「行ってくる」
「……お気をつけて」
朝、学院へと向かうヴァンツァーは、玄関ホールでシェラに口づけてから館を出る。
それは、毎日繰り返される挨拶のようなもの。
ヴァンツァーが言うには、『お守り』代わりなのだという。
思わず笑ってしまったシェラだが、そんなことがごく当たり前のようになってきたこの頃。
どこにあるのかも分からない館での生活が始まってひと月ほど経ったある日、ヴァンツァーを送り出したシェラは緩みそうになる頬を押さえながら洗濯をしていた。
分不相応なことも、身分違いだということも分かっている。
それでも 、今自分はあの人を独り占めにしている。
どんな人間の心も掴めるあの人が、自分だけを傍に置いている。
長く続かないことなど分かっている。
泡沫の夢なのだということも。
あの人を説得して、早くこの生活を終わらせなければならないのだ。
「分かってる……」
けれど、あまりにも心地良くて。
幼児性の発露である独占欲の結果がこれなのだとしても、嬉しいと思ってしまう。
「──もっと、縛ってくれればいいのに……」
誰も聞くものがいないから、つい本音が出る。
鎖に繋がれたのだって嫌ではなかった。
自分たち奴隷にとっては、それが当たり前だから。
自分の手足さえも自由にならない。
主人に繋がれる鎖は、今のシェラにとって不幸ではない。
鎖でなくとも構わない。
言葉でも、瞳でも。
あの足枷の痕でも残っていたら良かったのに、もう消えてしまった。
何でもいい。
逃れられないくらい縛ってくれれば。
すべてあの人が考えて、自分を縛ってくれればいいのだ。
自分の意見など、無視してくれていい。
そうすれば、離れなくて済むのに。
「そういった扱いが好みなのか?」
冷たい笑いを含んだ張りのある男の声に振り返る。
思わず手の中の洗濯物を落としてしまった。
「――お館様……」
立ち尽くすシェラを、建物に寄りかかって眺めているファロット公爵。
ゾク リとした。
まるで人の気配を感じなかったのに、今自分を見つめる瞳は凍てついている。
「あ……ど、して……?」
公爵はくすくす笑った。
凄まじい美貌の公爵の笑みにも、シェラは恐怖しか感じない。
「あれは私の息子だ。私の耳に届かないことなどない」
「……」
「それでも、ここを探すのは苦労した。あれは、用心深い」
ちいさく震え、シェラは一歩身を引いた。
「そう怯えるな」
公爵はシェラが引いた分だけ距離を詰める。
「……」
もう一歩引くと、洗濯かごにつまづいた。
「あ」
短い悲鳴を上げて倒れるシェラ。
公爵は易々とシェラの元まで歩み寄った。
高い位置から見下ろし、鼻を鳴らす。
「銀髪か」
「……あ……公爵様……」
尻餅をついたまま、茫然と見上げることしかできない。
そんなシェラの前で、なんと公爵は膝をついた。
「こ――」
驚きに目を瞠るシェラの顎をきつく捉える。
痛みに顔を歪めるシェラ。
「奴隷ごときが、あれの伴侶にでもなった気でいたか」
「ちが――」
更に手に力を込める公爵。
「あれと王女の婚姻の日取りは、既に決まっている」
「……」
「愚息といえども、公爵家をつぶしてまで断りはすまい」
「……」
じっとシェラの顔を睨み、公爵は口を開いた。
「──……私の邪魔ばかりする奴隷だ」
呟かれた言葉に、シェラは首を傾げた。
「……公爵様……?」
ゆったりとその美貌に微笑みを浮かべる公爵。
「今度こそ、そんな気も起きないようにしてやろう」
何が待っているのかは、明白だった。
夕方帰ってきたヴァンツァーは、いつかと同じくシェラが迎えに来なかったために寝室まで走った。
「シェラ!」
乱暴に扉を開けて寝台に駆け寄るが、そこにシェラはいなかった。
綺麗に整えられたままの寝具は、まるで使った形跡がない。
ではどこだ、とヴァンツァーは館中を走り回った。
公爵家に比べたら部屋数は少ない。
もともと、家族とひっそり暮らすために立てた館だ。
豪華である必要はない。
すべての部屋を見たが、一階にも二階にもシェラの姿はない。
台所にも、浴室にもいない。
残るは庭だけ。
行けば、洗濯物は干す途中のまま残されていた。
几帳面なシェラがそんなことをするとは考えられない。
「……シェラ?」
そこで初めて、自分の懸念が間違っているのではないかという考えに至る。
茫然とするヴァンツァーの目に、きらりと光るものが目に入った。
何だろうと近寄れば、極細の糸のようなもの。
ヴァンツァーは息を呑んだ。
「――これは」
庭の土に散らばるそれを、数本手に取る。
「銀髪……」
ヴァンツァーは、その慣れた感触に眩暈がした。
盛大な舌打ちを漏らすと、再び館中を駆けずり回った。
心臓がおかしい。
汗が噴き出す。
走ったせいではない。
言葉にできない焦燥感に胸が支配され、まともに考えることもできず、ヴァンツァーは壁を殴った。
「髪、だけだ……っ」
血液や死体を見たわけではない。
命がないと決まったわけではないのだ。
「……やはり、館から出さなければ良かった」
館の中にいなければ、防犯用の鉄格子も意味がない。
あれがあれば、賊の侵入も難しくなるはずだった。
洗濯用のテラスを、二階に作ってやるべきだったのだ。
「シェラ……どこに……」
捜すにしても、何のあても――。
「────まさか……」
脳裏に浮かんだのは、金髪の男がふたり。
ヴァンツァーはまず、幼馴染みの青年の元へ向かった。
「──おぉ、ヴァッツ。睡眠薬、効いたか?」
「……あぁ」
殺されかけたことなど気にしていないように、レティシアはヴァンツァーを迎え入れた。
「お嬢ちゃん神経細そうだからな。お前が気をつけて見ててやれよ?」
「……」
じっとレティシアを睨むように見つめながら、ヴァンツァーはゆっくりと口を開いた。
「シェラを……知らないか?」
「へ? お嬢ちゃん?」
素っ頓狂な声で目を丸くするレティシア。
「お嬢ちゃんがどうかしたのか?」
これが演技だとしたら大した狸だが、この青年が顔色ひとつ変えずに嘘を吐けることはよく知っている。
その気になれば、王族相手に偽りを口にすることだって平気でできる。
それを見極めようと、ヴァンツァーはきついまなざしのままで幼馴染みを見ていた。
「何だ? 愛想尽かして、家出でもされたのか?」
からかうように笑うレティシア。
それを見たヴァンツァーは踵を返した。
「おい、ヴァッツ」
「用は済んだ」
「はぁ?」
「ここにシェラはいない」
断言されたレティシアは、にやりと笑った。
「俺を信用するわけ?」
「いや」
きっぱりと否定されても、レティシアはにやけた顔のまま。
「なら何で?」
「――勘だ」
「はぁん?」
「……お前は、あれの髪を切らない」
「髪?」
「庭で、あれの髪が切られているのを見つけた」
いくらかは風で飛ばされたのだろうが、よく残っていたものだと思う。
レティシアは目を瞠った。
「――それってヤバくねぇか?」
「だから捜している」
「家の力使ったら?」
ヴァンツァーは苦い顔になった。
「――……それはあの人の力だ。シェラに関することだけは、他人の力を借りたくない」
レティシアはひとつ息を吐くと、弟でも見るような目になった。
「んなこと言って、時間かかる方がヤバいだろうが。──あてはあんのかい?」
「……あと、ひとり」
「誰だ?」
「ナシアス・ジャンペールという男。──シェラの、以前の主人だ」
「ははあ。強力な好敵手出現、ってか?」
「サヴォア公爵家の客らしい」
「そりゃまたデカい家の関係者だな」
「そんなものはどうでもいい」
「下手すると親父さんの面子つぶれるぜ?」
「だから?」
レティシアは苦笑した。
「家がどうなろうが、知ったことではない」
「ちょっと前のお前は、思ってても言わなかったけどな」
訳知り顔でそう言うレティシアには何も言わず、ヴァンツァーは伯爵家を去った。
見送ったレティシアは、深く嘆息した。
「あいつ、また熱くなってやがる」
それでは、見えるものも見えなくなる。
「──ま、それを教えてやるほど、俺は親切じゃねぇけど」
どうしようもなくなったら、きっとあの青年は自分を頼ってくるだろう。
その程度には信用されている、とレティシアは自身を評価している。
そうでなければ、シェラを抱いた自分のもとへとあの青年が来るはずがないのだ。
だから、レティシアは動かない。
今自分が動けば、あの幼馴染みが烈火のごとく怒るだろうことが分かるのだから。
「……少し、外へ行こうか」
サヴォア家でナシアスを呼び出してもらったヴァンツァーだが、爵位ひとつ持たない男にそう言われ、場所が場所でなければ怒鳴っていたに違いない。
「……俺は、シェラの行く先に心当たりはないかと訊いたはずだが?」
「人のいる場所では話しにくいことも――」
「シェラの居場所を知っているか否か。知っていたらそれはどこか。それだけを言えばいい」
固く拳を握り、秀麗な美貌を歪め、爆発しそうな怒りを懸命に抑える。
ナシアスは穏やかな、それでいて痛ましい微笑みを浮かべた。
「……君は、奴隷の生活というものを知っているかい?」
「ファロット家での彼らは――」
ナシアスは首を振った。
「一般的な奴隷だよ。働かせるだけ働かせて、着るものや食べるものは可能な限り切り詰められる。主人に口答えしようものなら地下牢に閉じ込められ、拷問され、死んだって代替が利くから構わない」
「……」
顔を顰めたヴァンツァーを見て、ナシアスはやわらかく微笑んだ。
「君は、奴隷の待遇改善をお父上に訴えたんだそうだね」
「……シェラが?」
「いや。貴族たちの間でも評判らしいね、君は。学院でもっとも優秀だそうじゃないか」
「……それとこれと、どんな関係が?」
「あの子――シェラのように見目の良い男の子がどんな扱いを受けるかは、知っているかな?」
「……」
「少し、散歩しようか」
今度は、ヴァンツァーも拒否しなかった。
ピチャン……。
岩壁に反響する水の滴る音。
頬に冷たい水を感じ、シェラは目を開けた。
暗く、ジメジメとした地下牢の中、首と両手首を鎖に繋がれて壁に縫い付けられている。
鼻につくカビの臭いに顔を顰める。
最近そんなものとは無縁の生活をしていたために、吐き気すら覚える。
それでなくとも、ここへ連れて来られてから数時間の間というもの、ひたすら犯され続け、体力も気力も限界を迎えて気を失っていたのだから、気分が悪くて当然だ。
地下牢は日光が差さないため肌寒く、何も身に纏っていないシェラはカタカタと震えていた。
そのたびに鎖が擦れる音が響く。
背中に感じる石壁の温度と体温が、ほとんど変わらないように感じられる。
あの公爵のことだ。
きっと自分が死ぬまでここで、同じような行為を繰り返させるのだろう。
着物も、食事も与えられないまま。
精根尽き果てて衰弱死するのを待つのだ。
こういった扱いには慣れているはずなのに、シェラは視界が滲むのを他人事のように感じていた。
涙が零れないように上を向く気力すらない。
俯くが、見慣れた長い銀髪はどこにもない。
「ごめ……なさい……」
好きだと言ってくれたのに。
この髪だけは、大切にしようと決めたのに。
「ごめ――」
顔を覆って泣きたくても、手が自由にならない。
不自由なんて、慣れているはずなのに。
ほんの数ヶ月前まで、似たような生活をしていたのに。
――と、ヒタヒタという音をさせ、誰かやって来る。
ビクリッ、と身体を震わせるシェラの前に、ふたりの男。
ひとりは公爵。
足音ひとつ立てない身のこなしは、いかにも軍人らしい。
牢の外から公爵が話しかけてくる。
「目覚めたか。何を泣く?──お前もイイ思いをしたろう?」
「……」
公爵の後ろの男に目を移すシェラ。
「……お館様、こいつを、ですかい?」
シェラも見たことのある屋敷の下男。
粗末な着物に、裸足で歩いている。
靴音がしなかったのはこのためだ。
シェラの顔に一瞬驚いたようだが、公爵にへつらうように控えめに訊ねる。
「こいつは坊ちゃんの……」
「ヴァンツァーか?」
その名に、シェラの身体はギクリと強張った。
その反応すら愉しむ公爵。
シェラを抱いたときもそう。
耳元でその名をささやき続けた。
『ヴァンツァーにも、その声を聞かせてやればいい』
『ここに、ヴァンツァーも連れてくればよかったな』
『その反応の仕方は、ヴァンツァーに教えられたのか?』
いつのときよりもみじめで、涙が止まらなかった。
顔を逸らして俯くシェラを前に、公爵はつまらなさそうな顔で下男に言った。
「構わん。好きにしろ」
「ですが」
「ヴァンツァーは、こんな薄汚れた奴隷はもういらないそうだ」
わざわざシェラを見ながら言い、絶望の底に突き落とす。
分かっていても、他人に言葉にされると辛い。
あの人は、こんな穢れた人間を傍に置いたことすら後悔するだろう。
自分がかけた言葉ひとつまで、忘れたくなるに違いない。
一緒になど、居たいわけがない。
分かっている。
それなのに、涙が止まらない。
「――そういうことなら」
下男の目が熱を帯びる。
ギラギラとした、欲望に満ちた獣の目だ。
寒気がする。
あの人に触れられるのは、怖いけれど嫌ではない。
戻れなくなりそうで恐ろしいけれど、嫌悪はない。
だが、今は違う。
気持ち悪い。
ただ、吐き気がする。
もうとにかく、早く終わらせたい。
こんな行為も、それから──自分の命さえも。
シェラがナシアスの屋敷へとやってきたのは八つのとき。
「あの子は最初、人に触られるのが大嫌いでね。──特に、成人した男には」
「――まさか」
『市』で見た少女を思い出す。
ナシアスは頷いた。
「怖かったろうね。まだ子どもだ」
そう言うナシアスの表情こそ悲痛で、ヴァンツァーはこの男とシェラが、と勘ぐったことを後悔した。
恐らく、その頃のシェラにとって唯一信用できる人間がこの男だったのだ。
自分を無理やり手込めにしたりしない主人。
それだけでも、以前の生活に比べたら格段に幸福だったに違いない。
「シェラ……」
自分は、醜い嫉妬でシェラの思い出を踏みにじったのだ。
どうして、違うと言ったシェラの言葉を信じてやれなかったのか。
自分の行動にすら吐き気がする。
あれは、シェラを穢した男たちと同じ行為。
きっと、恐ろしかっただろう。
あんなに泣いて嫌がっていた。
何ということをしてしまったのだろう。
シェラが傷つくと分かっていて口にした言葉も、消せないことが悔やまれる。
「あの子はね」
ナシアスが静かに口を開く。
「自分が奴隷だということをわきまえすぎている。そんな生活をしていた自分だから、人に好かれたり、幸せになる資格がない。だから、自分も好意を表に出してはいけない、と思っているんだ」
「……だが貴公には」
あんなに嬉しそうに微笑んで、抱きついた。
ナシアスはちいさく笑った。
懐かしさに目を細める。
「あそこまでいくのに、二年かかったんだ」
「え……?」
「頭を撫でようとしただけで、部屋の端まで逃げる」
「……」
「それでいて、すぐに謝る。真っ青な顔で肩を震わせて、何度も頭を下げるんだ」
「……」
「そんな子に、どうしたら手荒な真似ができる……?」
その台詞が何だかすべてを見透かしているようで、ヴァンツァーは眉を寄せた。
「あの子は、きっと君の元に引き取られて幸せだった」
「……」
「──でも、幸せすぎた」
「どういうことだ……?」
「幸せになれるはずもない自分が、こんな暮らしをしてはいけない――そう、思ったんじゃないかな……」
ふと、視線を逸らすナシアス。
「そんな──」
「言っただろう? あの子はわきまえすぎている」
「切られた銀髪の説明は?」
早口に、強い口調で問う。
視線は、嘘を許さないように鋭くナシアスの横顔を射抜いて。
「……たぶん、決別、じゃないかな……?」
「決別……?」
頷くナシアス。
言葉を選び、考えを纏めながら話す。
「……今までの幸せだった生活に、別れを告げたんだ。これからどんな生活が待っていても、君を思い出すことのないように」
「……俺は、それだけ迷惑だったというわけか。思い出すことも厭わしい存在だったと」
「──違う!」
珍しく、ナシアスの口調が激しくなる。
「君を思い出してしまったら、会いたくなってしまうから……」
「だったら俺の元に留まればいい」
「君は王女との結婚も決まっている」
「そんなものはしない」
「公爵家をつぶすつもりか?」
「……構うものか」
「────いい加減にしなさい!」
吐き捨てるように呟いたヴァンツァーに、ナシアスは怒号を上げた。
目を瞠るヴァンツァー。
なぜこの男が激昂しているのか、まるで分からない。
「君はシェラがなぜ苦しんでいたのか、まるで分かっていない」
「……苦しんで……?」
ナシアスが泣きそうな顔になる。
「……あの子は、君が好きなんだ。君が、誰よりも大切」
震える声を抑えるために、ナシアスは大きく深呼吸した。
「だから、君を拒む」
ヴァンツァーは鼻で笑った。
「どいつもこいつも、もっともらしいことを言って──」
「君には王女と結婚して、幸せな家庭を築いて欲しかったんだ。──自分の代わりに」
「……代わり?」
「奴隷は自由に結婚などできない。ましてやどんなに愛しく想っていても、貴族との婚姻など夢のまた夢」
「……」
「だから、一番大切な君には、幸福な家庭を持って欲しかったんだ」
「……分かったようなことを……貴族に奴隷の考えが分からないのは、貴公も同じはずだ」
ナシアスは自嘲的に笑った。
「……そうだね。私には、あの子の想いを代弁する資格も、ないのだろうね……」
その口振りは引っかかったが、この男と長話をしていても埒が明かないと思い、ヴァンツァーはナシアスとの会話を打ち切ったのだ──。
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