あの人だけは美しいままでいて欲しい、と思った。

ファロット公爵家の別館では、侍女頭のカリンと執事のブルクスが苦い顔をつき合わせていた。

「……何だか、最近ヴァンツァー様のお顔つきが変わった気がしませんか?」

カリンがそう言えば、ブルクスも頷く。

「シェラがやってきてからは、だいぶやわらかい表情も浮かべるようになられたのだが……。もしかしたら、以前よりもきついお顔になられたかも知れんな」
「シェラも浮かない顔をしていることが多くて……」

ほう、とため息を吐き、カリンは頬を押さえた。

「卑屈な態度が随分抜けてきたと思った矢先に、すっかり元に戻ってしまって」
「──よもや、ふたりの間に何かあったのでは……?」

ブルクスの言葉に、カリンは重々しく頷いた。

「やはり、あなたもそう思われますか。ふたりが良い影響を与え合えれば、と思ったのですが……」

逆効果だったのだろうか、と嘆くカリン。

「ヴァンツァー様には縁談も持ち上がっているのだろう?」
「えぇ。何でも陛下の姫君だとか」

ブルクスは眉を寄せ、首を振った。

「気に入ったものを傍に置くことは誰でもするが、王女の不興を買えば、ことは公爵家の存亡にも関わる」
「ですが、シェラはヴァンツァー様が珍しくお気に召した子ですからねぇ……とてもいい子ですし」
「それは分かっている。だが……」

初老のふたりは、痛む胃を押さえ、深く嘆息したのであった。

──それを柱の陰から偶然聞いていたシェラは、そっと足音を忍ばせてその場を去った。

「シェラ」

シェラは買い物の途中でナシアスに呼び止められた。
今日は平日で、ヴァンツァーは学院へと赴いている。
この頃は、ヴァンツァーがいない時間にやっと息ができる気がしていたシェラは、温和な元主人との再会を素直に喜んだ。

「あ……旦那様」

ナシアスはいつもと変わらぬ、やわらかな笑みを浮かべた。

「旦那様はやめなさい。あの青年は面白くないだろうからね」
「……」

俯いたシェラの顔を覗き込む。
そして、細く息を吐き出した。

「……すぐにお屋敷に帰らなければならない?」

そう言って、やさしくシェラの髪を梳いた。

「え?」
「泣き腫らした顔では、彼が心配するよ」

その言葉で初めて、シェラは自分が泣いていることに気づいた。

サヴォア公爵家の世話になっているナシアスは、当然のようにそこへシェラを連れて行った。
ファロット家と同じほどに広大な屋敷を前に、シェラは心配顔になった。

「あの……私のようなものを入れて、怒られはしませんか?」

ナシアスは明るく笑った。

「心配ないよ。ここの主人は、私の古い友人だからね」
「ナシアス」

屋敷の中に入ると、低く、豊かに響く張りのある声がした。

「あぁ、彼だよ」

ナシアスの視線の先には、黒い髪と瞳の青年がいた。
立派な体躯の、軍人であることが簡単に見て取れる男だ。
整った顔立ちで、瞳には子どものような光がある人物。
が、シェラを見た途端、その人物の顔が顰められた。
やはり、自分のように卑しいものが屋敷に入ることが気に入らないのだろう、とシェラは踵を返そうとした。

「ナシアス。こんなに美しいご婦人を泣かせるとは、男の風上にも置けん奴だな」
「……」

憤慨している面持ちの青年を見て、シェラはポカン、としてしまった。
怒られたナシアスはくすくす笑っている。

「……何がおかしい」

低い声を一層低める青年に、ナシアスは言ってやった。

「バルロ。この子は男の子だよ」
「──なにぃ?!」

ぎょっとして目玉が零れ落ちんばかりに目を見開いたバルロの顔を見て、ナシアスはおかしそうに笑った。

「綺麗な子だろう?」
「綺麗だなどというレベルではないぞ! こんな美女はお目にかかったことがない!」
「……だから、男の子だと言っているじゃないか」
「分かっている。女にもないような美しさだ、と言っているんだ」

シェラは困ったように微笑んでいる。

「また、この奥ゆかしい雰囲気が良いではないか」
「バルロ」

放っておけばシェラを口説きかねない友人を、ナシアスはそっとたしなめた。

「ふむ。色恋にはとんと疎いお前が、どうやってこんな美しい天使と出会ったのだ?」
「以前、私の屋敷にいたんだ」
「お前の?」

シェラは薄く微笑んで答えた。

「奴隷です」

大きくはないが明瞭な声に、バルロはやはり目を瞠った。

「それにしては、随分と小綺麗な格好をしているな。そのブローチ、結構な値打ちものだぞ」

シェラはやはり、という思いで襟元に手をやった。
自分には審美眼などまるでないが、あの人が選んだものなのだから当然と言えた。
これで金細工の櫛までしていたら、どれほど浮いてしまうことか。

「今は、ファロット公爵家に召抱えられているんだ」

ナシアスの言葉に、バルロは苦い顔になった。

「ファロット公爵か? あまり大きな声では言えんが、ファロット公は血統主義者でいらっしゃるからな。あまり良い待遇を受けていないのではないか?」

それにしてはやはり服装が整いすぎている、とは思ったのだが。
ナシアスは首を振った。

「あの方のご子息だよ」
「──ヴァンツァー殿か」
「知っているのか?」

訊ねるナシアスに、バルロは「当たり前だ」と頷いた。

「学院では並ぶもののない秀才だ。眉目秀麗、清廉潔白。少々愛想は悪いが、公正を絵に描いたような青年だぞ。公爵家の奴隷の待遇改善を訴えたことは、貴族の間で話題になった」

ナシアスは目を瞠り、シェラに視線を移した。

「……君のご主人は、立派な人なんだね」
「はい」

はにかむシェラは、主人が褒められたことが自分のことのように嬉しかったに違いない。

「剣の腕も大層なもののようだが、あまり争いごとを好まぬらしいな。軍に所属せず、それでいて教授の職も蹴ったらしい」
「ほう。『英雄』と呼ばれるお前が認めるのなら、相当なものなのだろうな。──機会があれば、一度手合わせをしてみたい」
「──い、いけません!」

シェラは勢いよく首を振った。

──そんなことをしては、あの人はこの方を殺してしまう。

「……シェラ?」

そのあまりに必死な様子に、ナシアスは目を丸くした。
バルロは太く笑う。

「案ずるな、天使。ナシアスは見た目こそこんな優男だが、剣の腕は俺より上だ」

少々苦さの滲む声だが、バルロは相手の力量はきちんと評価する男のようだった。
シェラは不安げな顔のまま、おずおずとナシアスに訊ねた。

「……レティシア様よりも、お強い……?」

これにはナシアスもバルロも瞠目した。

「レティシア伯か?」
「これは……なかなか手厳しい」

苦笑するナシアス。

「彼はこの国で一番の使い手だよ。私など、足元にも及ばない」
「……では、やはりいけません」

震える声のシェラに、ナシアスはやさしく訊ねた。

「彼は、レティシア殿と同じくらいに剣を扱うのかな?」

これには首を傾げたシェラだ。
自分が見たとき、レティシアは剣すら手にしていなかった。
ヴァンツァーが一方的に攻撃しているようだったが、かといってレティシアは一撃も喰らってはいなかった。
しかし、どうやらあのときのヴァンツァーは本調子ではなかったらしい。

「……おそらく、レティシア様が本気を出される程度には……」

あの声は、脅しではなかった。
遊びではなく、本気でヴァンツァーと剣を交える気だった。
シェラの言葉に、青年ふたりは顔を見合わせた。

「眉目秀麗、清廉潔白、おまけに文武両道か……」

これはバルロの言である。
ついでに彼はこう言った。

「これは、女が放っておかないな。──俺もうかうかしておれん」
「バルロ……」

ナシアスは苦笑したが、シェラはただ悲痛な表情を浮かべるのみであった。
そんなシェラを見て、ナシアスとバルロは視線を交わし、頷き合った。
ナシアスはバルロの許しを得て、サヴォア公爵家の客間へとシェラを通したのである。

「──君は、彼が好きなんだね」

茶を振舞われたものの、シェラは俯いたまま。
そこへ、ナシアスが単刀直入に切り出した。

「……いいえ」
「認めてしまいなさい。私しか聞いていないのだし」

今は人払いをしており、バルロの姿もここにはない。
それでも、シェラは俯いた状態のまま唇を引き結んでいる。
ナシアスは、シェラには気取られないように息を吐いた。

「……もし辛いなら、私のところへおいで」
「え?」
「彼の傍にいるのが辛い、離れたいっていうなら」
「だ――ナシアス様……」
「そのつもりなら、彼に暇をもらってきなさい。お金は私が工面するから」
「……ナシアス様に、ご迷惑をおかけするわけには……」

奴隷のために、恩あるかつての主人がその手を煩わせるようなことがあってはならないのだ。

「君が彼の元にいたいというなら、私は無理に引き離そうとは思わない。それは君の自由だ」
「……自由」
「けれど、君が私のところへ来るというなら、いつでも歓迎するよ。迷惑だなんてとんでもない」

ナシアスは、その秀麗な眉宇を曇らせた。

「……きっと、君は私の元を離れてから、また辛い思いをしたのだろうね」

さっと青ざめるシェラ。

「私が不甲斐ないばかりに……本当に、すまないと思っているんだ」
「そんな! ナシアス様はとても良くして下さいました!」

今にも泣き出しそうなシェラの顔を見て、ナシアスも泣きそうな笑みを浮かべた。

「だからね……できれば、そのときの罪滅ぼしをしたいと思っているんだ」
「ナシアス様……」

シェラは思わず口許を押さえた。

「今は以前よりも大きな領地を任されている。バルロの世話になっているといっても、ここへは遊びに来ただけなんだ。これでも、騎士団では出世頭なんだよ」

茶化すように笑い、紅茶をひと口飲む。

「……うちは公爵家に比べたら使用人もずっと少ないし、家にシェラがいてくれると、華があっていいな、と思うんだ」
「そんな……もったいない」
「ゆっくり考えてごらん。君のしたいように」
「……」
「私は、いつでも君の味方だからね」

シェラは深く頭を下げ、嗚咽を漏らさないように膝の上で固く拳を握った。


ナシアスに話を持ちかけられてから、たっぷり十日シェラは考えた。
もちろん、その間もヴァンツァーの世話はしていた。
最初に会った頃よりずっと冷たくなった藍色の瞳。
口調もきつく、シェラに対する接し方からもやさしさはほとんどなくなった。
それでいて、狂おしいまでに熱く、強いまなざしでシェラを縛るのだ。
目を合わせたら絡め取られる。
その視線が嫌ではないから困るのだ。
他の誰でもない、自分だけを求めていることが分かってしまうから。
そんな目で見つめられて、彼の腕に抱かれることを嫌だと言えるわけがないから。

──傍にいたい、でも、もうこれ以上耐えられない。

限界が来るまで、シェラは考え抜いたのである。

「……お暇を、いただけませんか?」

髪から金細工の櫛を抜く。
ヴァンツァーが館にいるときは、常に挿しているように言われた櫛。
抜けば、はらりと銀髪が背中に流れる。

「――暇?」

櫛を差し出されたヴァンツァーは、微動だにせずにシェラの瞳をひた、と見つめた。

「はい……」
「ここを出てどこへ行く」
「……」

ピンときたヴァンツァーは、面白くもなさそうに口端を持ち上げた。

「あの男か。確か、ナシアス・ジャンペール」

シェラは決然とした意思をもって、主人の目を見た。
こんなに真っ直ぐに見つめたことはないかも知れないくらい、揺るがない視線。
そして。

「あの方の元へ、行かせて下さい。それがダメなら――――殺して」
「……」

本気だ、と目が言っている。
ヴァンツァーは表情には一切出さず、拳を握りしめた。
手のひらに爪が食い込むほど。
しばらく、睨むようにシェラを見つめたあと、口を開いた。

「……いいだろう」

その代わり、とヴァンツァーは条件をつけた。

「今日は俺とともに食卓に着け」
「奴隷が主人とともになど――」

ヴァンツァーはシェラから視線を逸らして口許に笑みを浮かべた。
触れたら壊れそうな、そんな儚い微笑み。

「……最後の晩餐だ。一度くらい、お前と食事がしたい」

それからゆっくりとシェラに顔を向けた。
最近は見ることのなかった、弱々しい表情。
支えを必要としている、子どものような顔。
母親の命日の夜、一度だけ、と懇願してきたあのときと同じ。

「――……承りました」

そんなヴァンツァーを突き放すような真似は、シェラにはできなかった。
とはいえ、最高の料理人が作る貴族のための料理の味など、シェラには分からなかった。
だから、グラスの酒にばかり手をつけていた。
そのせいだろう、酔って眠ってしまったらしい。
気がつくと、見たことのない部屋だった。

「――……ここは?」

見渡してみても、知らない部屋であることしか分からない。
自分の部屋でも、ヴァンツァーの部屋でもない。
少なくとも、公爵家の別館ではない場所だ。
しかし調度は一級品ばかりだし、自分が寝かされている寝台にはふかふかの寝具。

「よく分からないけど、気持ち良い……」

──もしかしたら、旦那様が連れてきて下さったのかも知れない。
頭の片隅でそんなことを考えたが、強烈な睡魔に襲われ、シェラは再び眠りに落ちた。
ひんやりとしたものが頬に触れ、シェラの意識は覚醒した。

「……ぅ、ん……」

ゆっくり目を開けると、見慣れた美貌。

「……ご主人、様……?」
「起きたか」

見たことがないくらい、やさしく微笑んでくれる主人。
どうやら、ナシアスではなかったようだ。
勝手なことを言ったのは自分なのに。
酔った自分を介抱してくれたのだろうか。
申し訳ないが、嬉しい。
本当に、誰よりもやさしくて高潔な人。
この人と離れるのは辛いけれど、でもそれはこの人のためなのだ。
主人に秋波を送る奴隷などがいたら、きっと降嫁してくる王女は面白くない。
この人には、誰よりも幸せでいて欲しいから。

「あの、ここは?」

それには答えず銀髪を梳くヴァンツァー。
やさしい手。
この手がとても好きだ。
力強く自分を戒めることもあるけれど、いつだって最後は解放してくれる。
この手に髪を梳かれるのが、とても好き。
どんなときよりも安心するのだ。

──それなのに、今はえも言われぬ不安に胸が支配されている。

「……ご主人様?」

起き上がると、金属のこすれる耳障りな音。

「――え?」

ヴァンツァーは美しい笑みを浮かべたまま、愛しげにシェラの髪を梳く。

「お前は、俺だけのものだ」

茫然とするシェラに、ヴァンツァーはやさしい口づけを与えたのだった──。




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