ただ、閉じ込められているだけだと思っていた。
ただ、牢に入れられ、繋がれているだけだと。
「──……俺の、せい……」
気絶したシェラをレティシアが抱いて連れて来たとき、何かあったのかと危惧した。
帰りたくないと暴れたから当身を入れたのだ、と言われ、あのようにむごい目に遭っていたシェラに何を、と怒鳴ろうとして王女に止められた。
夜明けが近い。
騒がれれば人が集まってくるし、レティシアは加減を知っている。
無事にシェラを取り戻したいなら怒るのは帰ってからだ、と言われ頷きはした。
そうしてこの館に戻り、もう今は昼を過ぎた。
居間のソファは最高級のものであり、本来ならばやわらかく包み込んでくれる感触にひと息吐けるのだが、零れるのはため息と自己嫌悪の言葉のみ。
シェラが戻ってくれば安堵できるはずなのに、やはり今も眠れない。
料理を作ってやっても、自分で食べる気はまったく起きない。
せっかく健康的な身体つきになってきたのに、またやつれてしまった少年。
成長期に十日もの間拘束され、まともな食事も衣服も与えられず、しかも──。
「……」
思わず頭を抱える。
どうして、シェラがあんな目に遭わなければならないのだろう。
もう、その短い人生の中で十分傷ついてきたというのに。
苦労を知らない自分など想像もできないような壮絶な生を歩んで──否、歩まされてきたのに。
辛いことがあれば、それを補うだけの幸福があっても良いはずだ。
自分ならば、何でも与えられると思っていた。
けれど、もしかしたら自分がいることでシェラが受け取るはずだった幸を失わせてしまったのかも知れない。
そう思うと、やりきれない。
「俺では……ダメなのか……?」
冷たい人だとは、思っていた。
降嫁してきた当初から母を別館に住まわせ、扱いだけは丁寧に、しかし良好な夫婦関係など築く気もなかったようだ、とカリンが言っていた。
貴族が愛人を囲うことなど珍しくもないが、屋敷に置いている様子はなく、それでいてしょっちゅうどこかへ出かけているというのだ。
父の愛情など知らないに等しいが、その分母や別館の使用人たちが惜しみない愛情を注いでくれた。
そんな母の命日を父とともに過ごしたことは一度もない。
それでもまさか、同じ人間に対しあんな人道にもとる扱いができるとは思っていなかった──思いたくなかったのかも知れない。
似ているところなど何ひとつなくとも、血を分けた実の父だから。
「俺が……」
行かなくても構わない学院になど、赴かなければ良かった。
ずっと、一緒にいれば。
なぜ、出掛けようと思ってしまったのか。
片時でも離れたくなかったはずだ。
それなのに、シェラが約束してくれたから、安心してしまった。
シェラは、絶対にいなくなったりしないのだ、と。
他人が介入してくるとは思っていなかった。
この館のことは、別館のものたちにもほとんど話していないのに。
学院との往復だとて、ついてくる人の気配がないことを確認していた。
それなのに、どうやって父の手のものに知れたのか。
「──いや、それより……」
今は、こんなところで煩悶している場合ではない。
しなければならないことがある。
静かに立ち上がると、ヴァンツァーは書き置きひとつ残さずに館を出た。
出て行ってさして時間が経たないうちに戻ってきたリィに、レティシアもシェラも首を傾げた。
シェラは手当てが終わり、衣服の前を閉めているところだった。
「──あれ、早いな」
「黒いのいなくてさ」
肩をすくめるリィ。
実際に話をする気はあまりなかったのだが、この館のどこにも気配がないことが気になった。
「買い物かね?」
「さぁ?」
何気ない風でやり取りをするふたりだったが、互いの瞳を探り合い、僅かに表情が硬くなる。
こんな状態のシェラを残して、あのヴァンツァーが書き置きも一言を告げることもなくいなくなったことが気に掛かる。
「お買い物でしたら、私が行きますのに……」
申し訳なさそうに俯くシェラの言葉に、リィもレティシアもぎょっとした。
「……当身入れといて何だけどよ、それ入れても関係ないくらい結構ひどいんだぜ?」
立ち歩くのもままならないだろう、と見立てているのだ。
「慣れていますから」
何でもないことのように、そんな言葉が返ってきた。
静かな瞳をしている。
あのような扱いを受けたことに対しては、まったく、ひとかけらの動揺もないのだ。
リィの顔が思い切り顰められる。
「……おいシェラ、相手の顔を覚えていないのか?」
「顔、ですか?」
きょとんとしているシェラに、リィは言いづらそうにしながらも頷いた。
「その……お前を、手篭めにした連中だよ」
「あぁ……」
シェラは視線を落とし、薄く口許に笑みを刷いた。
「数が、多すぎて……」
最初の二、三人ならばともかく、十人を越えた辺りからはもうどうでもよくなっていた。
正直にそう言うと、リィは唸り声を上げて思い切り壁を殴りつけた。
パラパラと壁が崩れるほどの音と衝撃に、シェラは大きく目を瞠った。
「王女さん……」
レティシアが宥めようと声を掛けるが、触れる勇気はないらしい。
シェラは美しい王女のあまりの剣幕に、背筋を震わせて身を引いた。
ひとつため息を吐いた青年医師が、再びリィに声を掛ける。
「──患者の身体に障るんで、荒れるなら出て行ってくれるか?」
「あ、伯爵様……」
王女様に何ということを、と心配顔になるシェラ。
王族の不興を買えば伯爵位を剥奪されてしまうかも知れない。
不安げな表情で王女と伯爵を交互に見ていたシェラだったが、その視線に気付いたリィは「悪い」と言うと深呼吸した。
数回それを繰り返し、何とか落ち着きを取り戻したようである。
「……黒いのの父親だから悪くは言いたくないが、人のことを何だと思ってるんだ……」
呻くように声を押し出し、パシン、と自分の手のひらに拳を打ちつける。
シェラは微笑んで王女を見つめた。
「王女様は、おやさしいのですね。──さすがは、ご主人様のお従妹様」
どこまでも主人への賞賛を続けるシェラを、リィは半ば呆れた目で見た。
「……レティー、これって、何とかは盲目ってヤツか?」
「そのはずなんだけどねぇ」
大仰に肩をすくめるレティシア。
「親鳥に対する擦り込み現象とかだと、目も当てられねぇよな」
苦笑するレティシアの言葉の意味が分からず、シェラは首を傾げた。
「ひとつ、訊きたいんだけどさ」
「はい、王女様」
「リィでいいって。あのさ、答えづらかったら答えなくていい」
「はい」
しっかりと頷くシェラに比べ、リィの方が躊躇っている。
それでも、もしかしたらシェラの傷を抉るような真似をするのだとしても、訊いておきたかった。
「もし、黒いのが他の男たちと同じようなことをお前にしたら……」
「……」
「そうしたら……」
シェラはふわりとした笑みを浮かべた。
リィもレティシアも、ドキリとする自分の胸が信じられずに困惑した表情を浮かべた。
儚げで透明なのに、どこか艶めいた表情のシェラ。
「──……夢に、見たことがあるんです……」
僅かに、声が震える。
「夢……?」
リィの言葉に頷く。
「王女様には申し訳ありませんが……あの人に、抱かれる夢を……」
「……」
「このお屋敷に来てすぐの頃。ここで……この寝台で一緒に眠っていたら」
「一緒に?」
リィが目を丸くする。
「あ、誤解なさらないで下さい。夢に見ただけで、実際には何もありませんでしたから」
慌てて手を振るシェラを見て、「そんな状態で何もないことの方が問題だ」とふたりは言いたくなった。
「……あれは夢だと分かっているんです。分かっているんですけど……」
紫の瞳を潤ませ、短くなってしまった髪を押さえる。
「──私、知りませんでした。愛しい方に抱かれると、あんなにも満たされるものなのですね……」
一筋、頬を涙が伝う。
「夢なのに、分かっているのに、幸せで……幸せすぎて……でも、奴隷のくせに夢に見るほど主人に欲情しているなんて……」
シェラはふと顔を上げた。
「……ご不快でしょう? どうぞ、お腰のもので切り捨てて下さい」
寝台の上からではあったが、シェラは頭を下げた。
膝の上で握り締めた手が震えている。
死ぬことは怖くない。
あの人の迷惑になるくらいなら、露と消えてしまいたい。
怖いのは、不快に思った王女が主人にどんな対応をするかが分からないこと。
──だがきっと、この王女ならばひどいことはしない。
人を見る目があることには、胸を張れる。
短い人生の中でも、色々な種類の人間を見てきたのだから。
そんなこと考えているシェラの枕元に、リィがゆっくりと歩み寄ってきた。
「……何でだ……?」
聞こえてきたリィの声も震えていて、シェラはびっくりして顔を上げた。
緑の瞳は濡れていないが、泣くことを我慢しているような表情ではある。
「はい……?」
「何で、そんなにあいつのこと好きなのに、おれなんかに譲ろうとするんだ……? あいつだって、お前を望んでいるんだぞ?」
「……」
そんなことか、と思ったシェラだ。
理由など、決まっている。
「……だって……」
怒っているわけでも、睨んでいるわけでもないが、強い意思を持つ瞳でシェラは答えた。
「……私には、失うものなんてないから」
自分と違って、あの人は持っているものが多すぎる。
数え上げればキリがないが、身分、財産、地位、名誉────それから、自由。
「ただのお部屋係りならばともかく、奴隷などを傍近くに置いていてはあの人への評価が……」
「──奴隷、奴隷って、お前は人間なんだぞ?! おれたちと何も変わらない!!」
リィは思わず怒鳴った。
「……本当に、よく似ていらっしゃる。あの人も、そうおっしゃって下さいました……」
にこりと微笑むシェラ。
「──でも、それは皆様が自由人だから言えることです」
「……」
非難するわけでもない淡々とした物言いに、リィは思わず押し黙った。
そうなのかも知れない、と思った。
自分に奴隷の生活は分からない。
戦争の捕虜になったことすらない。
推し量ることはできても、実体験としては知らないのだ。
シェラはやはり微笑んだままこうも言った。
「現国王様は、人身売買の撲滅にお力を注いでいらっしゃるとか」
「……あぁ」
「ご主人様は、きっとお力になります。学のない私には分かりませんが、学院でもっとも優秀な方なのだそうですから」
嬉しそうに頬を染め、少し早口に言った。
そうして表情を引き締めると、深々と頭を下げた。
「──どうぞ、お幸せに」
「……」
何も言い返せず、リィはただただレティシアと視線を交わした。
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