「恋とは、落ちるものではなく――――堕ちるものなのかも知れない……」
いつだったか見た芝居に、こんな台詞があった。
しかし、ヴァンツァーにはその意味がまったく理解できなかった。
そもそも、『落ちる』方からして分からない。
恋愛とは、『する』ものではないのか。
だが、今なら痛いほど分かる。
あれ以外どうなろうと構わない。
あれといられるなら、地位も名誉もいらない。
あれが微笑みかけてくれるだけで、世界が動く。
善悪の判断など彼方へ吹き飛ぶ、見境がつかなくなるほどの激情。
閉じ込めて、縛りつけてでも手元に。
自由を奪って、 自分しか目に映らないように。
そんなことを、当たり前のように感じてしまう。
悪魔に魂を売ってあれが手に入るなら、喜んで差し出そう。
あれの美しさは、自分だけが知っていればいい。
あれを欲にまみれた目で見る男どもを、片っ端から殺してやりたい。
──あれが美しすぎるからいけないのかも知れない。
だったら、やはり閉じ込めてしまわなければ。
だが、それではあれの笑顔が消えてしまうかも知れない。
それは嫌だった。
だが──。
伯爵との一件があってから、シェラはヴァンツァーの世話をするときもできるだけそのことを意識しないよう努めた。
ほとんど全神経をそれに傾けたので、いつもと変わらないように見せることは成功していた。
──しかし、だからこそ、ヴァンツァーにはそれが面白くなかった。
レティシアのしたことは忘れようにも忘れられないし、そもそも忘れてやるつもりがない。
むろん、許す気などさらさらない。
シェラは何も語らない──だから、どちらが誘ったのかすら分からない。
だが、そんなことはどうでもいい。
確かなのは、レティシアが自分のものに手を出した、というその一点。
もともとあの男とはただの腐れ縁。
関係が破綻しようが何だろうが、構うことはない。
だから気になるのは、シェラが平然とした顔でいることだ。
あれ以降も今までと変わらず、朝起こしに来るときも、自分の帰宅を迎えるときも、常に笑みを浮かべている。
自分がその程度の存在としてしか意識されていないことが腹立たしい。
他の使用人ともにこやかに話し、打ち解けている。
自分とそれ以外の人間に向ける表情や感情に、何の違いもない。
「……おやめ下さい」
口づけようとしてきたヴァンツァーの胸を、シェラはやんわりと押し返した。
ヴァンツァーはその抵抗を封じ、シェラの細い顎を捉えた。
「ご主人様、お許しを」
先程よりも強い拒絶。
懸命に顔を背け、青年の腕から逃れようともがく。
一度でたくさん。
あのような陶酔は、知らない方がいいのだ。
また触れ合えば、今度こそ拒むことができなくなってしまう。
そうすれば、何のために伯爵の申し出を受け入れ、今も砕けそうになる心を鼓舞しているのか分からなくなってしまう。
「お前は俺のものだ」
最近聞き慣れた言葉。
ただの所有関係を表す、温度のない台詞。
ずっと言われ続けてきたものと、何ら変わりのない響きだ。
「……存じております」
それは、事実。
主人と奴隷。
それは変わらない現実。
「ならばお前に拒否権はない」
シェラはヴァンツァーから見えないよう俯き、泣きそうな表情を浮かべた。
「……どうか、どうかお許しを」
ヴァンツァーは不快げに顔を顰めた。
「夜伽など、いくらでもしてきたのだろう?──実際、レティーにも抱かれた」
ビクッとシェラの肩が震える。
恐怖しているかのように戦慄く細い身体。
「……だからこそ」
「なに?」
「奴隷など抱いては、ご主人様の身が穢れます」
似合わない自嘲の笑みを浮かべる。
天使のような美貌が悲痛に歪んだ。
ヴァンツァーは目を眇めて鼻を鳴らした。
「──随分、もっともらしいことを言う」
呟きシェラの抵抗を力でねじ伏せ、無理やり抱き上げると、手近な長椅子に放り投げた。
「――嫌! やめて下さい!」
身をよじり、何とか逃れようとするシェラ。
しかし身長も体重もまったく違う。
ヴァンツァーは易々とシェラの動きを封じた。
「その細い身体で何ができる?」
「お許し下さい……どうか」
ヴァンツァーは無言でシェラの顎を捉えた。
「いや! お願い!」
これ以上触れられたら、耐えられない。
紫の双眸から涙が零れる。
ヴァンツァーの頬がヒクリと引きつった。
「――お前は俺が買った。お前は俺のものだ」
「――……お許し下さい。お願い……それだけは……他はどんなご命令でも従いますから……」
「……どこに主人である俺がお前のいうことを聞く必要がある」
シェラの手首を戒める手に力が入る。
シェラは痛みに顔を歪めた。
「――お前は、俺だけのものだ」
口づけを拒むなら、とヴァンツァーはシェラの首筋に顔を埋めた。
香水などつけているわけでもないのにシェラからは甘い香りがし、ヴァンツァーは我知らず口端を吊り上げた。
首筋や鎖骨に唇を滑らせ、舌を這わせる。
絹のように滑らかなのに、しっとりと吸い付くような肌。
──この肌を、自分以外の男が知っている。
一層シェラの抵抗が強くなった。
「いや! やめ――いやあ!」
身を切るような叫び。 シェラが声を上げて泣き出すと、ヴァンツァーはゆっくり上体を浮かせた。
「そんなに、嫌か……」
しゃくりあげて泣くことしかできないシェラ。
その細い身体は震えている。
ヴァ ンツァーは顔を歪めた。
こんな無理やり犯すような真似をしたいわけではない。
あんな暴言も本心ではない。
俯く前に一瞬垣間見た傷ついた瞳に、罪悪感でいっぱいになった。
――ただ、もう一度口づけたかった。
シェラに触れたかったのだ。
それだけ。
もっと近づきたかっただけ。
せめて、他の人間よりも内側に。
「……何が気に入らない」
「……何も」
「ならばなぜ拒む!」
「……先程申し上げました……」
「お前を抱いたら穢れる? 馬鹿を言うな」
「……私は奴隷ですから」
泣きながら、また自嘲する。
「シェラ!」
この人は知らない。
奴隷というものの生活を。
年端もいかぬうちから、薬を使って苦痛も快楽も分からぬうちに嬲られた日々を。
何人に犯されたかも分からない、使い古しの汚れた身体。
どんな病をうつされているかも知れないというのに。
金貨三十枚分の働きをしなくてはいけないとしても、この人にだけは、そんな自分を抱かせたくない。
せめて、男を知らない身体ならば良かったのに。
この人になら、何をされても構わない────だからこそ、この人にだけは抱かれたくない。
「……お願い……」
嗚咽でささやくことしかできない。
それでも、それがどんな叫びより悲痛で――聞いているこちらの胸が締めつけられる。
「……」
ヴァンツァーは泣きじゃくるシェラの髪に触れようとして、手を引いた。
そして 、何も言えないままその場を去ったのだ。
パタン……。
静かに扉が閉まる。
シェラは、ただ泣くことしかできなかった。
あのとき、頷かなければ良かったのだろうか。
伯爵に求められたとき、断っていれば。
だが、心よりも身体が限界を迎えていたのだ。
あの人が髪や頬に触れるたびに、身体の奥にちいさな熱が熾こる。
今までこんなことはなかったのだ。
どんな男に触られても、それが欲にすり替わるようなことはなかった。
あの人だけ。
自分が知っているどんな男よりも美しい人。
目が合った瞬間、この人がいい、と思ってしまった。
どうせ同じ扱いをされるなら、この人がいい、と。
それなのに、あの人はあまりにも高潔で、信じられないくらいにやさしくて。
自分のような奴隷を人として扱ってくれたから、馬鹿な想いを抱いてしまった。
牛馬にも劣る奴隷が、人になった気でいた。
あの人は、王女を妻として迎えられるほど立派な人なのに。
そんな人が、奴隷などを抱いてはいけない。
分かっているのに、熱は溜まっていく一方で。
伯爵の申し出がなければ、いつかはあの人を求めてしまっていたかも知れない。
堪え性のない自分が恨めしい。
きっと自分が伯爵と関係を持たなければ、あの人はあんな冷たい言葉を使わなかった。
持ち物である自分が、主人の許可なく頷いたことに腹が立ったに違いない。
やさしいあの人も、腹に据えかねたのだろう。
自分の意見など持ってはいけなかったのに、人になった気でいたから。
だから、あのとき頷いてしまった。
けれど、あの人に理由を話すことはできないから。
相談したり、許可を取ることもできなかった。
「……どうすれば、良かった……?」
答える声は、そこにはなかった。
シェラには、どこにも行くところがない。
だから、ヴァンツァーの手元に居続けるしかない──それも、主人が家にいるときには常に目の届く範囲に。
他の使用人と話すことにすら、ヴァンツァーは良い顔をしなくなったから。
それでも、目を合わせない、必要最低限以外口もきかない、そんな毎日。
むろん、ヴァンツァーがそれを面白く思わないことは分かっている。
こんなことは一度もなかった。
どんな主人にどんな扱いを受けても、それなりに上手く対処できていたのに。
どうしても、ヴァンツァーを相手にしたときだけはダメなのだ。
──だから今度は、心も限界を迎えようとしていた。
そんなある日、街へ買い物に行くシェラにヴァンツァーもついてきた。
休日であるがために学院は休みで、シェラは断ることもできなかった。
始終無言で隣を歩く長身の主人は、その美貌でもって街中の視線を集めている。
加えて内側からにじみ出るような高貴さのある人だ、見惚れるなという方が無理である。
貴族の屋敷が連なる場所ならばともかく、一般市民の住む郭は休日ということも相まって人でごった返している。
人々の視線が痛い。
それに、大して重くもない荷物は現在主人の手にある。
そんなことをさせるわけにはいかないのに、街中で騒ぐわけにもいかず、シェラは正直困っていた。
これでは、荷物を持って足早に帰ることもできない。
この主人の歩く速度、することに合わせなければならない。
もう頼まれたものはすべて買ったのだが、時折ヴァンツァーは店先で立ち止まる。
大抵は布や装飾品を扱う店で、櫛や簪を手にしてはシェラの髪に挿して映え具合を見ている。
「あの──」
「これをもらおう」
シェラの呼びかけが聞こえなかったのか、ヴァンツァーは手にした櫛を店主に渡した。
繊細な彫金の、宝石まで用いられた櫛。
目利きの腕などまるでないシェラにも、どれだけ高価なものかが分かる。
「──ご主人様?!」
眩暈がして、シェラは主人に掴みかかりそうになった。
店主はにこやかに笑って櫛を包むために店の奥へと行ってしまった。
「あれが一番お前に似合いだった」
シェラには視線を移さず、店主の消えた店の奥を見て口を開くヴァンツァー。
「そん──分不相応です!」
言うと、ヴァンツァーが視線を落としてくる。
「似合う、と言った。俺の目を疑うのか?」
「……」
ヴァンツァーには気付かれないよう、シェラはため息を吐いた。
包みを受け取り、代金を支払い、それも手にしてヴァンツァーは歩き出した。
シェラは、ただついていくしかない。
それでも、屋敷への道を辿り出して安心した矢先のこと。
「捜したよ、シェラ」
聞き覚えのある声と呼びかけに、シェラは振り返った。
そして目を瞠る。
「あ……旦那様」
「シェラ?」
ヴァンツァーの呼びかけも聞こえていないようで、シェラは駆け出していた。
視線で追うとひとりの男。
肩を少し越えた辺りで切り揃えられた金髪に水色の瞳の美青年だ。
学者か画家のような風貌。
誰なのだろうか、と首を傾げるヴァンツァーの前で、シェラはその男の胸に飛び込んだのだ。
──何かが崩れる音を、聞いた気がした。
「旦那様、お元気そうで……」
感極まった様子で声を震わせ、シェラは男を見上げた。
「何とかね。君はもっと綺麗になった」
男はシェラの頬に触れた。
それを甘受し、うっとりと微笑む。
「……シェラ……?」
自分がその位置まで行くのに、どれほど時間をかけたか。
それを、見たこともない男が一瞬で掠め取った。
奥歯を音が鳴るほど噛みしめ、ヴァンツァーは早足で歩いた。
「そんなことをされては困るな」
耳元で声がした、と思ったらヴァンツァーの腕の中だった。
「あ――」
短い声を上げるシェラ。
自分は、主人の前で、今何をした?
感じた懐かしさと安らぎに、何をした?
「貴公は?」
いつも以上に硬いヴァンツァーの声音。
対する青年はにこやかな相好を崩さない。
「――こちらは?」
シェラに訊ねる様子がまた腹立たしい。
「……ファロット公爵家のご嫡男、ヴァンツァー・ファロット様です」
青年は僅かに目を瞠る。
「君が、今のシェラの主人?」
『君』という表現も引っかかった。
王族でもなければ、そんな口のきき方を自分にできる人間はいないのだから。
ヴァンツァーはシェラを抱く手に力を込めた。
そんなヴァンツァーの心中など知らない青年は、穏やかな微笑みのまま告げた。
「シェラを大事にしてくれているようだね」
「……なぜ?」
「昔から天使のようだったけれど、もっとずっと美しくなった」
「旦那様……」
やさしい微笑みを向けられたシェラは、涙ぐんで金髪の青年を見つめた。
そんなシェラの表情を見たヴァンツァーは、シェラを自分の後ろに隠すように、一歩前に出た。
「これに何か用が?」
「私のもとを離れてからが心配だっただけだ。元気そうならそれでいい」
「ではお引き取りを」
「――ご主人様?!」
あまりの対応に、シェラは目を丸くした。
「あぁ。そうするよ」
青年は気を悪くした風もなく頷いた。
「シェラ。私は今サヴォア公爵家のお世話になっている。何かあれば訪ねて―― 」
「お引き取りを」
「……」
さすがに青年は苦笑した。
しかし、最後にシェラと視線を交わすと、静かに去っていった。
その後ろ姿を睨むようにして見つめていたヴァンツァーは、視線を落として問いかけた。
「以前のお前の主人か」
「……はい」
「名は?」
「ナシアス・ジャンペール様、と……」
「貴族か? 見ない顔だが」
「爵位をお持ちではありませんから……それに、地方に土地をお持ちの方で」
「お前を手放したのはなぜだ?」
「……さぁ? 奴隷には理由など話さないものでございます」
視線を逸らす。
薄く微笑んでいるのが、まだあの男との再会を喜んでいるようで面白くない。
「……随分と親しげだな」
声音に棘がある。
馬鹿にしたような、酷薄な笑み。
「親しいだなどと……ナシアス様は、とても良くして下さった方で」
「恋情でも抱いたか?」
「そんな!――……私のような奴隷に想われても、迷惑なだけ……」
言ってズキリと胸が痛んだ。
そんなことは、分かりきったことだ。
この主人を想ってみたところで、叶えられるわけもないというのに。
それでも、胸が痛い。
シェラの心中など知らぬヴァンツァーは、詰問するように言葉を紡いだ。
「あのように熱烈な抱擁を交わしながら? 何もないと?」
「ご主人様?」
「お前とあの男は、何でもないのに抱き合うような仲だったのか?」
「……幼い頃をナシアス様のお屋敷で……。ですから、ついその頃の癖が」
「あの男に抱かれた?」
──ダメだ。
「ご主人様!」
──抑制が利かない。
「あの男が、お前の最初の相手か?」
どす黒く冷たい感情が、腹の中で渦巻く。
それでいて、口調は熱っぽくなっていく。
「そのように旦那様を貶めるようなことは!」
初めて見る。
シェラが怒る顔。
頬を染め、柳眉を吊り上げ、光の強い瞳で射抜いてくる。
「――貶める……?」
「旦那様は――ナシアス様は非常に良くして下さいました。奴隷など、どんな扱いをされても仕方ないのにあの方は――」
シェラは言葉を切った。
「……ご主人様?」
ヴァンツァーが笑っているからだ。
肩を震わせ、喉の奥で笑う。
──しかし、目が笑っていない。
以前よく見せてくれた、穏やかな微笑みではない。
「ご主人様……?」
「お前、自分が何を言ったか分かっているか?」
「え?」
ヴァンツァーはゆったりと微笑みを浮かべた。
「お前は今の言葉で、お前を抱こうとした俺をも貶めたんだぞ?」
「――っ! そのようなつもりは!」
「こんな反抗的な奴隷は初めてだ」
「――……あ……」
シェラは泣きたくなった。
『俺のものだ』ということはあっても、この主人の口から『奴隷』と表現されたことはなかったのに。
自分が奴隷だという事実を確認されただけなのに、なぜこんなにも胸が締めつけられるのか。
「金で買われただけの存在が、随分と大きな口をきくようになった」
「ご主人様、違います」
「甘やかすとろくなことがないな」
「ご主人様……」
とうとうシェラは顔を覆って泣き出した。
「何を泣く?」
シェラはただ首を振った。
「理由もなく涙を流すのか?――あぁ、泣けば俺がやさしくなると思って?」
「――……ご主人様」
シェラは思わず顔を上げた。
「奴隷の分際で、知恵をつけたか」
勝手に口が動く。
シェラは更に大粒の涙を零した。
だが止められない。
──泣きたいのは、こちらの方だ。
「……何もできない、性欲処理の相手にもならない役立たずが」
シェラの顔が凍りついた。
そして、涙が止まった。
思考すらも止めてしまった。
ヴァンツァーは何も言わず、屋敷への道を歩いていった──。
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