「あいつに抱かれたことないんだ?」
「……奴隷など抱いては、あの人の身が穢れます。どんな病を持っているとも知れないのに……」
気だるげな吐息を漏らしつつも、自己に対する嫌悪感が露わな口振りに、レティシアはおかしそうに笑った。
「俺ならいいわけだ」
さらり、とシェラの銀髪を指に絡める。
絹糸のように細く、滑らかな髪。
銀髪ねぇ、と胸中呟くレティシア。
そんな青年の行動になど一切意識を移さず、シェラは枕に頬を埋めた。
「……あの人以外、どうなってもいい……」
「ふぅん」
特に気を悪くした様子もなくレティシアは寝台から降り、手早く衣服を身につけた。
「──可哀想」
ポツリと呟かれた言葉を聞き取れず、シェラは「何か?」と聞き返した。
「ちょー気持ち良かった、って言ったの」
「──っ!」
その直截的な言葉に、シェラは頬を染めた。
先程までの自分の嬌態が思い起こされる。
「感度良いし、よく締まるし」
「伯爵様!」
「――クセになりそうだ」
チロリと下唇を舐める赤い舌が毒蛇を思わせ、何ともいえず淫猥だった。
息を呑んだシェラの前で、レティシアはがらりと表情を変えた。
「あ、痕は残してねぇけど、風呂入っとけよ。忘れんな」
忠告めいた言葉を残し、レティシアは部屋を出ていった。
「……」
ため息を吐くシェラ。
結局あの人は、何のためにこの屋敷に来たのか。
それに風呂に入れと言われても、主人より先に入るわけにはいかないし、身体がだるくて億劫だ。
布団に沈み込むように倒れると、疲労感からか睡魔が襲ってきた。
レティシアは若いし、久々のことだったので正直かなりきつかった。
それでも、吐き出すものを吐き出せば、主人の前で醜態を晒すこともないはずだ。
また、いつものようにあの人を迎えるだけ。
それなのに、起き上がれない。
「……だめ……あの人が……」
もうお帰りになる時間だから、と思っても、身体が動かない。
そうするうちに、シェラは眠ってしまったのだ。
帰宅してもいつものようにシェラが迎えに来ず、ヴァンツァーは首を傾げた。
他の使用人に聞けば伯爵が来ていたのだが、既に帰ったのだという。
用件すら伝えることなく帰っていった伯爵を訝しく思ったが、彼が突発的に遊びにくることは珍しくないので今回もそうだと思った、というのだ。
「――……っ」
えもいわれぬ不安感に苛まれたヴァンツァーは、足早にシェラの部屋に入った。
寝台に銀色の頭。
具合でも悪いのかと心配になり、足早に近寄った。
そして息を呑む。
眠っているシェラは、腰の辺りにまとわりつかせている上掛けの他は一糸纏わぬ姿。
寝乱れた寝具や、シェラの身体に残った体液の跡。
その身に何が起こったかは明白だ。
決め手は、僅かに残る――──特徴的な香水の匂い。
「シェラ」
ヴァンツァーは低い声で名を呼んだ。
ピクリと肩が揺れ、薄っすら目を開けるシェラ。
そしてはっとする。
ガバッと起き上がり、傍らに佇む主人の姿に青くなる。
「申し訳ございません! お迎えもせず――」
「誰だ」
呆けた顔でヴァンツァーを見上げるシェラ。
「……は? あの」
「誰に抱かれた」
「――っ!」
その瞬間、自分の有り様に気づいて寝具を引き上げた。
ヴァンツァーはシェラの顎を取り、首の辺りに顔を近づける。
シェラが身を引く前に、ヴァンツァーは顔を上げた。
「この香り、レティシアか」
もはや疑問ではなかった。
シェラの顔が青くなる。
だからあの人は、風呂に入れと言ったのだ。
部屋に香りが残っているだけならまだしも、移り香までが残っていては聡い主人に気付かれてしまうから。
それは 、あの人の配慮だったのに。
「――殺してやる」
呪詛の如く呟き、ヴァンツァーは踵を返した。
「ダメ!」
シェラは思わずヴァンツァーの袖を掴んだ。
振り返るヴァンツァー。
シェラの顔を見て、ある考えに至る。
「――自分から……?」
茫然と呟いた。
「……」
「そうなのか……? お前、自分からあの男に……?」
「……」
ギリッ、と歯噛みする。
「あの男に身体を許したのか?!」
シェラの肩をきつく掴む。
一言も発さないシェラに、苛立ちは募るばかりだ。
「なぜだ! なぜ奴に!」
そのままシェラを寝台に押し倒し、その上に乗り上げる。
「――ゃ……いや!」
暴れても拘束は解けないし、身体が重くてまともに動かない。
「……奴のことが、好きなのか?」
打ちひしがれた声。 その声に、シェラの抵抗が止まる。
「奴を愛している?」
「……」
「たかだか一、二度会っただけの男に惚れた……?」
「……」
時間でも、回数でもない。
そんなもの、目が合っただけで足りるのだ。
「答えろ」
簡単だ、答えは否。
だがそう言えば、この人はレティシアに抱かれた理由を問いただすに決まっている。
だから、答えられるわけがない。
真実は、この人の迷惑にしかならない。
ならば、そうだ、と言えればいいのに、声が出ない。
偽るなら──この聡明な人を欺くなら、徹底的に自分を殺さないといけないというのに。
この人は王家の姫君と結婚し、幸せな家庭を築くことを約束された人だ。
公爵家を継ぎ、絶大な権力を揮うことができる人だ。
忘れてしまわなければ。
──いや、そもそもこれは錯覚なのだ。
あまりに聡明で、あまりに美しい主人に驚いているだけ。
憧れているだけなのだ。
同じ男として、自分が持たないすべてを持つ人に。
「……放して、下さい……」
「俺には、触れられることも耐えられない?」
「……はい」
目を合わせられない。
本心ではあるが、真実ではないから。
この人に抱きしめられると切ない、けれど幸せ。
だが、こんな汚れた身体を抱いては、高潔なこの人まで穢れてしまう。
「……あなたは、嫌……」
「……」
ヴァンツァーはシェラの肩を掴む手に、更に力を込めた。
いっそ砕けてしまえ、と心のどこかで思いながら。
シェラの美貌が歪む。
自分の与える痛みで相手が表情を動かすことに、微笑みが浮かびそうになる。
「俺は、力のないお前の抵抗など無視して抱くこともできる」
「……その前に、舌を噛んで死にます」
この人だけは、美しいままで。
『──人ひとりの価値に対して、あれでも安すぎるくらいだ』
そう言ったこの人のままで。
穢れた奴隷の身体など知らず、幸福な家庭を。
「……女性のように豊かな胸も腰もありません。抱いても、つまらないだけ……」
どんな美しい女性でも手に入るのに、何を好き好んで奴隷を──しかも男など抱く必要があるのか。
昔から、自分を組み敷く男たちが不思議だった。
男など抱いて、何が面白いのだろうか。
多少造作が整っているだけの、人間以下の存在だ。
あの伯爵だって、物好きな。
「……もう、お許し下さい……」
寝具に押しつけられたまま、シェラは顔を逸らした。
申し訳程度に纏わりつかせていた布も、どこかへ行ってしまった。
鋭い藍色の瞳の前に、貧相な身体が晒されている。
他の男に見られてもどうということはないのに、この人に見られると羞恥心でいっぱいになる。
その羞恥が、自分の中で快楽に変わる前に解放して欲しい。
「──……お前が俺だけのものでいるなら、こんな無理強いはしない」
声が震えている、と思ったのは、シェラの気のせいだろうか。
だが、確かめる前に、ヴァンツァーは部屋を出ていってしまった。
その足で、ヴァンツァーはレティシアの屋敷へ向かった。
「おぅ、ヴァッツ。珍しいな、お前が──」
「お前を殺しに来た」
主人に取り次いだ執事が血相を変える。
レティシアは人払いをし、ヴァンツァーとふたりきりになった。
若い伯爵はいつものように屈託なく笑う。
「お前、真顔で冗談言うなよ。みんな驚いて――」
「俺のものに手を出した。殺されて当然だろう?」
「俺のもの?」
「知らぬふりか?」
嘲るように口端を吊り上げる。
「んなこと言われても、見当もつかねぇよ」
大仰に肩をすくめる様子に、ヴァンツァーの視線がきつくなる。
「シェラを抱いたな」
「それが?」
「……認めるんだな?」
「認めたとして、あいつがいつお前のものになったよ」
「あれは俺が買った」
「じゃあその三倍の額で引き取るぜ」
これにはさすがのヴァンツァーも目を瞠った。
「お前の理屈でいくなら、だ。それであいつは俺のもんだろ?」
「……なぜだ」
この男も、シェラを想っているのだろうか。
──『も』?
自分の脳裏に浮かび上がった言葉が、抑えていた気持ちを暴いてしまう。
「……シェラが、好きなのか?」
それは、誰に向けた言葉だったか。
そんなヴァンツァーの葛藤など知らぬレティシアは、当然のことのように言った。
「あ? 身体の相性良かったから」
「──貴様」
「お前気の毒ね。あのお嬢ちゃん、めちゃくちゃ感度いいぜ? 処女みたいに締まるし。男とヤるとクセになるって本当――」
「レティシア!」
壁に叩きつけ、襟首を締め上げる。
しかし、レティシアは涼しい顔だ。
「またいい声で啼くんだわ。――声だけでイクかと思った」
「……」
ヴァンツァーは掴んでいた襟から手を放した――腰の剣を抜くために。
レティシアは呆れてため息を吐く。
「俺、丸腰だけど」
「決闘ではない。――処刑だ」
言うなり、ヴァンツァーは切りかかった。
しかし目の前にあったレティシアの姿はかき消えていた。
背後に気配を感じ、感覚だけで剣を振る。
またもや空振り。
レティシアは部屋の端に悠然と立っている。
息ひとつ乱していない。
「やめとけ。今のお前じゃ、逆立ちしたって無理だ」
ヴァンツァーは聞かずに切りかかった。
軽々とかわすレティシア。
剣戟のすべてが見切られている。
しばらく、ヴァンツァーの攻撃をレティシアが紙一重でかわすという攻防が続いた。
どちらも呼吸ひとつ乱さない。
「――ご主人様!」
突然割って入った悲鳴同然の声に、ヴァンツァーは足を止めた。
「おやめ下さい!」
レティシアをかばうように立ちはだかる。
「退け」
「いいえ!」
「──退け!!」
凄まじい怒気に一瞬怯む。
しかし、気丈に主人を見据える。
「お嬢ちゃんからも言ってやってよ。そんな感情剥き出しの攻撃じゃ、当たれって方が無理だって」
シェラの肩に手を置き、耳元に口を寄せる。
ヴァンツァーが柄を握る手に力を込めた。
「それにさ、殺す気でかかってこられたら――俺、そいつ殺しちまうよ」
シェラはゾクリと肌が粟立つのを感じた。
レティシアは本気だ。
これ以上続けたら、間違いなくヴァンツァーを殺す。
この一見気だるそうな態度を崩さない青年は、国内で比肩するもののない剣の使い手なのだから。
「──……や、やめて!」
振り返り、レティシアに懇願する。
レティシアは困ったように笑った。
「だから、俺もそれは避けたいわけ。ね、そいつ、止めて?」
可愛らしく小首を傾げる。
シェラはゆっくり振り返った。
止めてくれ、と言われても、どうすればいいのか。
自分たちを見る主人の目は冷ややかだ。
「ご主人様……」
「退け」
「……どうしても、とおっしゃるなら、私ごと切り捨てて下さい」
ピクリとヴァンツァーの目元が動く。
「ご主人様がご友人を手にかける姿も、レティシア様に切られる姿も、見たくありません……」
「……」
「それに、ご主人様のお怒りは本来私に向けられるべきもの。どうぞ、お手打ちに」
その場に跪くシェラ。
そうだ。
苦しいなら、解放されてしまえばいいのだ。
無礼討ちならば、この人が罪に問われることもない。
レティシアは、きっと上手く証言してくれる。
銀髪を払い、首筋を露わにする。
そこを切れ、という合図に、ヴァンツァーは美貌を歪めた。
じっとシェラの頭を見たあと、剣を鞘に納めた。
「……ご主人様?」
不思議そうに顔を上げるシェラ。
「……お前は、そいつのためにそこまでするんだな……」
絶望感でいっぱいの表情を浮かべ、ヴァンツァーは出ていった。
気配ひとつ感じられなくなると、レティシアは頭の後ろで手を組んだ。
「ばっかじゃねぇの、あいつ。お嬢ちゃんは、俺のためになんか指一本動かさねぇよ」
「……」
「全部あいつのためなのに、何で気付かないかね?」
心底不思議そうに、レティシアは目を丸くした。
たった二度会っただけの自分にすら分かるというのに。
「……」
シェラは自分を殺そうとしなかった主人の顔を思い出し、涙を零さないよう天井を睨んだ──。
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