あの人の傍にいることも、諦めた。

覚醒する意識に逆らわず、目を開く。

「……ここ……」

この天井を、自分は知っている。
正確には天井ではなく天蓋。
ひと月も暮らした館だ、見慣れていて当然。
やわらかく身を包んでくれる寝具は綺麗に整えられていて、誰がそれをしたのかを思うと心苦しい。
やわらかくゆったりとした夜着を身につけているが、これもあの人がしたのだろうか──いや、傷の手当てをしてあるようだから、レティシアなのかも知れない。

「……」

ゆっくりと首を傾ける。
寝台からの景色も何ひとつ変わっておらず、たった一週間か十日牢に繋がれただけなのに、目頭が熱くなる程に安堵している自分がいる。

──そんな感情を抱いては、いけないのに。

一刻も早くこの館から抜け出し、どこかへ行かなければ。
あの人のもとから、離れなければ。

「ここは……ダメ……」

居心地が良すぎて、動きたくなくなってしまう。
──と、扉を軽くノックする音。
ビクリ、と肩を震わせ、じっと扉を見つめる。
返事をしようにも、喉が閉まって声が出せない。
身を硬くして凝視した扉の奥から現れたのは、見たこともないほどの美少女だった。

「あれ、起きたのか」

日の光を集めたかのような金髪に、極上のエメラルドにも勝る力強い瞳、滑らかな白磁の肌。

「……女神、様……」

思わず呟く。
服装は少年のようだが、もし神がこの世にいるのだとしたら、きっとこんな姿をしているに違いない。
腰にはその細腕に扱えるのか不思議なほどの大剣が下げられているが、それがまたしっくりと馴染んでいる。
戦場に輝ける、太陽の女神。

「大丈夫か?」

スタスタと物音ひとつさせず寝台に足を向ける美少女。
すぐ枕元に立った少女は本当に美しくて、シェラは息をするのも忘れて見つめていた。
自分を見下ろす視線がひどく心配そうで、どうしてそんな表情をしているのか不思議になる。

「どこか痛いところとか……って、あちこちか……。レティーも、あれで十分手加減したんだろうけどな……」

馬鹿なことを訊いた、と謝罪され、シェラは紫の目を真ん丸にした。

「女神様に、頭を下げていただくことなど……」

本気でそう言って起き上がろうとしたのだが、頭上の美少女はシェラの肩を寝台に留めた。
まったく力を入れているように見えないのに、寝具に縫い付けられたよう。
女神の魔法だろうか。

「おれは女神なんかじゃないし、今は自分の身体のことだけ考えろ」
「……女神様……」
「だから……」

少女は苦笑して名乗った。

「おれはリィだ」
「リィ、様」
「様なんていらないよ」
「ですが……私は奴隷ですし……」
「シェラ」

呼ばれてシェラは驚いた。

「どうして……」
「おれは黒いのとレティーの知り合いだからさ」
「黒いの……?」
「ヴァンツァー・ファロット」

名前を聞いただけで、大きく肩が跳ねる。
澄んだ紫の瞳は落ち着きなく揺れ、顔色も悪くなっていた。

「お前の恋人だろう?」

首を傾げてのリィの言に、シェラは飛び上がって今度こそ起き上がった。

「何を──そん……とん……」

混乱してしまって、きちんとした言葉を喋ることもできない。
だってあの人は公爵になることが決まっている大貴族で、綺麗で、強くて、やさしくて、それに──。

「王女様とのご結婚が決まってらっしゃいます!」

あの人は、幸せになることが約束されているのだ。

「しないぞ?」
「……はい?」
「あいつと結婚なんて、しないって」

冗談じゃない、とでも言いたげな様子に、シェラはきょとんとして首を傾げた。
どうしてそんな。

「リィ様……?」

まるで、自分のことのように……。

「ふたりで話して、婚約解消したからな」

果たしてあれが『話し合い』と呼べたかはともかくとして、シェラは愕然としていた。

「……王女、様……?」

無意識に指差しそうになり、はっとして寝台を飛び降りようとした。

「だから、寝てろって」

また寝具に押し付けられ、シェラは跳ね起きて寝台の上で平伏した。

「──い、いい、いけませ──申し訳ありません!!」
「はぁ?」
「王女様とは知らず、数々のご無礼!」
「……何だそりゃ」

呆れて眉を上げ、肩をすくめるリィ。

「……ど、どうしましょう……私……」

見上げてくる紫の瞳は涙でいっぱいで、リィはひどく罪悪感に駆られた。
少年なのは分かっているが、どうにも美少女にしか見えないシェラは彼女の庇護欲をそそるのだ。
二、三度瞬きしたあと、リィはガバッ、とシェラに抱きついた。

「──え……えぇ?!」

あたふたとするシェラなどお構いなしに、リィは銀色の頭を撫でまわした──掻き回した、というのが正しいか。
真っ直ぐな短い銀の髪がグシャグシャになったくらいだ。

「あ、あの……王女様……お召し物が汚れます……」

自分のような奴隷に、王女が触れるなど。
青いくらいの顔でシェラは王女の身体を押し返した。
抵抗せずに身体を離した王女は、シェラの肩に手を置いてこう言った。

「──可愛いなぁ、お前」

鮮やかな緑の瞳はきらきらと輝き、頬は紅潮している。
もう一度むぎゅっ、と抱きついてきた王女を無下に扱うわけにもいかず、シェラは泣きそうな顔で困惑していた。
そこへ、扉を開けて入ってきた男がひとり。

「……王女、何をしている……」

低い声を更に低めた、この館とシェラの──。

「ご主人様……」

抱擁を交わす一見美少女のふたりも、目の保養にならないようである。

「固いこと言うなよ、黒いの。心の狭い男は嫌われるぞ?」
「……人が気にしていることを……」

手にした籠を握り締める。
ボソッ、と呟かれた言葉は、シェラには聞こえなかった。

「自覚があるなら直せ」

しかし、リィの耳には届いたようである。

「……」

明るい部屋の中で見るヴァンツァーは、やはり美しくて、シェラは視界が滲むのを感じて顔を逸らした。
ヴァンツァーは短くなってしまった銀髪の主を痛ましげに見つめ、僅かに躊躇ったあと口を開いた。

「シェラ、具合は──」
「出ていって……」
「……シェラ」
「いや!」

悲鳴のような声を上げ、リィの身体に縋るようにしてしがみつく。
ヴァンツァーは呪縛されたようにその場を動けなくなった。
それでも、向けられた背中が自分を拒絶しているのだけは分かって、ヴァンツァーは籠の持ち手が折れるくらいに握り締め、眉間に皺を寄せて俯いた。
奥歯を噛み締め、しばらく息を止めていたが、ゆっくり息を吐き出し瞬きすると籠を手近なテーブルに置いた。
扉に向かい、寝台に背を向けたままで口を開いた。

「王女……それを、食べさせてやってくれ」

それだけ言い残し、ヴァンツァーは部屋を出て行った。
無言でそれを見送ったリィは、震えるシェラの肩を撫でてやりながら、努めてやさしく話しかけた。

「シェラ……黒いのは、お前のことものすごく心配して……」

しかしリィは口をつぐんだ。
シェラを、責めることはできないのだ。
どんなことがあったのか、その姿を見たレティシアが推測した内容は聞いて知っている。
腸が煮えくり返りそうなのは、ヴァンツァーだけではない。
リィだとて、ほとんど初対面のシェラを地下牢に繋いだ人間に、どうにかして制裁を加えてやりたいと思う程だ。
シェラもそう思っているかも知れないし、もしかしたら男という存在を恐ろしく思っているのかも知れない。
自分にはシェラの考えていることは分からないが、無理に聞きだせばシェラの負担になるということだけは分かる。

「……」

声を我慢して泣き出したシェラの頭を撫でてやることしか、リィにはできなかった。


ナシアスの屋敷に到着すると、ヴァンツァーは外にレティシアとリィを待たせ、ひとりで会うことを決めた。
リィはナシアスと面識はないと言っていたが、王女などがいては話が進まない可能性がある。

「シェラはどこだ」

開口一番、ヴァンツァーはそう言った。
一切の偽りを許さない藍色の瞳。
その瞳の強さと冷たさに、ナシアスは自分の絶対主を重ねた。
外見的に似ているところなどひとつもないというのに、凍えるような支配力は瓜ふたつ。
背筋の震える思いがしながらも、ナシアスは柔和な顔に微笑を浮かべてみせた。

「……以前にも、答えなかったかい?」

目を逸らしたいのに、それを相手が許さない。
ヴァンツァーはじっと相手の水色の瞳の奥を覗いている。

「シェラは、たとえ自分の意思で俺のもとを離れるのだとしても、黙っていなくなったりはしない──違うな。できないんだ」

よくよく考えてみれば、この男の言っていたことはおかしなことだらけだ。
目も、合わせようとしなかった。

「お前の言うように、奴隷としての自分をわきまえているのだとすれば尚更。主人の意を伺わずに行動することはできない」

心臓を鷲掴みにされた気分になるナシアス。
その通り。
自分もそれを知っている。

「それに……」
「……それに?」
「あれは俺に約束した。……もう、どこにも行こうとしない、と……」
「……」
「その言葉を、信じたい……」

信じている、とは言えない。
そんな自分を嫌悪している。

「──きっと……信じてもらえないことが、一番辛い……」

だから、シェラの意思で自分のもとを離れたのはでないのだ、と思いたい。
あの館で過ごした時間は、穏やかだったのだから。

「……」

しばらく沈黙が横たわる。
どれくらいそうしていただろうか。
ナシアスは意を決して口を開いた。

「……地下牢だよ」
「牢……?」

ヴァンツァーの瞳が、研ぎ澄まされた真剣のようになる。

「ここじゃないけれど、ね……」
「どこだ」
「……ファロット公爵家」
「な──?!」
「君のお父上の館の地下に……」
「馬鹿な!」

ナシアスは自嘲の笑みを浮かべた。

「……本当にね。私が愚かなばかりに……」

自分のせいで、シェラは傷つき続けている。

「……嘘では、ないだろうな……?」
「あの方を裏切るのだから、更に偽りを重ねても仕方ないよ……」
「お前は……」
「先に、私を斬るかい?」

もう覚悟を決めているのだろうか。
寂しげではあるが、穏やかな表情をしている。

「──……いや。お前の命は、サヴォア公爵に預けた」

ナシアスの顔色が変わる。

「──バルロに?!」
「もし本当にお前がシェラをかどわかしたなら、自分にその命を預けて欲しい、と頭を下げられた」
「……まさか」

乾いた声。
信じられない。
バルロは、誰よりも自尊心の強い男だ。
自分が認めない相手には、頑として謙らない。
また、そうする必要もない身分と地位にある。

「バルロが、そんな……」
「疑うなら、本人に訊け」

そう告げてヴァンツァーは屋敷を辞し、待っていたふたりに行き先を告げることもなく馬に跨った。
首を傾げながらも、リィとレティシアはそのあとを追ったのである。


ヴァンツァーは思い切り壁を殴った。
そんなことで気分が晴れるわけではないけれど、やり場のない感情が溢れて止まらないのだ。

──あんなに近くにいたのに……もっと早くに、助けに行けたのに。

下手に虚勢を張って、家の力を使うことを躊躇ったから。
レティシアに言われたときに、どんなに嫌でも父の前に出向いていれば。

「……父でなど、あるものか……っ!」

もう一度、拳を突き立てる。

「おーおー、荒れてるねぇ」

横手から聞こえる軽い口調の言葉。
それが誰かなど、確認するまでもない。

「部屋追い出されちゃって、しかも元・婚約者の王女様に自分の位置取られちゃったわけだ」
「……」

きついまなざしが余計に冷たく、鋭くなる。
あと一言でもレティシアが喋れば、腰の剣を抜いて飛び掛っていくに違いない。

「──熱くなるなよ。お前の悪い癖だ」

肩をすくめるレティシア。

「そうやって視野狭くして判断力鈍らせるから、お前はお嬢ちゃんの気持ちが分からねぇんだよ」

迷子の子どもじゃあるまいし、と苦笑するレティシア。

「……シェラの気持ち、だと?」

鼻を鳴らしたヴァンツァーだ。

「お前に何が分かる」

忌々しいあの男と同じで、この男もシェラのことを分かっているようなことを言う。
まるで、自分だけが何も知らないのだと言いたげではないか。

「別に何でもかんでも分かるわけじゃねぇけどよ」

壁に背を預け、レティシアは腕を組んだ。

「──あいつはお前を絶対に裏切らない。嘘も吐かない。それだけは、分かる」

レティシアはヴァンツァーに言った。
おそらく、嘘を吐いた──吐こうとしたのは、あの牢獄での一度きり。

「お前があの屋敷にお嬢ちゃんを置いておけば、こんなことにはならなかったんだぜ?」
「……お前が、言うな」

底冷えのするような凍えるまなざし。
すべての元凶はこの男だ。
この男が、シェラを抱いたりしなければ。
レティシアは呆れたように眉を上げた。

「お前、俺がお嬢ちゃんに惚れてるとか、お前から取ろうとしてるとか、馬鹿なこと考えてねぇか?」
「……」

やっぱりな、という風にため息を吐く。

「あのさ。お前、お嬢ちゃんにベタベタ触ったりしてただろ?」
「だったら何だ」
「だからだよ」
「……意味が分からん」
「お嬢ちゃんは、お前に欲情したんだ」

藍色の目が瞠られる。

「……なに?」
「お前に触られて、抱かれたくなっちまったんだよ」
「そんなわけない。あれは──」
「顔見りゃ分かんだろうが」

答えないヴァンツァーに、レティシアは大袈裟に肩をすくめた。

「あーあー、すいません、訊いた俺が馬鹿でした。────これだから、女遊びも知らない潔癖君は」
「……俺に触られるのも、嫌がっていたんだ……」
「自分は奴隷だ。薄汚い自分なんかを抱いたら、大切な主人の身体まで穢れちまう」
「……」

それは、シェラが言ったことだ。
詭弁だ、と自分が打ち消した言葉。

「だから、どうなってもいい俺を選んだんだ。──お前のことだけが、大事だから」

ま、誘ったのは俺だけどね、と笑うレティシア。

「貴様……」
「だからさ、顔だよ顔。顔に出てたの。『今すぐ私を抱いて下さい』みたいな顔してるお嬢ちゃん野放しにしてたら、お前の屋敷の使用人だってよからぬこと考えちまうよ。親父さんとこの人間に見つかったらどうなってたと思う? 今みたいな状態に、もっと早くになってたんだぜ?」
「なぜ俺に言わない」
「本人が嫌がったから」
「……」
「お嬢ちゃんのために言っておくが、お前のこと嫌いで嫌がったんじゃねぇぜ?」
「……だったら、俺が」
「だから粉掛けてやったのに。何だかんだ最後まで持っていけなかったんだろ、お前」
「……」
「やーねぇ、無駄に嫉妬深いくせに意気地のない男って」

何も口にできないヴァンツァー。
レティシアは責めるためにこう言った。

「お前、お嬢ちゃんの言うこと、一言も信じてねぇんだろ」
「……」

レティシアは、こんなときに慰めの言葉をかけるような人間ではない。

「全部お前の責任だ。きっちり落とし前つけろよ」

そしてその場を立ち去ったのである。
向かう先はシェラのいる部屋。
診察に向かうのだと分かっていても、引き止めたくなってしまう。
だが、自分にそんな資格はないのだ。

「……言われなくとも……」

どんな手を使っても、どんな人間を利用しても、必ず。

「シェラだけは、失わない……」

そう、自分に言い聞かせた──。  




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