あれのためなら、何だってできた。

シェラが消えて、一週間が経った。
しかし、その行方は依然として分からぬまま。
ヴァンツァーは学院にも赴かず、街にまでシェラを探しに行った。
自分の足で、誰の力も借りず。
レティシアとナシアスしか思い当たる人物がいなかったため、捜索は暗礁に乗り上げていた。
この国で北方人の特徴である銀髪はまず生まれない。
見かければ、記憶に残るはずである──ただでさえ、シェラのあの美貌は、一度見たらなかなか忘れられない。
その『美しさ』が、ヴァンツァーの胸を苛んでいる。
だから、気は進まないが明日は『市』に行ってみようかと考えていた。

そんな日の夜──。

シェラがいつ帰って来てもいいように、とヴァンツァーはふたり暮らした館で生活している。
綺麗に洗濯された寝具は、シェラの匂いも残っていない。
それでも、ふたりで眠った寝台に横になり、まんじりともせずに夜を過ごしている。
──と、風を感じて窓に目を移す。
さすがにベランダの窓には格子を取り付けなかった。
そこから、賊でも入ってきたか、と枕元の剣に手を伸ばす。
そして、目を瞠る。
真夜中だというのに、そこには燦然と輝く太陽があったからだ──正確には、いた。

「お前が、ヴァンツァー・ファロットか?」

太陽だと思ったのは、その見事な金髪のためらしい。
頭の上でひと纏めにし、紐でくくっている。
光の強い緑柱石の瞳をした太陽の化身は、女神の如き美少女だった。
だが、非の打ち所のない体型は女性でありながら、何ともぞんざいな口のききかたをする人物だ──いや、そもそも人間なのか。
その神々しいまでのいでたちと、人とは思えない美貌、どんな宝石も霞んでしまうようなエメラルドの瞳は、色彩こそ違えども、ヴァンツァーの脳裏を占める人物と共通している。
並べば、さぞ見ごたえのあるふたりだろう。
年の頃も同じくらいだ。

「……何だ、お前は」

ヴァンツァーは柄を握る手はそのままに、慎重に口を開いた。
金髪の美少女は、にっと口端を吊り上げた。

「おれはリィ──グリンディエタ、と言った方が分かりやすいか?」

その名に、ヴァンツァーは目を見開いた。

「──グリンディエタ、王女……?」

それは、彼の婚約者の名だった。
この国唯一の王女。

「……ふぅん。確かに、女が飛びつきそうな色男だな」

値踏みをするような視線だが、どういうわけか気分は悪くならない。
その瞳に、邪気がないからかも知れない。

「……本当に、王女……?」

リィと名乗った王女らしき人物は、本当に太陽のように明るく笑った。

「だろう? それ、おれが一番不思議なんだ」
「……」

こんな言葉遣いをする貴族の娘など知らない。
ましてや、相手は王族だ。
信じられない、とヴァンツァーが思うのも無理はない。
しかし、窓辺にもたれる美少女は、内から滲み出るような高貴さがある。
誰も侵すことのできない気高さだ。
夜の闇にも溶け込むことのない──むしろ闇夜を真昼に変える強さを秘めた雰囲気。
ヴァンツァーははっとした。

「──ここは、二階だ。どうやって……」
「別に、これくらいの高さならよじ登ったり、跳んだりして登れるぞ?」
「……なに?」
「窓の外には大きな木があるし、壁だって爪が引っかかるくらいの凹凸があれば足りる」

何でもないことのように肩をすくめるリィに、ヴァンツァーは考えることを放棄した。
言動が、自分の母によく似ている、と思ったからだ。
さすがに母は、ここまで苛烈な性格をしてはいなかっ──。

『二階から落としても大丈夫よ。あたしの子なんだから』

そう言っていたというカリンの言葉を思い出し、ヴァンツァーは頭を抱えそうになった。

「何だ? 具合悪いのか?」
「──……失礼。王女を立たせておくなど。非礼をお許し下さい」

ヴァンツァーは寝台から降りると、椅子を勧めた。

「おれが王女だって、信じるのか?」

逆に驚いた顔になるリィ。
まさか、こんな規格外の自分を王女だと思う人間がいるとは思わなかったようだ。

「あなたは、どこか母に似ていますから……」

シェラと母とこの王女がひとところに集まったら、そこは天上の国になるに違いない。
リィは嬉しそうに微笑んだ。
こうして笑うと、本当に普通の美少女である──普通の少女は深夜に男の部屋を訪ねることも、壁をよじ登ったりすることもないのだけれど。

「お前も、ちょっとルーファに似てるよ」
「……母をご存知で?」
「覚えてるさ。おれが三歳のときに死んじゃったけどな」

太陽の美貌が、翳りを帯びた。
そして、すぐにそれを振り払うように頭を振る。

「……なぁ、お前、この話を白紙に戻す気はないか?」
「白紙……? 結婚のことですか?」
「あぁ。おれはこんなだし、結婚なんかしたくない。──大体、自分より弱い男なんて、まっぴらだ」
「……弱い?」

見たところ、美しすぎはするが、ただの少女だ。
腕は細いし、腰に差した見事な拵えの長剣が扱えるとは思えない。

「試すか? 言っておくが、おれはレティシアと互角にやり合うぞ」
「な──?」

驚愕に目を瞠るヴァンツァー。
まさか、と書いた顔色を正確に読み取り、リィは腰の剣に手をかけた。

「やってみるか?」

──空気が、変わる。
何の心構えもしていないところに剣気が叩きつけられ、ヴァンツァーは息を詰めた。
最近まともに寝ていない身体に、いきなりの殺気はきつい。
しかも、一流の剣士でないとここまでの剣気を纏うことはできない。
ふらりと足元が揺らぐ。
と、リィが構えを解く。

「──何だ、やらないのか?」
「……おま──あなたが強いのは、よく分かりました。結婚の話は、別に私が乗り気なわけではありませんから……」

結婚などしたくない。
欲しいのは、シェラただひとりだ。

「何だ、そうなのか? ちょっと山にこもってたら、いきなり結婚が決まったとか言われたからさ。慌てて抗議に来たんだけど、無駄足だったのか……」

頭をガシガシと掻く姿も身分の高い女性とは思えなかった──シェラの方が、余程優雅な身のこなしをする。

「それにしても、王女との結婚に気乗りしないなんて、惚れた女でもいるのか?」

ヴァンツァーの肩がピクッと揺れる。

「まぁ……」
「ここに?」
「──……今は、どこにいるのかも分かりません」

僅かに青ざめたヴァンツァーに、リィの表情も真剣味を帯びる。

「行方不明?」
「えぇ」
「捜索はしているのか?」
「もちろん。──もう、一週間……」
「心当たりは?」
「すべてあたりました。……明日は、『市』にでも行ってみようかと」

リィの顔が嫌悪に歪む。

「……売られているかも知れない、と?」

ヴァンツァーは酷薄な笑みを口許に浮かべた。

「──もともと、私があそこで買ったので……」
「……」

苦い顔になるリィ。

「王女の前で人身売買の告白とは、勇気があるな」
「後悔は、していません……。この世で唯一、ともにありたいと思える人間に出逢えた」
「へぇ。どんな女なんだ?」

ヴァンツァーは目を伏せ、口許に笑みを浮かべた。

「銀の髪に菫の瞳をした、天使のように美しい──男です」
「男?!」

リィはぎょっとして緑の目を真ん丸にした。
どんな美女でも飛びつきそうな男がそこまでのめり込むのが、まさか同性とは。

「美しく、やさしく……かけがえのない」

ヴァンツァーの表情は真剣そのもので、冗談や酔狂でそんなことを言っているのではないと嫌でも分かる。

「……誘拐でも、されたのか?」

慎重に口を開いたリィに、ヴァンツァーは僅かに首を傾げた。

「……一週間前、学院から帰ったら姿がありませんでした。庭に、干しかけの洗濯物と、切られた銀髪が……」
「命の心配を?」

頷くヴァンツァー。

「……あれが死んだら、生きていけない……」

長く、息を吐き、額を押さえる。
そんな青年の様子を見て、リィは鼻を鳴らした。

「随分と女々しい。お前に愛想尽かしたんじゃないのか?」

ヴァンツァーは苦笑した。
レティシアと同じことを言う。
互角に剣を交わすというのも、本当かも知れない。
あの母の姪でもある人間だ、不思議はない。

「そうかも知れません。……酷いことをした」
「無理やり手込めにでもしたか?」

これには首を振るヴァンツァー。

「……どうしても、できなかった。あれが泣くと、胸が痛む」

たとえ自分だけに向けられる表情であろうとも、あれだけはダメなのだ。
口汚く罵ったときの絶望した表情もそう。

『信じていたのに裏切られた』

そう、書いてあるようで耐えられないのだ。
ヴァンツァーの言葉に、リィは蔑むような視線を向けた。

「だったら最初からそんなことしようとするな、ってんだ。嫌に決まってるだろうが、そんな扱い」
「……」

そんなことは分かっている。
分かっていても、どうしても自分だけのものにしたいと思ってしまう瞬間があるのだ。
嫌がろうが何だろうが、抱いて傷ついても構わない、と──むしろ、傷つけば自分のことを考えるだろうから、と。
それなのに、傷ついたシェラの表情を見ると罪悪感に苛まれる。
それを振り払えるほど、ヴァンツァーは思い切れなかった。
こんなことになるなら、さっさと抱いて、鎖に繋いだまま、部屋から一歩も出さなければ良かった。
今だってそう思う。
相反するふたつの感情に、胸中嵐が起こる。
やさしくしたい──けれど傷つけてでも、自分しか見ないようになればいい。
綺麗ごとだけでは、やっていられないのだ。
どうして自分だけを拒むのか、まるで分からない。
幼い頃から辛い思いをしてきたのなら尚更、シェラはこれから幸せになってもいいはずだ。
自分なら、シェラの望むものを何でも与えてやれるのに。
この手を取るなら、どんなものでも思いのままなのに。

──シェラさえいれば、どんなことでもできるのに。

「大体お前、そいつに好きだって言ったのか? お前の顔なら、男でもなびく奴はいるんじゃないか?」

椅子に座って足を組み、テーブルに肘をついてつまらなさそうにリィは口を開く。

「……」
「──ま、おれは色恋に関することはさっぱりだからな。そういうのはレティーが詳しい」

ヴァンツァーの美貌が思い切り顰められた。
聡いリィは、その変化を見逃さない。

「──あ、もしかしてお前の言っている男って、『お嬢ちゃん』か?」
「……」
「そうか、そうか。あのレティーが珍しく自分と女物の香水の匂い以外をつけてると思ったら」
「……匂い?」
「香水みたいにきついやつじゃない、ずっとやわらかくて甘い、いい匂いだった」
「……いつの話だ?」

リィは「いつだっけな?」と首を傾げた。

「ふた月くらい前かな……」
「……それで、奴は何と言っていた?」
「珍しい匂いつけてるな、ってからかったら、『人助けだ』ってさ」
「──人、助け……?」

ヴァンツァーは思い切り拳を握った。

「何か、『友達が可愛がってるお嬢ちゃんが困ってたから、助けてやった』んだってさ」
「……」

何が人助けだ。
自分の興味の赴くままに、シェラを抱いたくせに。
どんどん険しくなっていくヴァンツァーの顔を見て、リィは首をすくめた。
まずいことを言ったのか、と思い、早々に退散することに決めた。

「──じゃあ、おれの用件は済んだ。結婚の件は白紙に戻すって、伝えておくからな」

手を振ると、ベランダに駆けていって跳躍した。

「おい──」

息を呑むヴァンツァーは慌ててベランダに駆け寄り、眼下に視線を落とした。
そこには、きちんと着地し、凄まじい速度で走り去っていく金色の頭。
まさに一陣の風──否、嵐のような少女だった。

「あれが、グリンディエタ王女……」

自分の理想とする人間とはかけ離れた少女だ。
絶対に台所になど立てないし、奥ゆかしさのかけらもない。
自分の外見に拘泥はしそうもないが、そもそも色恋よりも戦場に生きることが似合いそうな少女である。

「国王の、娘……」

呟いてみて、ヴァンツァーははっとした。

「──そうか」

何でもする。
シェラが、今一度この腕の中に戻ってさえ来れば。
きっと、どんなことでも、上手くいく。


「──帰る? それはまた急な」

親友の突然の申し出に、バルロは目を丸くした。
しばらく滞在したいというナシアスのたっての頼みを断る理由はもちろんなく、バルロも忙しい政務の合間に友との何気ない会話や食事を楽しんでいた。
いい年をして女っ気のない友人をからかうのは楽しく、花街にも連れ出すのだが、どうにも反応が面白くない。
赤くなってあたふたと慌てふためくならまだしも可愛いのだが、困ったように柔和な美貌を微笑ませるだけなのだ。
自分もまだ妻を娶ってはいないからあまり煩いことは言えないのだが、やはり戦場をともに駆ける戦友には、幸せな結婚をしてもらいたいではないか。
顔は悪くないどころか、街を歩けば大半の女が振り返る端整な容貌をしているのだからもったいないことこの上ない。
──まぁ、普段は戦場では考えられないほどに穏やかで、たおやかな印象すら与えるナシアスだ。
色恋のような駆け引きに疎くても、仕方のないことなのかも知れない。
しかし、軍を率いる采配をもう少し自分のために発揮しても良いのではないか、と思うわけである。
だから、自分の屋敷に留まる間にいろいろと悪い遊びを教えてやろうと画策していたのに。
その半分ほどを消化したところで、ナシアスは自分の領地へ戻ると言い出したのだ。

「……天下のサヴォア公は忙しい身だからな。あまり長居しても申し訳ないし……」

水色の目を伏せ、紅茶のカップを口許に運ぶ。
バルロは疑わしげな顔になった。
深く、それは深くため息を吐き、大仰に肩をすくめる。

「随分としおらしいな。お前らしくもない」

そのあんまりな台詞に、ナシアスはちいさく笑った。

「……私は、そんなに遠慮知らずだと思われていたのかな……?」

バルロの表情が険しくなる。
獲物を前に、牙をむき出しにする猛獣のような。

「水臭い、と言っている。──何があった?」
「……何も」

どうしてそう思うんだい? と笑顔を浮かべるナシアス。
バルロは鼻を鳴らした。

「俺を騙すつもりなら、もっとマシな顔をしろ、この大根役者」
「はは……ひどい言われようだ……」
「だから、ひどいのはお前の顔だと言っている」

しばらくの沈黙のあと、ナシアスは控えめに口を開いた。

「……私の顔は、何かおかしいか?」

この台詞に、バルロは天を──正確には天井を仰いだ。

「どうした、ナシアス。あの銀髪の天使にでも振られたか? そういえばあれ以来見ないが。──まさか、お前どこかに隠したんじゃなかろうな?」
「────っ」

からかうような笑みを浮かべる友人の前で動揺を隠すこともできず、息を呑む金髪の美青年。
その美貌が台無しになるほど、現在の彼は青ざめている。
バルロは目を瞠った。

「おい……本当に、どうした?」
「……」

ナシアスは、無駄とは分かっていても無言で首を振った。
顔に出ていることは、自分でも分かっている。
もしかしたら、その表情の変化にこそ、気付いてもらいたかったのかも知れない──。




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