、そう思って生きてきた。

「……」
「……とっくに成人した男が何を、と思うだろうな」

自嘲気味に呟かれた言葉に、シェラは首を振った。

「……おやすみになるまで、傍におりますから」

ふわり、と微笑んでみせるシェラ。
絵の中のあの人のように美しくはないだろうけれど、安心させるように微笑めば、この人は落ち着くかも知れない。

「──今日だけでいい」

ふと顔を上げるヴァンツァー。
じっと、真剣な顔で瞳を覗かれ、シェラは瞬きもできなくなった。

「……今日だけ、一緒に眠ってくれないか?」

消え入りそうな声。
紫の瞳が見開かれたのを拒絶と取ったヴァンツァーはその美貌を歪め、シェラの手を放した。

「──悪い。何でもない、忘れてくれ」

踵を返し、寝台へ向かうヴァンツァー。

「あの」
「……何だ?」
「あ……」

思わず声をかけてしまったが、シェラは自分のしたことが分からないかのように視線を揺らした。
ちらり、と主人の顔をうかがう。
無表情に見えるが、僅かに顔色が悪い。
先程の声の弱さも、自分の手首を掴んだ手の強さも覚えている。

「……」

シェラは瞳を閉じた。
これは、主人の頼みなのだ。
ただ、一緒に眠るだけ。
朝起きたとき、隣に生きている人間がいれば、きっと安心するのだ。
この人に他意はない。
それに、自分は金貨三十枚分を返さなくてはならないのだから。
この人の願いは、叶えなくては。

──自分にだって、他意は、ない。

シェラはゆっくりと瞼を持ち上げた。

「……私は物語など知りませんけれど、それでもよろしければ……」

にこり、と笑みを浮かべる。
破裂しそうになる心臓を押さえつけて。

「……ありがとう」

ほっとしたように表情をやわらげるヴァンツァーを見て、シェラは、自分の選択は間違っていない、と内心呟いた。


ヴァンツァーは、物語を読んだことがないというシェラに教養も与えた。
少年は砂が水を吸収するように、読み書きを覚えていった。
優秀な生徒の成長を、ヴァンツァーは嬉しく思った。
──同時に、恐ろしくもなった。
美しく聡明な、非の打ちどころのないシェラでは、懸想するなという方が無理である。
奴隷には平民と違って、貴族との婚姻は許されていない。
それでも、手元に置くことはできる。
国王が許せば、奴隷を平民にすることも可能である。
同性どうしの婚姻は認められていないが、誰だって愛人のひとりやふたりは作る。
貴族はとかく、見目良い少年を傍に置くことを好む。
女性的な容貌のシェラだから、女性よりも男性から言い寄られることの方が多いだろう。
人身売買は禁止されているとはいえ、シェラはヴァンツァーの買った奴隷である。
いうなれば、銀髪の佳人は未来の公爵の所有物。
ファロット公爵家にそんな申し出のできる人間はまずいないが、ない話と切り捨てることもできない。

「……誰が、手放すか」

自覚もせず、ヴァンツァーはポツリと呟いた。
それが、主人が使用人に向ける感情よりもずっと深く強いものだと、どこかで気付いてはいたのだけれど。

ある日、シェラはヴァンツァーの部屋に花を飾りに来た。
花瓶には、芳香を放つ深紅の薔薇。
ビロードのような花弁は、まだ朝露に濡れている。

「美しいな」

ヴァンツァーは感嘆の声を漏らした。
薔薇自体も美しいが、活け方も申し分ない。

「ご主人様に教わった通りにしたつもりですが、見苦しくはありませんか?」
「見事だ。朝露を残しながら棘を取るのは苦労したろう」

シェラは目を伏せて微笑んだが、そっと手を後ろに隠した。
それを見逃すヴァンツァーではない。

「あっ」

シェラの手を取り、端正な容貌を顰めた。
薔薇の棘で傷だらけの手。

「……素手でやったのか?」
「感覚が鈍りますから……。ただでさえ不器用なのに」

シェラはちいさく身じろぎし、掴まれている手を解放しようと試みた。
しかし、さして力を入れているようには見えないのに、ヴァンツァーの手はシェラの手首から離れていかなかった。
シェラの体温より、僅かに低く冷たい手。
朝からひと仕事してしてきたからか、体温の上がっているシェラは、つい心地良さを感じてしまった。
悪いことには、その状態が続くことを望んでしまっている。
──それは、いけない。
シェラが微かな抵抗を見せていることに気付かないわけでもないだろうに、ヴァンツァーは白くちいさな手を掴んだまま言葉を続けた。

「庭師に任せればいいものを」
「……ご主人様のお部屋は、私が飾りたかったのです」

ヴァンツァーは軽く目を瞠り、ほのかな微笑を浮かべた。
何気ない一言。
きっ とシェラは何の意図もなく使った言葉。
それでも、あまりにも可愛いそれについ頬が緩む。

「そうか……」

呟き、シェラの指に恭しく口づける。
若々しい草の匂いと、薔薇の芳香。
シェラは息を呑んだ。
爪の先に、ほんの少し唇が触れただけ。
それなのに。

「あの……」

強張るシェラの声など聞こえぬふりで、ヴァンツァーは傷ついた指に舌を這わせた。
びっくりして手を引こうとするシェラ。
しかし、やはり叶わない。
ヴァンツァーは構わず、五指や手のひらを舐めて固まりかけた血を拭う。
時々、吸い上げるように口づける。

「ご主人様……おやめ下さい。汚れていますから」
「応急処置だ」

とはいえ、包丁で指を切ったときとはわけが違う。
シェラの手首を掴み、指一本一本を口に含み、指の間にまで舌を這わせる。

「んっ……」

思わず漏れた甘い声に、シェラは口を押さえた。
羞恥に肌を染め、あからさまに顔を逸らす。

「申し訳、ございませ――はしたない真似を……」
「……」

ちらりとシェラを見たヴァンツァーだったが、構わずに反対の手首も取った。

「あ……っ」

傷口の痛みより、甘やかな感覚に身体が支配される。
抵抗しようにも、立っているのがやっとなのだ。
こんな触れ合いは経験したことがない。
身体の中心が疼くような、足元から崩れ落ちそうになるような感覚など、誰も教えてくれなかった。
ただ、手指に舌を這わされているだけなのに。 誰に抱かれたときより、背筋が震える。

「……」

ヴァンツァーはシェラの手から顔を上げた。
そっと銀の髪に触れる。

「……」

水分の多い、揺れる瞳でヴァンツァーを見つめ返すシェラ。
ヴァンツァーの知るどんな宝石よりも美しく澄んだ瞳だ。
ダメだ、と頭の中で声がする。
これ以上の触れ合いは戻れなくなる。
今ならまだ隠せる。
相手に気付かれないまま、主従の関係でいることができる。
ふたりがふたりとも同じことを考え、瞳の奥を探りあった。
互いの心を覗こうと。
隠された真実を見抜こうと。
答えを見つけたのか、それとも放棄したのか。
それとも、そうすることで分かる気がしたのか。
いや、そんなことはどうでも良かったのかも知れない。
言葉などないまま、どちらからともなく瞳を閉じると、ふたりは唇を重ねた。
ごく軽く、羽根が触れるように他愛ないもの────それなのに、眩暈がするほどの陶酔。
それ以上を望んだのはヴァンツァーだった。
舌を伸ばそうとしたが、はっとしたシェラはその腕から抜け出した。

「も……申し訳ございません」

青くなって一礼すると、足早に主の私室を出ていった。
ヴァンツァーは、舌が知った血の味と、唇が覚えたやわらかな感触とを思い、目を眇めた。

「──……甘い、な」

唇に舌を這わせるそのさまは毒々しくも美しく、高潔な彼の中に眠る何かを呼び起こしたかのような印象を与えた──。  




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