唯一の願いは、ともにあること。

やはり、閉じ込めてしまおう。
鎖に繋いで、毎晩抱いて。
いつかおとなしくなるかも知れない。
そうすれば、自分だけのものになる。
どんな手を使っても、自分以外見る気など起きないように。
ふたりだけで、生きていけばいい。
王女とも結婚などしない。
それでもしこの国に居場所がなくなるのなら、出ていくだけだ。
あれがいる場所なら、どこでもいい。

「シェラ。食事を持ってきた」
「……」

横になった状態で薄っすらと目を開ける寝台の上の佳人。
足は鎖に繋がれたまま。
館中の窓にはそれと分からないよう華麗に装飾された鉄格子。
ゆっくりと身を起こすシェラ。

「……ご主人様、このようなことをなさって──」
「違うだろう?」
「……」
「何と呼べと言った?」

ヴァンツァーはベッドサイドに食べ物を置き、寝台の端に腰かけた。
さらりと銀髪に指を絡める。

「……このようなことをなさって、何になります?」

悲しげに眉を寄せるシェラに、ヴァンツァーは内心嘆息した。

「――お前が、手に入るよ」

どんな女も一発で虜にするに違いない微笑。
高鳴りそうになる胸を押さえ、シェラは懸命にヴァンツァーから視線を剥がした。

「ですから、私などを――」
「シェラ」

名前を呼ばれると弱いことは、初めて会ったときから明らかだ。
どんなときでも、名前を呼べば視線を合わせてくる。

「お前だけでいいんだ」
「……」
「お前以外何も望まない」

切なげに寄せられた眉。
自信に溢れているはずの藍色の瞳が揺れている。

「……」

そんな、今拒絶したら死にそうな顔をされては、シェラに取れる態度はひとつ。

「名を」

頼む、と目が言う。

「――……ヴァンツァー様」

それだけのことで涙が溢れそうになる。
ヴァンツァーが心底嬉しそうな顔をしていて、余計に胸が締めつけられる。

「食事が冷めてしまうな。食べよう」
「……あなたも?」

見れば、確かに食事はふたり分。

「ひとりでは味気ないだろう?」
「……」

こんなにも自分のことを考えてもらえて、嬉しくないわけがない。
本当に、やさしい人。

「……まぁ、俺が作った料理では美味くもないだろうが……」
「――あなたが?!」

ぎょっとして、思わず身を乗り出してしまい、寝台から落ちそうになる。

「い、いけません!」

突然落ちた雷に、ヴァンツァーは目を丸くした。

「あなたのように身分の高い方がお手ずから料理など!」
「……なぜ怒る?」
「私のような奴隷のせいであなたの手を煩わせるなど、あってはならないことです!」
「……お前は」
「私が作ります!」
「――……できるのか?」
「当たり前です! 水仕事は奴隷の本業です!」
「……」

それは違う気がしたが、あまりの剣幕にヴァンツァーはたじろいだ。

「お屋敷にはたくさんの料理人がいましたから何も言いませんでしたけど」
「……そうか」

天使の怒りの理由はよく分からなかったが、ヴァンツァーは表情を和らげた。
ここ最近ずっと暗い表情ばかり浮かべていたシェラが、怒っている。
どんな感情でも構わない。
自分にぶつけられる真っ直ぐな気持ちと視線が、こんなにも心地良い。
自分ひとりに向けられる感情ならば、それがどんなものでも構わない。
久しぶりに、心から笑顔を浮かべられた、と感じる。
そうだ。
何も、嫌がるシェラを無理に抱かなくてもいい。
ここにいれば、シェラは自分しか見ないのだから。
こんな風に目を見て話をしてくれるのなら、それでいい。
手荒な真似は、できるだけしたくない。

「では、これからはお前に任せる」

微笑んだまま頷くヴァンツァー。

「あ……ですが……」

シェラは、はっとして足元を見た。

「……お前が俺の元からいなくならないと約束するなら、これは外そう」

ヴァンツァーは足枷に指を這わせた。

「ご主人様……」
「傍にいて欲しいだけなんだ。こんな酷いことをするつもりはなかった」
「……」
「悪かった」

頭を下げられてシェラは飛び上がった。

「おやめ下さい! あなたが私にそんなことをする必要など!」
「お前があの男の元へ行くと言うから、俺は……」

並ぶもののない妖艶な美貌が、信じられないくらい幼く見えてシェラは驚いた。
手に入らないものがなかった人だから、自分の持ち物が意のままにならないことに腹が立ったに違いない。
それはそうだ。
金貨三十枚も払った奴隷が、逃げ出そうというのだから。
だから、鎖に繋いだ。

「……」

気高いこの人にこんなことをさせたのは自分。
自分が愚かな思慕の情に耐えられなくなる前に逃げようとしたからいけないのだ。
また、自分の意見など持ってしまったから。

「……もう、どこへも行こうとしませんから」

シェラは諦観したように微笑んだ。
すべて、この人のいいように。
そうすれば、少なくともこの人は心安らかにいられるのだろう。

「本当に?」
「はい」

ヴァンツァーは嬉しそうに微笑んで、シェラを抱きしめた。
それからヴァンツァーは鎖を外し、赤くなっていた足首を手当てした。

「傷痕が残らなければいいが……」

やったのは自分だが、心配する気持ちも嘘ではない。
シェラの白くて綺麗な肌に、醜い鎖の痕が残らないことを祈る。
そして、身体の自由を取り戻したシェラを伴い、食堂へと向かう。
寝室は二階部分にあたり、食堂に行くには階段を降りる必要があった。

「歩きづらくはないか?」

先を行くヴァンツァーは、一歩階段を降りたところでシェラに手を差し出した。

「……ありがとうございます」

ふわりと手を重ね、ふたりは階段を降りた。
ヴァンツァーの作る料理は決して手の込んだものではないが、とても美味しかった。
そう言うと、ヴァンツァーは嬉しそうに微笑んだ。
穏やかな笑顔。
昨今見ることのできなかったそれに、シェラは胸が痛んだ。
やはり、すべては自分のせいだったのだ。
この人は、自分が我が儘を言わなければやさしいまま。
まなざしをきつくすることも、汚い言葉で罵ることもない。
力ずくで手込めになど、決してしようとはしない。
だからシェラは、同じ寝台に眠ることにも頷いた。
いつかと同じで、ただ一緒に眠るだけ。
就寝の挨拶のように軽く額に口づけてはくるが、それ以上は何もしない。
ヴァンツァーはシェラを腕に抱いて寝ていることで安心するようだった。
それならば、それでいい。
シェラは、自分を抱きしめてくる腕に身を任せた。


翌朝、ヴァンツァーは腕の中からぬくもりが消えていて飛び起きた。
部屋を飛び出し、大声で呼びながら走る。
階段を降りると、求めていた姿に出会った。

「どうかなさいましたか?」

不思議そうに首を傾げ、シェラはヴァンツァーの前に現れた。
その姿を見つけた瞬間、ヴァンツァーはきつくシェラを抱きしめていた。
僅かな隙間も許さないほど、強く掻き抱く。

「──どこに?」

痛みと圧迫感に顔を顰めそうになりながらも、シェラは口を開いた。

「……台所です。朝食の用意を」

その言葉に、ヴァンツァーはようやく息を吐き出した。
腕から力を抜き、シェラの肩に手を置いて目を合わせる。

「お前が起きたら俺を起こせ」

まさか、シェラがいなくなったことに気付けなかったとは。
信じられない失態だ。
どれだけ深く眠ってしまっていたというのか。
安心しすぎた──シェラは、いつでも自分の元を離れていけるのだ。

「いいな?」
「ですが」
「頼む。――今度こそ、いなくなったかと思った」
「……お約束しました」
「分かっている。だが、頼む」

焦燥感色濃く、顔色がない。
頭を押さえ、現状を把握して落ち着こうと努めている様子。

「……はい。申し訳ありませんでした」

頭を下げられ、ヴァンツァーは首を振った。

「お前は……悪くない」

何かを振り払うようにもう一度頭を振り、ヴァンツァーは微笑した。

「――もう、食事はできているのか?」
「あ、はい。今お起こししようと思っておりました」
「そうか……着替えてくる」
「はい」

シェラの料理は絶品だった。
大した食材もないのに、栄養価も味も、舌の肥えたヴァンツァーにも大変満足いくものだった。
素直に褒めると、シェラは嬉しそうに笑った。
きっと、今まで褒めてもらったことがないのだろう。
ヴァンツァーは 、それからシェラが料理する姿を傍で見るようになった。
この館での生活を始めて三日経った日、朝食の用意をしているときにシェラは訊ねた。

「こんなものを見ていて、楽しいですか?」

特に何も目新しいことはしていない。
ヴァンツァーだとて多少は料理をするのだ。
大抵の工程は分かっているはずである。

「――……こんなことを言ったら、お前は笑うかな」
「何です?」

調理の手はそのまま、シェラは会話した。
失礼にあたることだが、ヴァンツァーが料理を続けろと言うので従った。

「俺は昔から、大きな屋敷も、多くの使用人もいらないから、いつか結婚したら家族だけで暮らしたいと思っていた」
「──公爵になる方が?」

驚きつつ、それでも手際良く品数を増やしていくシェラ。
くすりと笑むヴァンツァー。

「妻が料理をして、時々一緒に台所に立つのが夢だった」
「あぁ、それで」

シェラは納得した。

「何だ?」
「美味しいですものね、あなたのお料理。もともとお好きだったんですね」
「あぁ……最近は忙しくてあまりできないが、昔は母や料理長に頼んで色々教えてもらった」

シェラは半身を翻し、にっこり笑顔を向けた。

「素敵ですね」
「……そうか?」
「はい。そういう家族、とても素敵です」

自分には縁のないものだが、とは内心にとどめ、シェラは再び調理に戻った――と、背後から抱きすくめられ、包丁を取り落としそうになった。

「――危のうございます」
「お前だけだ」
「……え?」
「聞いて笑わなかったのは」
「……」
「どんな女にこの話をしても、顔を顰めるんだ。カリンやブルクスもいい顔をしないし……」

シェラは笑いを噛み殺した。

「それはそうです。先日も申し上げましたが、貴族は料理などしません。あなたがお話をなさったお嬢様方は、調理される前の動物が動いていることすら知らないのですから。出された料理がすべてなんです。それに、公爵夫人ともなればそんな下働きとは無縁と思っておいでなのですから」

やんわりとヴァンツァーの腕から抜け出し、向かい合わせになる。

「だから、そんな女は嫌なんだ」

子どものように口を尖らせるヴァンツァー。
その可愛らしい様子に、シェラは忍び笑いを漏らした。

「あなたの奥方になる方は大変ですね」
「別に何も難しいことは要求していない。見た目も年齢もどうでもいい。ただ、俺の地位や身分に拘泥せず、この顔にも執着しない、家庭的な人間がいいだけだ」

今度こそ、シェラは笑い出した。

「……何がおかしい」

さすがに眉を顰めるヴァンツァー。
シェラは即座に謝った。

「やはりあなたの奥方は、並大抵の方では務まりそうもありませんね。──ですが、王女様にそんなことを要求するわけには参りませんよ?」
「……俺は、お前がいい」
「……私は男です」
「なら結婚などしない」
「公爵位はどうなさるおつもりです」
「そんなものはいらない」
「ご主人様……」
「名を呼べと言っている」

シェラは仕方ない、というように嘆息した。

「……ヴァンツァー様。公爵様がそれをお聞きになったら悲しみます」
「そんなわけあるか。──あの人は、家族がどうなろうと気にならない人だ」

吐き捨てるようなヴァンツァーの口調に、シェラは表情を曇らせた。

「ヴァンツァー様」

たしなめるシェラの声音に、ヴァンツァーは再びシェラを抱きしめた。

「……そんな話はいい。俺は、お前とこうしている生活が、今まで生きてきて一番幸せだ」
「……」

この人のやさしい腕の中で、何も考えずに生きていければいいのに。
せめて自分が、貧しくとも自由人であったなら。
奴隷としての生き方を知らなかったら。
この人の伴侶にはなれなくとも、この人に背いてまで拒んだりしなかったのに。
シェラは何とかヴァンツァーの胸を押し返した。

「……早く朝食にしませんと。そろそろ、学院へ行かれるお時間では?」
「今日は休日だ」
「あ……」

途端にヴァンツァーの表情が曇る。

「……俺と、いたくないか?」
「そんなこと!」

シェラは慌てて首を振った。
ヴァンツァーは力なく微笑んだ。

「……お前はやさしいから、たとえ嫌でも口にしないのだろうな」

抱かれること以外は、何でも受け入れる――こんな監禁生活さえも。
だからこそ、本当に自分に抱かれるのが嫌なのだと分かる。

『声だけでイクかと思った』

そう言ったレティシアの顔を思い出す。

「……」

あの男は、知っているのだ。
一度、自分も聞いた甘い声。
きっと、それよりずっと濡れた――快楽に震える声と表情を。

「ヴァンツァー様?」

はっとしてシェラに意識を戻す。

「あの……」

シェラの瞳が揺れる。

「あの……嫌なのではありません」
「シェラ?」
「あなたといることが、嫌なのでは……」
「――やさしいな」
「嘘じゃありません!」

急に大きくなった声に、ヴァンツァーは驚いた。

「――……シェラ?」
「嘘じゃ……」

ないけれど、これ以上を口にするわけにもいかない。
シェラは俯いた。
と、頭を撫でられる。

「ありがとう。今はその言葉で十分だ」

軽く、唇を重ねる。

「……」

シェラもそれを拒んだりはしなかった。
この館で過ごす時間は、とても穏やか。
あの屋敷でもそれは同じことだが、ここには自分たちの他に誰もいないから。
静かで、平和。

「あの、ヴァンツァー様」

ある日シェラはヴァンツァーに訊ねた。

「何だ」
「あちらのお屋敷は、変わりありませんか?」
「さぁ?」
「え?」

ヴァンツァーはちいさく笑った。

「これだけお前といるのに、あの屋敷へ帰っていると思っていたのか?」

ここから学院へ通い、そこから真っ直ぐここへ来ているという。
途中買い物をしに街へ出ることもあるから、帰宅時間はまちまちだったが。
シェラは顔色を変えた。

「皆様ご心配に」
「住まいを変えるとは言った」
「……」

シェラは怒りや心配を通り越して呆れてしまった。
本当に、子どものよう。

「……お屋敷へ戻るわけにはいかないのですか?」
「……」

急に精悍な美貌が翳りを帯びた。

「私は、逃げたりしませんから……」
「……ダメだ」
「本当に、逃げたり―― 「そうではない」
「え?」
「お前のことは……信じている」

それは嘘だ。
信じたいだけ。
二度繰り返されたことが、この先ないとなぜ言える。

「それなら」

ヴァンツァーは、さらりとシェラの髪を梳いた。
艶やかな銀の髪に宝石よりも澄んだ紫の瞳、神々しいまでの美貌。
この美しさに心を奪われないものなど、いるのだろうか。
それに、シェラはやさしい。
誰にでもやさしいから、皆が勘違いする。

「美しいな……」
「……ご指示通り、質のよい椿油を使わせていただいておりますから……ヴァンツァー様?」
「ダメだ……」

ヴァンツァーは言い知れぬ不安を拭おうと、華奢な身体をきつく抱きしめた。

「この館から出るな。不自由はさせないから」
「ヴァンツァー様……」
「人がいない生活が退屈なら、本や小鳥を持ってくる」

自分以外の誰も、これを見てはいけない。
本当に自分のものになるまで──シェラが自分以外を見なくなったと確信できるまで、誰の目にも触れさせない。

「必要なものは揃えるから」

シェラは首を振った。

「……それは、奴隷の生活ではありません」
「……お前を奴隷と言ったことは訂正する。本当にすまないと──」
「いいえ。私は奴隷です」
「シェラ」
「不自由はありませんし、あなたのいない時間は掃除や洗濯などして過ごします。けれど、たまにはお屋敷の皆様にお顔を見せて差し上げて下さい。きっと心配なさってます」

お願いします、と頭を下げられては、頷くしかない。

「……分かった」

再び、シェラの髪を梳く。

「……よく、この髪に触れてらっしゃいますよね」
「好きだから」

真っ直ぐな言葉。
この人は、いつでも真っ直ぐなのだ。
自分自身に、とても正直。

──それが、許される人。

「……」
「不快か?」
「いいえ……気持ち良くて、眠くなります」

誤魔化すように、笑った──。




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