「ご主人様、お帰りなさいませ」
学院から帰れば、違うことなく満面の笑みで迎えてくれる佳人。
「ただいま」
自然と笑顔が零れる。
たったこれだけのやり取りで、胸の奥に陽だまりができる。
「変わりなかったか?」
「はい。──あ」
「……何だ? 何かあったのか?」
「いえ。カリン様と焼き菓子を作ったのですが……」
「もらおう」
「ですが、甘いものは……」
「いつもより、少し濃い茶を淹れてくれるか?」
僅かに目元を笑ませれば、シェラは嬉しそうにはにかんで頷いた。
襟からスカーフを抜き取るヴァンツァーの前に、綺麗にたたまれた衣服が差し出される。
「お召しものはこちらでよろしいでしょうか?」
「あぁ」
「失礼いたします」
ヴァンツァーの着替えを手伝うシェラ。
頭ひとつ高い位置から、並ぶものない美貌が見下ろしてくるのを感じる。
「……」
それだけで、手が震えそうになる。
均整の取れた、彫刻のような身体。
男とも思えない、きめ細かで白い肌。
それでいて、貧相な自分の身体と違う、鍛えられた鋼のような長身。
この身体に抱きしめられたら、と愚かなことを想像して首を振る。
「どうした、シェラ?」
かけられた声に驚き、勢いよく顔を上げる。
「あ、いえ……」
「具合でも悪いのか? 顔が赤い」
「え? あ、これは、何でも……」
つい、と目を逸らす。
が、頬に手を添えられて仰向かせられ、目を合わなくてはいけなくなった。
「熱があるなら無理をするな。倒れられては困る」
静かな藍色の瞳。
「……」
馬鹿なことを考えていた自分が恥ずかしくなり、シェラは唇を噛んだ。
「……傷がつく」
呟き、ヴァンツァーはシェラの唇を指でなぞった。
思い出す。
先日の、微かな触れ合い。
身体が震えた、短い接吻。
慌てて身を引こうとするシェラをできるだけやさしく拘束し、ヴァンツァーは懇願した。
「これ以上、何もしないから……」
「……ご主人様?」
自信に溢れたこの人の、崩れそうな声音。
「お前は……お前を金で買った俺を、快くは思っていないだろう」
「そんな」
「だが、本当に、ひどいことをするつもりはないから……」
きっと他の誰も知らない声。
「こうして触れることは、拒まないでくれ」
「……」
「これも避けられたら、俺はお前を閉じ込めてしまう」
「……」
「傍にいてくれればいい……それ以上望まない」
頼む、と言われてしまえば、シェラに断ることはできない。
きっと、この人は疲れているのだ。
日々学問や政務に追われて。
少し、寄りかかりたいだけ。
家のものには主人として振る舞わねばならず、母を亡くしているため甘える相手もいない。
自分は、母の命日をともに過ごした相手として、他の人間よりも頼みやすいだけなのだ。
それだけ。
この人の言葉も、深い意味はないのだ。
やさしいこの人が、自分の望みを果たしたいがために選んだ言葉がこれだっただけ。
きつい言葉にならないように、これを選んだだけなのだ。
「……はい」
本当は嬉しいのに、何でもない顔をするのはひどく難しい。
抱きしめてくる腕は強く、熱くて心地良い。
そっと抱き返すと、躊躇うような間のあと更に力が込められる。
それだけで満たされた。
「……もう、よろしいでしょうか?」
しかし、あまり長くこうしていては離れられなくなる。
シェラはまだ十代だ。
無理やり拓かれたとはいえ、性に対する欲望を感じないわけではない。
それも、目の前にこんなにも魅力的な人間がいるというのに。
だからシェラは、努めて平静に、しかし必死にそう言ったのだ。
「まだ」
「ご主人様」
「もう少し」
「……もう晩餐のお時間です。今日はお館様との会食の日。 ──ご主人様が遅れますと、私がお咎めを受けます」
汚い言い方。
「──……分かった」
こう言えば、やさしい主人が自分を解放することが分かっているから。
「では、お召し替えの続きを……」
胸と手の震えを抑え、シェラは主人を着替えさせたのだった。
その日、本館においてシェラは初めて公爵の姿を見た。
一度見たら忘れられない美貌だという点ではヴァンツァーと同じ。
しかし、髪も瞳も銀色で、顔形は似ていない。
やはり、ヴァンツァーは母親似らしい。
公爵は軍人らしく、肩は広く腰は細く、惚れ惚れとするような男ぶりである。
「――ほう。それが、お前の買った奴隷か」
「部屋係です」
父の言葉に対し、ヴァンツァーは即座に口を挟んだ。
「公爵家の跡取りでありながら『市』に赴くとは何を、と思ったが。――ふむ、美しいな」
値踏みするような視線にシェラは目を逸らし、ヴァンツァーは顔を顰めた。
「お前が少年趣味とは知らなかった」
「……食事の席でする話とも思えませんが?」
「父親としては、大事な息子の伴侶選びにも目を光らせねばならん。ましてお前は次期公爵」
「……このものは、そういった意図で置いているわけではありません」
「そうか? まぁ、どの道いくら美しくとも男ではな」
「……」
「もう抱いたのか?」
ビクリ、とシェラの肩が揺れる。
ヴァンツァーはまなざしをきつくした。
「そのようなことをおっしゃるための会食ならば、失礼させていただきます」
公爵は低く笑った。
「相変わらず……。短気は損気だぞ? まぁ、かけろ」
「……」
着席を促され、ヴァンツァーは渋々従った。
給仕たちが優雅な仕草で料理を運んでくる。
ここにいる給仕たちは皆、公爵付きの使用人たちだ。
シェラはむろん席をともにすることなど許されず、部屋の隅に控えている。
「──今日席を設けたのは、お前に縁談の話があるからだ」
給仕が前菜の皿を下げる頃、公爵はそう切り出した。
ナプキンで口許を拭うヴァンツァーの手が、ピタリと止まる。
「お前もそろそろ適齢期だからな。──それでなくとも、浮いた噂ひとつないというのに」
「……私のような若輩者に縁談など。まだ学院も卒業しておりませんのに」
「そちらの噂は聞こえてくるぞ。学院の教授陣が諸手を挙げるほどの秀才ぶりとか」
楽しそうに笑い、公爵は葡萄酒に手を伸ばした。
「学者にでもなるつもりか?」
「それもいいかも知れませんね」
「……ふむ。もったいない。剣の腕も大したものだというではないか」
「剣ならば、レティシア伯の方がお使いになります」
公爵は快活に笑った。
一歩間違えば粗暴とも取れる様子なのに、どこまでも上品である。
「あれは別格だ。国に並ぶものがないほどの使い手だからな」
それなのに、軍には所属せず、医者などをしている。
「ふたりとも、実にもったいない」
心底嘆かわしい、といった感じで嘆息する公爵。
ちらり、とシェラに視線を移す。
その瞬間、シェラはすくみあがった。
射殺されそうな視線。
僅かにでも動けば、喉を切られそうな感覚。
ゴクリ、と喉を鳴らすと、公爵の目がやわらげられた。
「美しく、可愛らしい少年だ」
「父上」
「だが、ヴァンツァー。いくらその奴隷が可愛いからといって、この縁談は断れんぞ?」
「……」
「何せ相手は──現国王の愛娘だ」
藍色の瞳が瞠られる。
皿とカトラリーがガチャリッ、と派手な音を立ててぶつかる。
食事の作法だけでなく、立ち居振る舞いまで常に優雅な彼にしてみれば、実に珍しい失態と言えた。
「お前にとっては、従妹にあたる姫君というわけだ」
「……」
今度お会いしてみるといい、と言ったのを最後に、この会食での会話は終わった。
父親に縁談の話を持ちかけられてから、ヴァンツァーは表情を曇らせることが多くなった。
何が主人にそんな顔をさせるのか、シェラにはよく分からなかった。
王家の姫君との縁談が決まれば、公爵家の地位は安泰だ。
十六ということは、シェラと同じ年頃。
ヴァンツァーの母の姪にあたる人物なのだから、きっと聡明で美しい姫君だ。
最高の良縁である。
普通の貴族の青年ならば、ふたつ返事で頷くところである。
それなのに、ヴァンツァーは何だかんだと理由をつけては姫君と会うことを避けている。
──それでいて、シェラに触れることは以前以上の頻度なのだ。
たとえば着替えのとき。
たとえば入浴のとき。
たとえば、私室で酌をしているとき。
ただ、手を重ねるだけ。
ただ、肩を寄せるだけ。
口づけにも至らない。
文字通り触れるだけ。
それでも、ほんの少し、強引になった。
拒もうとすると、彼はこう言うのだ。
「お前は俺が買った」
それは事実。
青年は、大金をはたいてシェラを買った。
「だから、お前は俺のものだ」
そう言われてしまえば、その通りと頷くしかない。
「あなたが私を買ったあの日から、私はあなたのものです……」
それでも、シェラは耐えられなくなっていた。
自分がいけないのは分かっている。
自分が勝手に、熱を煽られているだけ。
ヴァンツァーは、きっと突然の縁談に戸惑っているだけなのだ。
この屋敷に来て半年近く経つが、彼のいない夜はない。
ということは、馴染みの女性などもいないということだろう。
花街になど、行ったことがないのかも知れない。
さすがに女を知らないということはないのだろうが、かなり身持ちが硬そうなことは間違いない。
そんな人間を相手に、自分は何という浅ましいことを考えているのだろうか。
ある日、ヴァンツァーの留守中にレティシアがやってきた。
主人は留守である旨を告げると、中で待たせてもらう、とのこと。
客間へ案内してお茶の用意をすると、レティシアはまじまじとシェラの顔を見て言った。
「へぇ。ちょっと見ない間に顔つき変わったなぁ」
感心しきり、といったレティシアの声。
『市』で会ったとき以来だが、そんなに自分の外見が変わったとは思えない。
シェラは首を傾げた。
「伯爵様?」
「────恋でもしてんの?」
ビクッとシェラの肩が揺れた。
「男も恋すると綺麗になるもんなんだな」
相変わらず、悪戯っ子のように笑う青年だ。
まだ十代の少年のよう。
「あの……何のことか」
視線を逸らす。
しかし、直後それがもっとも取るべきでない選択であったことに気付く。
「あいつにバレると困る?」
「……」
「お嬢ちゃん、嘘吐けないな」
「あの」
「内緒にしといて欲しい?」
可愛らしく首を傾げるレティシアに、シェラは長い時間躊躇ったあと、ゆっくりと頷いた。
「何で? あいつもお嬢ちゃんのこと気に入ってるぜ? 好きだって、言ってみりゃいいのに」
「……私は、奴隷です。迷惑なだけですから」
胸の前でぎゅっと手を握る。
痛いのだ、そこが。
分かりきった現実を認めることが、こんなにも苦しいことだとは思わなかった。
たかだか金で買われただけの奴隷が、主人に恋などしてどうする。
しかも相手は大貴族。
王族との縁談も決まっているような人だ。
「ふぅん……」
レティシアは考え込む顔つきになった。
「伯爵様?」
レティシアはシェラの顎をとった。
「じゃあさ、口止め料。──抱かせてよ」
にっこりと実に気軽な調子。
しかし、それが冗談でないことくらい分かる。
「……はい」
どうせ、ここ最近身体が疼いて仕方ない。
あの人でないなら、誰でも同じこと。
シェラはゆっくりと頷き、自室へと主人の客を招き入れたのである──。
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