あれのためなら、何にだってなれた。

ヴァンツァーのもとを訪れた翌朝、リィは思い立って友人の家に向かった。
王女という身分のものが勝手に城を出入りすることなど、普通は不可能だ。
しかし、この王女は王宮から少し離れた離宮に暮らし、高い城壁もなんのその、な変り種なので、頻繁に王宮を抜け出す──王宮内にいる方が珍しいくらいである。
城の背後の険しい崖を登ることを体力づくりにしているほどで、そんな王女に文句の言えるつわものは、この国にはいないのである。
国王も、仕方ない、と思いつつも黙認している。
──言って聞くような王女なら、苦労はしないのである。
ということで、今日も今日とて、王女は外出を決行したのだ。

「何だ、王女さんか」

辿り着いた友人の家で目的の人物と顔を合わせた途端、開口一番そう言われた。

「何だとはご挨拶だな。せっかく来てやったのに」
「悪い悪い、ヴァッツじゃねぇのか、って思っただけだ」

リィの表情が真剣味を帯びる。

「──その黒いのの天使が行方不明って知ってるか?」
「あぁ。あんた、あいつに会ったのか? どうだい、あんたの婚約者。言った通りの美形だったろう?」

頷くレティシアに、リィは面食らった。

「会ったけど……何をそんなのんびりしてるんだ。捜索に手は貸してやってるのか?」

これには飴色の目を真ん丸にしたレティシアだ。

「何で?」
「なん……?」

リィも目をぱちくりさせている。

「だって、あいつから頼まれてねぇもん、俺」

リィの顔が苦くなる。

「頼まれなくたって、友達なら動くだろう?」
「ちょっかい出すのは好きだけど、おせっかいは嫌いなの」
「そういう問題じゃ──」
「それに、頼まれてもいないのに手を出したんじゃ、あいつまた怒るからさ」

苦笑するレティシアに、リィはピンときた。

「それは、『人助け』と関係あるのか?」
「まぁね。あいつ、怒るとダメなんだわ。全然モノが見えなくなっちまう」

眉目秀麗、清廉潔白、品行方正、文武両道、頭はキレるし、判断力も抜群の青年の、ほとんど唯一の欠点なのだ、とレティシアは言う。

「ただ、そこを通り越すと、ね」
「通り越す?」
「そ。怒った状態を通り越すと、あいつ無敵になるんだ」

リィはおかしそうに笑った。

「無敵? なんか、物語の英雄みたいだな」

レティシアは珍しく真面目な顔で頷いた。

「まさに。たぶんあんたも驚くぜ」
「──強いのか?」

自分が見た青年は自信なさげで弱々しくて、指一本でも倒せそうな雰囲気だった。

「強いね。俺も勝てる気しねぇし」
「そんなにか?!」

緑の目が零れ落ちそうになっている。
レティシアはどこか遠くを見るような目で微笑んだ。

「……だから、待ってるんだよ」


ヴァンツァーは、予定通り『市』へ向かおうとしていた。
猥雑な雰囲気を思い出すだけで、気が重くなる。
深まってきた秋の冷たい風が、余計にそうさせるのかも知れない。
『市』でシェラを買ったときを思い出す。
真冬だというのに薄い布一枚しか身に纏わず、寒さと飢えで顔色が悪かった。

「……」

また、あのような状態に戻っていなければいいのだが。
絹のように艶やかになった銀髪は、無残に切られてしまっていた。
僅かに残っていた髪は、常に懐に忍ばせている。
その凶刃が、シェラ自身に向けられていないことを祈るばかりだ。

「ヴァンツァー殿」

貴族の郭を抜けようかというところで、低く張りのある男の声に呼び止められた。

「……サヴォア公爵」

背後を振り返ったヴァンツァーは、軽く頭を下げた。

「先日は私用で突然伺ってしまい、申し訳ありませんでした……」
「いやいや、構いませんよ。留守でもてなすこともできず、こちらこそ失礼した」

ヴァンツァーは首を振った。
あの場にいられては逆に困っていただろうから好都合だった。

「ところでヴァンツァー殿。ひとつ、お伺いしたいことがあるのだが」

構わないだろうか、というバルロに、ヴァンツァーは先を促した。

「貴公の家には、銀髪の天使がいるかと思うのだが」
「なぜ、それを……?」

ヴァンツァーの表情が険しくなったのを見て、バルロは内心驚いた。
そう言葉を交わしたことがあるわけでもないが、この青年が表情を動かすところなど、ほとんど見たことがなかったからだ。

「いや……以前、ナシアスが当家に連れてきたことがあったのでな」

自分の友の名にも顔を顰めるのを見て、バルロは困惑した。
言おうかどうしようか迷ったが、自分から声を掛けたのだから礼儀を逸するわけにはいかない、と言葉を続けた。

「その天使、今はどうしているかと気になってな」
「……気になる、と?」

ますます美貌を険しくするヴァンツァー。
またか、と思う。
公爵という地位にあるものすら、シェラの美しさに心を奪われるのか、と。
サヴォア公爵は軍人としても政治家としても大層な実力者だが、同時に数々の浮名を流す人物でもある。
遊びも派手にやるのだ。
特に、その端整な容貌と立派な体躯、おまけに魅力的な声音でもって、女性の心を掴んで放さない──むろん、彼の身分や地位もそれに拍車を掛けているのだろうが。
そこらの女よりも余程美しくしとやかなシェラに、興味を持ったのかも知れない。
サヴォア公爵とシェラを引き合わせたのがナシアスだというのも、また気に入らない。
バルロは苦い顔で、理由を話した。

「どうもナシアスの様子がおかしいのだ」

ヴァンツァーは鼻で笑った。
別にあの男がおかしかろうが何だろうが、自分には関係ない。

「そのナシアス殿の様子とシェラと、どのような関係が?」

ひどく冷たい目をしている、と自分でも分かる。
だいたい、あの男はひと目会ったときから気に入らないのだ。

「俺が冗談のつもりで『天使を隠したんじゃなかろうな』と言ったら、青い顔になってな」

ピクリ、と反応するヴァンツァー。

「……隠す……?」
「うむ。あの天使を連れてきたときに美しいと褒めたのだ。それ以来連れてこないから、俺に取られると思って会わせたくないのか、とからかうつもりで言ったのだが……」
「動揺している、と……?」

頷くバルロ。

「しかも、急に自分の領土に帰ると言い出してな。まったく、意味が分からん」

だから天使はどうしているか気になった、と言うバルロに、ヴァンツァーは険しい顔のまま言った。

「……本当に、あなたのご友人が隠したのかも知れませんね……」

もしそれが事実だとしたら。

「やさしげな顔で、随分と隠し事がお得意なようだ……」

その命で贖ってもらおう、とヴァンツァーは奥歯を噛み締めた。


──夢を、見た。

とても、幸福な夢。
あの人の腕に包まれて、間近にその笑顔を見ている、幸福な。
でも……やはりそれは夢でしかなくて……目を開ければ、暗い地下牢。
目の前には太く無機質な形状の鉄格子がある。
ここへ来てすぐの頃は、その鉄の棒を見るだけで涙が込み上げてきた。
あの館の中ならば、鉄格子も、自由を奪う鎖も、あの人が与えてくれる自分のためのものだった。
ただ罪人を閉じ込め、苦痛を与えるためのこの場所とは違う。

「早く……」

誰かがこの命を絶ってくれればいい。
きっともうあの人は自分のことなど忘れているだろうけれど、それでも。
自分は、目を閉じればまだあの人を思い出してしまうから。
だから──。

「……はやく……」

寒さと飢えと、繰り返される蹂躙。
もう、身体も反応しない。
誰に触れられても、どんな荒っぽい抱き方をされても、苦痛すら感じない。
風呂にも入らず、時折思い出したように桶に汲んだ水を掛けられるだけ。
地下牢のかびや埃、何人もの男の体液にまみれた自分はひどい臭気を放っているだろうけれど、そんなものも分からない。
それでも、この地下牢へ人が来る気配というものは、不思議と感じ取れるのだ。
今回は、ふたり。
しかし、いつもと違い足音がしない。
公爵はともかく、彼が連れてくる男たちは靴音か裸足であるく音はさせるものなのだが。

「……」

すぐに、そんなことはどうでもいい、と思うシェラ。
どうせ、待っているのは同じ行為。
誰でも、同じ。
やがて視界の端に人影が見え──シェラは、息を呑んだ。
公爵の後ろにつき従うようについてきた男、それは──。

「ナシアス、さま……?」

昨今こんなに表情を動かしたことはない、というくらい、紫の瞳は限界まで見開かれている。

「なぜ……ここに?」

水もほとんど与えられなかったために掠れたままの声。
シェラのちいさな問いかけには応えず、無言でいるナシアス。
人違いではない。
間違えるはずがない。
照明などほとんどなくとも分かるほどに顔色は悪く、俯いたままシェラを見ようとしない。
それでも、それはナシアスだ。
自分に、初めてやさしくしてくれた主人。
茫然としているシェラの前で、ファロット公爵はナシアスの肩にそっと手を置いた。

「さぁ、ナシアス。ご覧?」

語りかける公爵の表情は、思いの外やわらかい──その、凍える灰色の視線を除いては。
甘ったるいくらいの口調と、明らかに初対面ではあり得ない、むしろ親密な雰囲気のあるふたりの様子に、シェラは困惑した。
ナシアスは、公爵に声を掛けられても無言のまま。

「──仕方のない子だ」

ため息を吐く美貌の公爵。

「では、選びなさい」

ナシアスがゆるゆるとその美しく、しかし悄然とした顔を公爵に向ける。

「この奴隷を抱くのと、この奴隷の前で私に抱かれるのと、どちらがいい?」

ナシアスだけでなく、シェラも瞠目した。
金髪の青年に向けられる公爵の表情があまりにもやさしげだから、何かの聞き間違いかとも思ってしまう。
しかし、この公爵は戯れでそんなことを口にしない。
口を開くことそのものも、意味があるからこそする男だ。

「……それは……」

それだけはお許し下さい、と悲愴な表情で訴えるナシアス。
声は震え、身体は戦慄いている。
それだけのことを口にするのも、拳を握り締め、全身に力を入れないと不可能なのである。
公爵は、無情にも首を振った。
ナシアスに憐憫にも近い眼を向ける。

「そうでもしないと、お前はまた私を裏切る」
「──裏切ってなど……」
「せっかく捨ててやったこの奴隷に、また情けを掛けようとしたな」
「……」
「私は、お前に何と言った?」
「……」
「即刻ヴァンツァーと引き離し、今度はお前の手で処分しろ、と。そうは言わなかったか?」

怜悧な美貌に微笑みが浮かぶ。

「──誰が、自分の手元に引き取れと言った」

きつくナシアスの顎を掴み、無理やり視線を合わさせる。

「なぜ、それを……?」

水色の瞳が、恐怖に染まる。

「まさか──」

いかなファロット公爵とて、サヴォア公爵家にまで配下のものを忍び込ませられるわけがない。
そう思っていたのに。

「お前は本当に、愚かで可愛い」

やさしく、触れるだけの接吻をする公爵。
ナシアスは真っ青な唇を噛んだ。

「──噛むな。お前は髪の毛一本だとて私のものなのだから」

勝手に傷をつけることは許さない、と灰色の瞳でナシアスの目を射抜く。
返事もしないナシアスの唇に、公爵は舌を這わせた。
ちいさく震えるナシアスの肩。

「どうした?──こういうときはどうするか、教えたろう?」

耳元でささやき、耳朶を舐める。

「──……っ」

細い息が漏れる。
寄せられた眉は切なげで、それが嫌悪でないことを本人も、また半ば放心してふたりを凝視しているシェラも知っていた。

「さぁ。好きな方を選びなさい。お前の、自由にさせてあげよう」

傲慢に微笑み、ナシアスの頬を軽く撫で上げる。
それだけの刺激で僅かながらも喘ぐように、ナシアスの身体は公爵の意のままに組み上げられている。

「どうする……?」

まるで慈愛に満ちた神父のような表情を、その端麗な顔に乗せる。
灰色の瞳は、悲しげにすら見える。

「私はどちらでも構わないよ。お前に抱かれれば、あの奴隷も何らかの反応を返すようになるだろう。最近見ていても楽しくないのでね。──それに、ヴァンツァーのことも思い出さなくなろう」

固まっていたシェラの肩が、唯一絶対の名に反応する。

「お前が私に抱かれるところを見れば、お前が誰のものか今度こそ理解するだろう。……奴隷の分際で、私のものにことごとく色目を使うとは」

シェラは首を振った。

「私は──」
「黙れ。誰が発言を許した」
「……」

支配することに慣れた声音に、シェラは思わず押し黙った。

「ナシアスもヴァンツァーも、情けが深い。憐憫を愛情と錯覚したか」

吐き捨てるような口調と射殺すかのような眼光に、シェラは耐えられずに俯いた。

「……」

ナシアスは公爵に気取られぬよう、細く息を吐いた。
公爵はああ言っているが、どちらを選んでも、それは自分に思い知らせるための行為に他ならない。
自分が、公爵のものである、と。
幼いシェラを手放したときもそう。
すべて、自分の心が公爵ひとりに向かうように仕向けるため。
ちらり、とシェラに視線を移す。
布一枚纏わぬ、細い裸体。
首と両手を鎖に繋がれ、立ち上がることすら叶わない。
太腿や腹部にこびりついた体液は拭われることもなく、あちこちに赤紫の鬱血。
天使のような美貌は憔悴し切っていて、あの青年とともにいたときの名残もない。
食事や衛生面はもとより、精神的な苦痛が大きくものを言っている。
──その責任の一端は、自分にあるのだ。
ナシアスは、水色の瞳を公爵に向けた。

「……どうか、お情けを……」

震えないように気をつけながら、消え入りそうな声で呟く。
公爵は満足気に形の良い唇を持ち上げた。

「よく、言えた」

褒めるように、濃厚な口づけを与える。
シェラを抱いたときには、決して口づけようとはしなかった公爵。
その意味を、シェラは今悟った。

「──ナシアス様!」

声の限り叫ぶシェラ。
暴れれば、鎖が耳障りな音を立て、首や手首の皮が引き攣れる。
その痛みによってもたらされたのとは違う涙を流しながら、シェラはかつての主人の名を呼び続けた。

──公爵に抱かれるナシアスの漏らす、密やかな吐息を掻き消すように。




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