あの人に愛されたいなんて、考えていない。

きっと、すべて自分がいけないのだ。
自分がいるから、やさしい主人ふたりともに迷惑を掛ける。
ふたりとも貴族で、自分から見たら天上の人。
しかし、それを鼻に掛けない、稀有な人たちなのに。
どんなものでも手に入れられる人たちなのに、自分のせいで多くのものを失くそうとしている。

「もう……いい……」

枷を嵌められたまま、シェラは呟いた。

「……もう、たくさん……」

人でもないのに、高貴な人間に好意を抱いてしまったから、罰が当たったのだ。
自分が好きになった人は、きっと自分のせいで何かを失くすようになっているのだ。
──そういう運命。
あのふたりにだけは、幸せになってもらいたいのに。

「──何て、偉そう……」

シェラは自嘲した。
誰かにどうにかなって欲しいと思うことすら、自分には許されていない。
許されているのは、ただ受け入れることのみ。
それが望ましいことかどうかなど、瑣末なことなのだ。
だから──。

「早く、終わらせて……」

舌を噛んで死ねればいいのに、どういうわけかそれができない。
物理的には可能なのだ。
両手が拘束されていようとも、舌を噛むことはできる。
できるはずなのに、できない。
理由など知らない。
とにかく、できないのだから。

「誰か……誰でもいいから、早く……」

自分さえいなくなれば、ヴァンツァーもナシアスも、幸せになれるのだ。

──でも、 どうせなら……。

「……あの人の手で……」

天国に行けるだなんて、端から期待していない。
そんなものがあるとも思っていない。
神様なんて、きっといない。
もしそんなものが存在するのだとしたら──。

「あの人の、腕の中で……」

夢見るように、うっとりと呟く。
本当に、夢だから。
もう、あの人には会えないから。

『──シェラ』

思い出す。
やさしく呼んでくれる低くて甘い声。
髪を梳き、頬に触れる手のあたたかさ。
真っ直ぐに目を見てくれる瞳の強さ。
それから──。

「……良かった……」

ポツリ、とちいさく唇を動かす。
ほとんど吐息で紡がれた言葉。
だからだろうか、少し、濡れている。

「あの人以外の誰も……」

触れるだけだったり、軽く吸い上げるようだったり。
奪われるような激しさはなく、だからこそ、他人に蹂躙されればすぐに忘れてしまいそうで怖かった。

「良かった……」

潤んだ瞳で微笑むシェラの嬉しそうな呟きは、誰もいない地下の壁に反響した。

『シェラ』

「……はい」

瞳を閉じ、記憶の中の声に返事をする。
そうすれば、光に溢れた、あの人との生活が思い出される。
周囲の景色さえ、塗り替えられるよう。
暗くて冷たい地下牢ではなく、採光の良い、一流の職人があつらえた調度に囲まれた部屋に。
感じる視線に振り返れば、思わず見惚れてしまいそうになる美貌がある。
やさしいまなざしも、きつい視線も、どちらも違うことなくしっかりと自分を見つめてくれる。

『……シェラ』

陽だまりのようにやわらかく、ときに吹雪のように冷たく、また嵐のように激しく、自分の名を呼ぶあの人。

「はい……」

「────シェラ!」

「は……い?」

記憶から引き出した声にしてはあまりにも鮮やかで、シェラは思わず瞼を持ち上げた。
誰もいない、もう見飽きてしまった牢獄があるだけ。
シェラはふっと笑った。

「……ばかだなぁ……」

二度と聞くことのできない声。
聴いてはいけないけれど、もう一度聴きたい声だ。
会いたくないのに、どうしても会いたい。
そんな気持ちが、幻聴を現実と思わせてしまったのだろう。
しかし──。

「シェラ! どこにいる!」

今度こそ、紫の目を瞠る。

「……うそ」

岩壁に反響する声が、自分を呼ぶ。
足音は聞こえないけれど、声は近付いてくる。

「うそ……」

涙ながらに呟くシェラ。
視界は滲んで、何も見えない。
それでも、自分を呼び続ける声は途切れることなく耳に届く。
あの人が、ここに。
聴きたかった声を、聴くことができた。
おそらく、すぐにあの美しい人が目の前にやってくる。
もう、声は、すぐそこに。

「──っ……、シェラ……」

一瞬息を呑む気配と、愕然とした声音。
流す涙で姿は見えなくとも、間違えるわけがなかった。
誰よりも、何よりも大切な人のことを、分からなくなるはずがない。
だから、シェラは唇を噛み締めて嗚咽を堪え、きつく目を閉じてから口を開いた。

「……あなたの、せい……」

声が震えてしまい、一度口をつぐむ。

「シェラ……?」

牢の前、ヴァンツァーが鍵の束からこの牢を開くことのできるものを見つけようとする手を止めるのが分かった。
深く息を吸い込むシェラ。

「……あなたのせい。あなたのせいで、私はこんな目に……」
「──……っ、……すまな──」
「謝ったりしないで」
「……」
「……早く、どこかへ行って」
「シェラ」
「──呼ばないで」
「……」
「早く、行ってよ……あなたの顔なんて、……見たく、ないんだから……」

──痛い。

「早く……」

初めて、この人を偽ろうとしている。
この人に嘘を吐くことは、こんなにも苦しい。

「……二度と……」

これ以上、言葉を紡げない。
これ以上は、たとえひとかけらだろうと、この人を騙せない。

「──お嬢ちゃん?」

不思議そうな、もうひとり別の男の声。

「──レティシア様……?」

シェラはほっとするのを感じた。
だから、微笑んでレティシアに告げた。

「お願いします……その人を、どこかへ連れて行って下さい」
「──っ、シェラ」
「呼ばないで!」

キッ、とヴァンツァーを睨みつけるシェラ。

「レティシア様、早く」

一糸纏わぬ姿、両手と首とを拘束されたまま、シェラは必死な面持ちで懇願した。
レティシアはしばらく無言でシェラを見つめたあと、ヴァンツァーに顔を向けた。

「──出てろ、ヴァッツ」
「貴様!」
「いいから、出てろ」
「……」

レティシアが見たこともないくらいに真剣な表情をしていて、ヴァンツァーは思わず押し黙った。
何に対してだかは分からないが、レティシアは激怒している。
付き合いの長い自分も、ここまで不快感と怒りを表に出すレティシアは見たことがなかった。

「……分かった」

あと一瞬でも躊躇っていたら、その場に叩き伏せられていただろう。
昏倒させられて、気付いたら自分の部屋──そうなっていたに違いない。

「レティシア」
「あぁ」

その後ふたりが交わしたやりとりはそれだけ。
だが、ヴァンツァーにとってはそれで十分だった。
レティシアは牢からシェラを連れ出し、自分のもとへ無事に届ける。
確実に、だ。
それが分からなければ、ヴァンツァーは決して引いたりしない。
信用とは違うのかも知れない。
ただ、知っているだけ。
自分が頼ったのだから、レティシアは絶対にそれを違えたりしない。
一度は切り捨てようとした男だ。
今でも、シェラにした仕打ちを忘れているわけではないし、許したりもしない。
それでも、この男は剣の腕と同じく、医術に関しても超一流だ。
シェラの姿を見れば、どんな目に遭っていたか分かる。
自分の顔など見たくないのも、納得できなくとも理解することはできる。
だから、これ以上シェラに負担を掛けずにこの場から連れ出すには、レティシアが適任なのだ。
それを、自分は知っているだけ。

「……」

一度だけシェラに視線を移し、ヴァンツァーは来たときと同じく、足音ひとつさせないで離れていった。


バルロにナシアスの自宅の場所を聞いたヴァンツァーは、礼を言うとその場を辞そうとした。

「ヴァンツァー殿」

今は一刻一秒が惜しいのだが、目上の公爵を無視するわけにもいかずにヴァンツァーは振り返った。

「何か?」
「……もし、本当にナシアスがあの天使をかどわかしたのだとしたら……」

人に頭を下げることも、弱気になることもまずないと言っても過言でないサヴォア公爵が、幾分言いづらそうに言葉を紡ぐ。
ヴァンツァーは、断罪するように厳かな口調で言った。

「──申し訳ないが、いかなあなたのご友人でもこればかりは見逃すつもりはない」

腰の剣に手を掛けて見せる。
それが何を意味するのかなど、分かりきったことだ。
だからバルロは首を振った。

「そこを、譲っていただきたい」
「サヴォア公──」
「頼む」

軽く、とはいえバルロが頭を下げたので、ヴァンツァーはぎょっとした。

「……もし、あの馬鹿がそんなことをしていたら……そのときは、俺が」

騎士としての誇りを自分に語って聞かせたあの友が、そんな愚行に及んでいるとしたならば。
爵位は持たずとも、何よりも騎士としての自身を誇っていたナシアスだ。
その誇りと名誉を地に落とすような真似を、本当にしていたとしたならば。

「……俺に、ナシアスの首を預けて欲しい」

ギリッ、と歯噛みし、バルロは呻くように声を発した。
ヴァンツァーは、固く拳を握って頭を下げたままでいるバルロをじっと見つめ、胸の中の空気を搾り出すようにして息を吐いた。

「──……分かりました。お約束しましょう」

その言葉に、やっとバルロが頭を上げる。

「かたじけない……」

目礼するバルロに今度こそ別れを告げると、ヴァンツァーは来た道を戻った。

「あれ、黒いのじゃないか」

向かったレティシアの家には、金髪の美少女がいた。
少年と言っても疑われないくらい、『女』を感じさせない王女だ。
そういった意味では、ヴァンツァーにとって好ましい婚約者と言えた。

「……王女におかれましては、ご機嫌麗しく──」
「ああ、やめやめ! おれそういう堅苦しいの大嫌いなんだ」
「……」

ひらひらと、嫌そうに顔を顰めて手を振るリィ。
ヴァンツァーは嘆息した。
どうも、この王女は苦手なのだ。

「……レティシアは?」
「レティーなら」

リィが告げようとしたまさにそのとき、この屋敷の主人が現れた。
いつもと変わらず、粗野だが屈託のない笑みを浮かべて。

「よぉ。──ちょっと明るくなったな」
「……なに?」
「顔色。お嬢ちゃんについて、何か分かったのか?」
「……」

頭の良い人間は好きだ。
話が早くて助かる。
しかし、聡い人間は苦手だ──自分の内心すべてを、見透かされている気分になる。

「見つかったのか?」

リィの言葉に、ヴァンツァーは首を振った。

「いえ……ただ、知っていそうな人間の居場所は分かりました」
「どこだい?」
「ボナリス。ナシアス・ジャンペールという男だ」

レティシアはきょとんとした顔になる。

「あ? だってそいつ俺の次にあたったんだろ?」
「……とんだ狸だったのかも知れんな」

レティシアは吹き出した。

「お前に言われるなら、本物だな」
「……人聞きの悪い」

男ふたりのやりとりに、ここにいる中で一番の貴人が憤慨した。

「おい! 居場所が分かっているなら、とっとと行けばいいだろうが!」
「……」

ヴァンツァーは、リィを見たあとレティシアに視線を移した。

「レティー」
「あいよ」
「……お前なんかと付き合っているから、この王女はこうなのか?」

いくらか躊躇ったとはいえあんまりな言いように、レティシアは爆笑した。
ヒィヒィ言って腹を抱えている男に、ヴァンツァーは「行くぞ」と告げて踵を返した。

「──あれ。俺も連れて行ってくれるわけ?」
「……何かあったときのために、医者が必要なだけだ」
「だから、俺でいいんだ?」

にやりと笑う男を振り返り、ヴァンツァーは顔色ひとつ変えずに淡々と言った。

「お前より腕の良い医者を、俺は知らない」
「……」

レティシアは猫のような眼をきらりと光らせ、にっと口端を吊り上げた。

「なぁんでかな。お前に褒められるのって、すげー気分いいんだよな」

大きく伸びをすると、レティシアは愛用の剣と薬箱を用意した。

「おれも行くぞ」

当然のように聞こえてきた少女の声に、男ふたりはピタリと足を止めた。

「……なぜです?」

ヴァンツァーが、慎重に口を開く。
そうは見えなくとも、相手は一国の王女だ。
粗雑な扱いをすることはできない。
先を急ぎたい今胸中複雑なヴァンツァーに、リィは実に生真面目な顔でこう言ったのだ。

「気になるだろう?──元・婚約者の、恋人の顔がさ」

当然の権利だ、と言わんばかりの口調にヴァンツァーは呆れ、レティシアは楽しそうに笑った──。  




NEXT

ページトップボタン