ファロット公爵邸の本館から少し離れた場所に、懲罰を与えるための地下牢がある。
本館の中に入らずともそこへ行けるのを好都合と、ヴァンツァーらは直接そちらへ向かった。
「ひゃー、お嬢ちゃん連れてったの、親父さんかよ。しかもこっち、牢屋のある方だぜ?」
一言も発さないヴァンツァーについてきているふたりだ。
リィにとっては、レティシアの口にする情報だけが頼りである。
屋敷内とはいえ、牢までは少しある。
三人は馬に乗ったままで進んだ。
ボナリスからは早馬を走らせても丸一日かかる。
ヴァンツァーの気が立っているのも当然といえた。
こんな目と鼻の先に、シェラが監禁されているというのだから。
名馬と呼ばれる部類の馬に乗っている三人だったが、それでもヴァンツァーは無茶苦茶な走り方をしている。
ボナリスとの往復を、ほとんど不眠不休で行っているのだ。
あと一刻もあれば夜が明ける。
「黒いのの父親か?」
リィが訊ね、レティシアが頷いた。
先を急ぐヴァンツァーは後ろふたりのことなどまったく意識の外だ。
それでも、ふたりはヴァンツァーの耳に入らないように声を落としている。
あとほんの僅かでも刺激すれば、それこそ暴れ馬の如く荒れ狂うことが肌で感じられるのだから。
「公爵は、ふたりの仲に反対なのか?」
首を傾げるリィ。 レティシアは目をぱちくりさせた。
「……王女さん、あんた、そりゃあ当たり前ってもんだぜ?」
「何でだ?」
「お嬢ちゃんが、奴隷身分だからだよ」
「それは知ってる。黒いのが『市』で買ったんだろう?」
「何だ、知ってんの? よくぶん殴んなかったな。あんたそういうのダメそうなのに」
「正直気分は良くない。──でも、黒いのは本気みたいだからさ」
レティシアは薄く笑った。
「親父さんも、あんたくらい物分りが良けりゃあな。あの人、ものすごい血統主義者だから」
「でも、この屋敷の奴隷の待遇はいいらしいじゃないか」
「それ、ヴァッツが訴えたんだ。おふくろさんと一緒にさ」
「ルーファ?」
「親父さんも、まさか嫁とはいえ王女様のすることに文句つけられねぇからな」
「ふぅん……ルーファとあの黒いのがねぇ」
疑わしげな声になるリィに、レティシアは友人の弁護をすることにしてやった。
「あいつ、今はお嬢ちゃんのことで頭がいっぱいだけどさ、貴族連中とか屋敷の人間の間じゃあ『高潔の人』で有名なんだぜ?──俺は潔癖君って呼んでるけど」
「へぇ……『高潔の人』の父親が、使用人を地下牢に監禁ねぇ」
「だから、親父さんは身分に煩い人なんだよ。正直、ヴァッツの結婚相手だって、あんたくらいの相手じゃなきゃ頷かないんじゃねぇか?」
「おれはしないって。陛下に直談判までしたんだからな」
レティシアはおかしそうに笑った。
「ほんと、女にしとくにゃもったいねぇよな。普通のお姫さんは、そんなこと間違ってもしねぇぜ?」
だいたい、自分と互角に剣を扱えるということからして規格外なのだ。
「あんた、一生独り身のつもりかい?」
何気ないレティシアの問いかけに、リィは首を傾げた。
「そこが問題なんだ。断り続けているうちに年取れば、もらい手がいなくなっていいかな、と思ってるんだけどさ」
「男はダメかい?」
リィは難しい顔になった。
「……ダメっていうか……」
「女の方がいい?」
「いや、そういうわけでも……可愛い女の子は好きだけどさ」
少し考えてから、リィは口を開いた。
「たぶん、おれ男なんだ」
飴色の目をまん丸にしたレティシアだ。
「そんな立派な胸と腰でよく言うぜ」
「それは外見だろ? たぶん、おれの中身は男なんだよ」
「でも、女がいいってわけでもねぇんだろ?」
混乱して金の頭を掻き毟るリィ。
「──あぁ、もう! そう難しいことを訊かないでくれ!」
と、騒がしくなってきたふたりの前で、ヴァンツァーが馬を止めた。
若い主人の姿を見て、牢番の男が顔色を変えた。
「ぼ、ぼぼ、坊ちゃん!」
声が裏返っている本館の下男。
「鍵を渡せ」
淡々と告げるヴァンツァーに、男はブンブン首を振った。
「こ、こっから先は……旦那様の言いつけで誰も入れるなと」
真っ青な顔の下男。
それはそうだ。自分がしたことを考えれば、若主人の前に出ることは自殺行為である。
もしあの奴隷がこの青年に話したりしたら、と思うと気が気でない。
「……そうか。分かった」
その言葉に男はつかの間ほっとした。
「では──お前を斬って奪うことにする」
表情ひとつ動かさず、剣の柄に手を掛ける。
牢番は飛び上がった。
冗談を言っているような顔ではない。
「──い、命だけは!」
絶叫し、懐から鍵束を取り出すとヴァンツァーに向かって放り投げ、一目散に駆け出したのである。
下男を見送ったレティシアは、不思議そうな顔でこう言った。
「斬っちまえば良かったのに。親父さんとこに駆け込まれたら、面倒じゃねぇ?」
「レティー。物騒なこと言うな」
リィがそっとたしなめる──しかし彼女もまたレティシアと同意見だった。
今のヴァンツァーの殺気は本物だった。
確実に斬ると思ったのに。
「……血のにおいをさせていたら、怖がるだろう……?」
呟き、ヴァンツァーは地下牢の階段を降りていった。
「相変わらず、可愛い奴」
レティシアは肩をすくめ、王女に見張りとして残っているよう頼むと、自分もあとに続いたのである。
室内に入ったレティシアは、にっこりと笑顔を浮かべた。
「お。何だ何だぁ? 王女さん、男でもイケんじゃん」
まだ寝台の上で抱き合っているふたりを茶化す。
慌てて離れようともがくシェラだったが、自分と変わらないような華奢な身体なのに、王女はびくともしない。
「まぁ、お嬢ちゃんは女の子みたいだけど」
「そうなんだよ、何なんだ、これ。ものすごい可愛いぞ」
一層自分の胸に押し付けるようにしてシェラを抱きしめる。
豊かな胸があたり、シェラは余計に泣きそうな顔になった。
──きっと、自分は不敬罪で極刑になるんだ。
そんなことを考えている顔だ。
しかも、主人の婚約者である女性との不義密通疑惑など、絶対に嫌だった。
あの人だけは、裏切りたくないのだ。
「あ、泣かせた」
「違う! おれじゃないぞ! さっきから泣き止んでくれなくて……」
弱りきった顔になる王女を見て、レティシアは目を丸くして爆笑した。
「あんたでも苦手なもんがあったのか」
頭を掻いたリィである。
「……みんな、幸せに笑っていて欲しいじゃないか……」
「ま、ね」
レティシアはテーブルの上の籠に目を留めた。
「まだ食べてねぇのか」
「……食欲、なくて」
「ダメだぜ、ちゃんと喰わないと。しかもヴァッツのお手製だ」
シェラとリィはほぼ同時に声を上げた。
「黒いの、料理なんてできるのか?!」
「昔はよく実験台にさせられたよ」
よよよ、と泣き真似をするレティシア。
「でも、結構美味いんだ、これが」
「へぇ……おれ絶対無理だな」
この呟きにシェラはぎょっとした。
「お、王女様はそんなことをなさる必要ありません!」
結婚したら妻の手料理を口にするのが夢だとヴァンツァーは言っていたが、さすがに王女と結婚するならば料理人を置くであろう。
「ご主人様だって、王女様に料理をさせたりは──」
「は?」
「そりゃあ、一緒に台所には立てないかも知れませんが、きっと王女様を大事に──」
「ちょっと待て!」
思わず叫んだリィである。
シェラの肩がビクッ、と揺れる。
潤んだ紫の瞳に、再び罪悪感でいっぱいになる。
「……泣かないでくれって、もう……」
宥めるようにシェラの肩をやさしく撫でてやる。
そうして、幼い子どもに言い聞かせるようにゆっくりと喋った。
「あのさ、さっきも言っただろう? おれと黒いのは結婚なんてしない」
「──どうしてです? あの方がお嫌いですか?」
「いや、嫌いっていうか……」
はっとするシェラ。
「私が……? 私がいるから……?」
「え? おい、ちょっと」
「すぐ! すぐに出て行きますから! わ、私は別に、あの人のことなど──」
好きでも何でもないのだ、と言おうとしたらまた涙が溢れてきた。
ペチッと額を叩いてレティシアに助けを求めるリィ。
レティシアは声に出さずに大笑いしている。
「……頼むよ……泣いたら、可愛い顔が台無しだぞ?」
「そんな……私なんか薄汚い奴隷ですから……」
「シェラ」
強く名前を呼ばれ、シェラが限界まで涙を溜めた目でリィを見つめる。
「ちゃんと聞け。おれが結婚しないのは、別に黒いのだけじゃないぞ。どんな男が相手でも嫌なんだ」
「どうしてです……? あの人は強くて、やさしくてお美しくて、申し分のない方でございましょう?」
もうどうしたらいいんだ、と暴れ出したいくらいのリィである。
「それに、王女様とご主人様は、その……とても……お似合いです……」
俯き、唇を噛み締めるシェラ。
光り輝く女神のような美貌のリィと、見たこともないくらいに美しい主人とが並べば、ため息の零れるような組み合わせになるに違いない。
それこそ、どんな名匠も絵にすることができないような。
喜ばしいことのはずなのに、自分で言っておきながら悲しくなってきたシェラの耳に、突如大きな笑い声が聞こえた。
声の主は、レティシアだ。
「……伯爵様?」
腹を抱えて笑っているレティシアに、シェラは困惑した表情を向ける。
リィを見ても、綺麗な顔を顰めてため息を吐いている。
自分は何か粗相をしてしまったのだろうか、と心配になるシェラ。
こんなに身分の高い人たちに囲まれて、卑しい自分なんぞが意見を言ってはいけなかったのに、と後悔する。
「お似合いだってよ、あんた!」
「……馬鹿言うな」
「あの……?」
ますます困惑を深めるシェラに、何とか笑いをおさめたレティシアが歩み寄る。
「お嬢ちゃん」
「はい……」
「種類が違うんだ」
「……はい?」
「確かに、この王女さんもヴァッツも、たまげるくらいの美形だ」
こくりとちいさく頷くシェラ。
「でも、ふたりが並んだらそれが半減しちまう」
首を傾げるシェラ。
まったくもって意味が分からない。
美しい人がふたり並べば、一層美しく見えるのではないのか。
「俺は、ヴァッツの隣にはお嬢ちゃんがいる方が綺麗に見えると思うけどな」
「そりゃあ、私のようにみすぼらしいものが比べる相手では、あの人の美しさが──」
またレティシアが笑い出した。
くつくつと喉の奥で笑うと、シェラの髪を撫でてやった。
以前触れたときより、ずっと短くなってしまった。
もう、肩に届くかどうかというところ。
「俺も、この髪結構好きなんだけどな」
「──え……?」
「俺よりもっと好きだって奴がさ、切られた髪大事に懐にしまってんだよ」
「……」
「また、長くなった姿、見せてやってくれねぇか?」
「……伯爵様……」
レティシアは急に調子を変えた。
「だってさぁ、もうウザくてウザくて」
家中の壁に八つ当たりして歩いてるんだぜ、その誰かさん、と苦笑する。
「おれも見たいな。シェラの髪は綺麗だ」
リィがにっこりと微笑む。
「……王女様」
やはり綺麗な方、とシェラは思った。
綺麗でやさしくて、本当にあの人とお似合い。
「では、王女様……」
「何だ?」
「……髪を伸ばしたら、ご主人様と結婚していただけますか?」
「はぁ?」
「だって……ご主人様には、お幸せになっていただきたいのです……」
「あのな、おれと結婚したって、黒いのは幸せになんてなれないぞ? おれだってなれない」
「そんなことはありません。ご主人様は本当におやさしくて──」
「だったらシェラがしろ。おれとするより、ずっと幸せになれるはずだ」
「とんでもない! 私のような奴隷が一緒にいては、ご主人様の高潔な魂まで穢れてしまいます!!」
「……」
絶望的な顔でレティシアと目を合わせるリィだ。
さすがのレティシアも苦笑している。
そうしてふたりは、まるで示し合わせたかのように内心で呟いたのだ。
──高潔、ねぇ……。
シェラが盲目的なのか、刷り込み現象でそう思いこまされてしまったのか。
監禁紛いの扱いをした相手に、よくそこまで純粋な感想を抱けるものだ、といっそ清々しく思ったくらいである。
レティシアはため息を吐いた。
「お嬢ちゃん」
「はい……」
「俺さ、この家のこと、今日まで知らなかったんだよ」
「え……?」
「たぶん、あいつの家の人間も、知らねぇんじゃねぇかな」
「……あの?」
「ちょっと前に、お嬢ちゃんの寝つきが悪いってあいつから聞いて、睡眠薬調合してやったことがあるんだ」
「……」
「たぶん、ここに連れて来られるときに飲まされたんじゃねぇか?」
「……」
レティシアは金茶の頭を掻いた。
「だから、さ……そんなにあいつのこと『高潔、高潔』って言って壁作らないでやってくれよ」
「伯爵様?」
「あいつはさ、惚れた相手のためだったら人も刺します火もつけます、ってくらい、極端な奴なんだからよ」
俺を殺すことなんて、何とも思わないんだぜ? と茶化してみせる。
「言っておくけど、怒ってるあいつなら止められるが、キレたあいつは俺でも止められねぇからな」
シェラは首を傾げた。
「あの、どういう……?」
「滅多なことは考えるな、ってことだよ」
はい服脱いで、とやっと診察に移る。
「じゃあ、おれ黒いのの様子見てくるよ」
そう言って、リィは寝室をあとにした。
まだ消えない痣や鬱血の残る身体を高貴な方に見られなくてよかった、と安堵のため息を漏らすシェラ。
それはレティシアに対しても言えることだが、彼は医者なのだ。
たとえ嫌がったところで、また気絶させられてその間に治療されるに違いない。
「──わりぃな、怪我ひとつ増やしちまって」
見透かしたように包帯を取り替えながらポツリ、と呟かれ、シェラは首を振った。
「終わったら、しっかりあれ食べるんだぜ?」
屈託のない笑顔を見せるレティシア。
「……はい」
ぼんやりとヴァンツァーの置いていった籠に目をやる。
もう戻ってこないことは分かっている。
それでも、この館で暮らした日々を懐かしく思い、ひとすじ、涙を零した──。
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