ヴァンツァーが帰ってきたのは、二日後の明け方だった。
館は表情ひとつない──むしろわざと消している印象を受ける主を迎え入れたが、彼を迎えるものの存在はない。
玄関ホールに入れば、ひっそりとした静寂に包まれている。
微かに鳥の鳴き声が聞こえるだけの、静かな邸内。
誰も迎えに出てこないことに、ヴァンツァーはどこかほっとした面持ちになる。
特に、今はシェラに会いたくない。
「──よぉ、黒いの」
頭上からの声に、反射的に身体が強張った。
「……王女……」
見上げれば、二階の廊下部分の手すりから王女が身を乗り出している。
「朝帰りとは、随分優雅だな」
「……」
ゆっくりと螺旋状の階段を降りてくる王女を無視してこの場を辞することもできず、ヴァンツァーは立ち尽くしていた。
ヴァンツァーの目の前まで来たリィは、一瞬目を瞠り、次いで僅かに顔を顰めた。
「――何人殺した」
「……」
「隠しても無駄だ。血のにおいがする」
ヴァンツァーは観念したようにため息を吐き、自嘲の笑みを浮かべた。
「……いちいち数えていません」
その言葉に、リィは眉を寄せた。
しかし、ヴァンツァーを非難したりはしない。
「……シェラのところに行くなら、風呂に入ってからにしろよ」
返り血を浴びていないのは上出来だけどな、と長身の青年を見上げる。
「しかし、起きたのがおれだけで良かったな。もしシェラだったら──」
微笑したヴァンツァーだ。
「構いません。――どうせ、シェラは俺に近寄らない」
帰宅したことに気付いたとしても、血のにおいが分かるような距離にいてはくれない。
「──……」
ひとつ息を吐いてから、リィは訊ねた。
「全部殺したのか?」
「父以外は」
「……」
「まぁ、牢番の記憶に頼るしかなかったので、穴があるかも知れませんが」
その牢番も殺してしまったのでは確認のしようがない。
「……あんなことをしたと分かっていても、父親は殺せない、か……」
痛ましげに呟くリィに、ヴァンツァーはおかしそうに、しかし乾いた笑いを立てた。
訝しげに首を傾げるリィ。
「随分と俺を買いかぶって下さっているようだ。──殺せないのではなく、ただ居場所が分からないだけです」
「……」
「ここしばらく、どこかへ出掛けているようですね。……まぁ、お忙しい方ですから」
どうでもいい、と言いたげな、覇気のない藍色の瞳。
「……人を殺したのは、初めてか?」
少し考える顔つきになったヴァンツァーは、ゆっくりと口を開いた。
「──……殺したいと思った相手を殺したのは、初めてですね」
「……」
口をつぐんでしまったリィに、ヴァンツァーは無表情と変わらない程度の微笑を浮かべてみせた。
「罪人を、捕らえますか?」
もっとも、目に見える証拠を残したりはしていないが。
リィは首を振った。
「……正直、礼を言いたいくらいだ」
緩く口端を吊り上げるヴァンツァー。
「随分、あれにご執心なようで……」
「同じくらいの年だからかな?」
「……」
「俺がシェラと同じ立場だったら、自分の身体をいいようになんて絶対させない 。そんな奴がいたら殺してるだろう」
「……」
「でも、シェラには武術の心得がないし、そもそも自分はそう扱われて当然だと思っている」
「……」
「こっちが何か言うとすぐ、私は奴隷ですから、って諦めるんだよ、あいつ」
「────王女」
やるせない、といった表情になるリィに、ヴァンツァーは瞳に光を戻して切り出した。
王女に出会ったあの夜から、ずっと胸の中であたためていた『解放』の言葉を。
隣国で開催された各国の国賓を招いての会食に、ファロット公爵は国王とともに出席していた。
王女が参加しないのはいつものことなので、国王も何も言わない。
最近はファロット公爵家の嫡男と親交を深めているようなので、それはそれで構わない、と思っているようだった。
そして、ファロット公爵の他にもうひとり、国を代表する大貴族が出席を許されていた。
「──サヴォア公爵、どうされました? 浮かない顔をなさって」
色男が台無しだ、と会食が終わり与えられた客室へ赴く廊下でファロット公爵は冗談めかして笑った。
「……いえ」
まだ年若い公爵に各国の代表が集まる会合は荷が思いのか、と一瞬考えたファロット公であったが、ノラ・バルロという青年がそんな器のちいさな男でないことは有名である。
「……ふむ。何か心配事かな? さしつかえなければ、話してはいただけないだろうか。何かお力になれるかも知れません」
良き先輩、といった感じでファロット公は微笑んだ。
バルロは苦虫を噛み潰したかのような顔をしていたが、しばらくして大きく息を吐き出し、肩の力を抜いた。
「公の手を煩わせるようなことは何も……。ただ、友人が、心配なだけですので……」
「ご友人?」
バルロは浅く頷いた。
「ナシアス・ジャンペールという男です。騎士団に入団して以来の友人で……」
「そうですか。それはご心配でしょう。──ジャンペール殿といえば、華麗な剣技で有名な方でしたか」
「えぇ。残念ながら、私より身体はちいさいのにずっと腕が立つ」
苦笑してみせたバルロに、ファロット公も快活な笑いを返した。
「そのご友人が、何か?」
「いえ……この頃顔色が優れないので、どうかしたのかと気になっただけですから」
「そうですか。あなたのようなご友人を持って、ジャンペール殿は幸せですね」
にこやかな美貌の公爵に、バルロは首を傾げてみせた。
「どうですかな……。あれは、柔和な顔の割りに頑固なところがあります。親友の俺にも、愚痴ひとつ零してはくれません」
「……それは、余計に心配ですね」
「まったくです。こっちの身にもなってもらいたい」
「えてして、そういう方ほど自分のことには無頓着なものですからね」
「何とも、あの男に聞かせてやりたい台詞ですな」
感心したようなバルロの表情に笑みを零し、ファロット公爵は就寝の挨拶を述べると自分に宛がわれた部屋へと向かった。
そうして、部屋に入るなりその美貌から穏やかな笑みを消したのである。
「――あぁ、ナシアス。突然すまないね」
いつものように笑みを浮かべる美貌。
ファロット邸に戻った公爵は、すぐにナシアスへと手紙を出した。
『明日の夜半に』
それだけが書かれた文面。
手紙が到着するのも、公爵が自分で馬を走らせるのも、掛かるのは同じ時間。
それでも、ナシアスの邸宅から人を遠ざけるための時間は与えてやらねばならない。
もともとナシアスが住んでいる屋敷は、今も昔も公爵が与えたものだった。
屋敷に帰るなり判明した事実を鑑みれば、突然来訪しないだけ公爵はまだ冷静さを保っていた。
そうして、主ひとりを残して誰もいなくなったジャンペール邸に、公爵は向かったのである。
夜中に近い時間だというのに、ナシアスは「いえ」と首を振っただけで何も言わない。
用意させていた食事と酒を食卓に並べ、遅い晩餐にした。
そして食後にナシアスの私室へと向かい、公爵は本題を切り出した。
「あの奴隷が逃げたようだ――いや、我が愚息が逃がしたのだろうな。ご丁寧に、あの奴隷と関係を持ったものほとんどすべてを殺してね」
牢番まで殺されていて仔細は分からない、と大仰に嘆く公爵。
「……私が、ご子息にお教えしました」
もとより偽る気などない。
この方に嘘は吐けない。
ソファに腰掛けた膝の上で拳を握る。
「だろうな」
簡潔な一言。
向かいに座っていた公爵は音を立てず、滑るように歩いてナシアスの隣に腰を下ろした。
「――分からない子だ……。わざわざあんな目に遭わせてまで思い知らせてやったというのに」
「……」
「そんなに、あの奴隷が良いのか」
「……恋情ではありません」
「知っているよ。お前が愛しているのは私ひとりだ」
眉ひとつ動かさない公爵は、さらりとナシアスの金髪を梳いた。
「……それがお分かりでしたら、あの子のことは捨て置き下さい」
それには答えず、公爵はナシアスに訊ねた。
「なぜ、奴隷などを気に掛ける?」
逡巡したものの、目の前の凍てついた瞳の男は「分からない」と答えて引き下がるような男ではない。
答えになりそうな言葉を探し、たどたどしくはあったが返答する。
「……銀髪、でしたから……あなたと同じ……」
「随分と可愛いことを言うようになったな」
「……」
怜悧な美貌が無表情のままでいることが見ずとも分かる。
公爵を直視できず、ナシアスは唇を引き結んで俯いていた。
「あんな下賤のものと一緒にされるとは」
「……銀髪のあの子に、どうして手ひどい扱いができましょうか」
「私の代わりに、丁重に扱った、と?」
「――代わりだなどと! ただ……」
ナシアスは悲しげに公爵を見つめた。
「……お分かりでしょう……?」
「慰みにでもするつもりだったか」
「──サリ!」
叫んでみて、慌ててナシアスは口をつぐんだ。
「……ようやく、呼んだな」
金髪をひと房指に絡め口づける。
それだけのことなのに、まるで髪にまで神経が通っているかのようにナシアスの身体は震えた。
「顔に似合わず強情なことだ。六年前のあの日から、お前は私の名を呼ばなくなった」
「……」
「私に抱かれているときですらも、決して口にしない」
「……」
「分かるかい、私の気持ちが?」
俯くことしかできないナシアスを抱き寄せ、その耳元に唇を近寄せる。
「──……どれだけ、寂しかったことか……」
「──っ」
これは演技なのだ、と分かっていても胸が痛む。
針のむしろに放り込まれたよう。
知っていて、この人はわざとこんなことをする。
自分の表情や声音がどんな効果を及ぼすかよく知っているのだ。
その結果、自分がどんな反応をするのかも……。
「お前だけを愛しているのに、なぜお前は私だけを見ようとしないのだ?」
「……サリエラ」
女性の名だが、子どもが健康に育つよう、男子に女子の名を冠することはこの国では珍しくない。
「何が不満だ。他ならぬお前の願いなら、すべて叶えよう」
「ですから」
苛立ちと悲しみとが等分されたナシアスの声を遮るように、ファロット公爵はきつく相手の顎を捕らえた。
痛みに、思わず顔を顰めてしまうナシアス。
「ナシアス……。私はお前を失いたくはない」
「……」
そんなことを言ってもあなたはいつでも私を切り捨てるのでしょう? と、ナシアスは口づけを受けながらぼんやりと考えた。
離れられないのは自分だけで、この人は古くなった玩具に飽きればすぐに新しいものと交換してしまう。
その寵を得るために相手がどれだけ心を砕いているのかすら、楽しんで眺めているような方だから。
こんなにも長い間自分が傍に置いてもらえていることは、ほとんど奇跡に近い。
ただ、自分をもっとも可愛がりはしても、他にも寵を与えられている人間はいるのだ──そう考えると、ナシアスは身を引き裂かれる思いがした。
「──……愛しています……」
そうささやけば、「知っているよ」と微笑んでやさしい口づけをくれる。
きっと自分に触れたその唇で、他人も同じように愛撫するのだろう。
そう考えるとやりきれない。
──シェラを、可愛いと思う。
それでも、この人があの子を抱いたのかと思うと、腹の中でどす黒い感情が芽生えるのだ。
シェラをあんな扱いから救ってやりたい気持ちは嘘ではなかった。
だが、シェラがあの青年のもとへ帰れば、この人は自分にもっと意識を向けてくれるのではないか、とそうも思ってしまうのだ。
裏切った自分をこの人は容赦なく切り捨てるだろう恐怖に怯えながら。
しかし、まだ抱きしめて口づけをもらえることにほっとして。
そうして、ナシアスはその夜も切ない声を上げさせられるのだった。
シェラを取り戻してから数日。
ヴァンツァーとしては、シェラと関係を持った屋敷のものや商人どもに端から制裁を加えていったというのに、父に動きが見られないことが気に掛かった。
シェラは相変わらずヴァンツァーの前では身を固くしてしまうので、同じ場所にいることすらほとんどない。
それでも、同じ屋敷の中にいて、レティシアかリィか自分の目があればどうとでも対処できる。
食べるものをきちんと食べて休養を取れば、若いシェラの体調はすぐに回復する。
痣なども一週間もしないで引くはずだ。
自分の前以外では笑うのだ、と聞けば辛くはある──それでも、まだ笑ってくれるだけいいのかも知れない、と思い直す。
どうして、あのような扱いを幼少時より受けてきて、まだ笑えるのだろう。
痛ましさよりも、尊敬にも近い感情を抱く。
「……あとは、あの人……」
王女との間で話はついた。
自分の前にある障害は、あとひとつ。
そんなヴァンツァーのもとに、自ら間諜を買って出た王女が戻ってきた。
「動いたぞ。──公爵は、ボナリスに向かった」
「礼を言います」
「そんなのはいい。──やるのか?」
父親を殺すのか、と訊ねられ、ヴァンツァーは曖昧に首を傾げた。
「俺の邪魔をするのなら」
「……尊属殺人は、ただの殺人より罪が重い」
腰に愛用の剣を差し、今度はヴァンツァーが訊ねた。
「止めますか?」
肩をすくめたリィだ。
「力ずくなら止められるだろうけどな。でもやめとくよ」
「なぜ?」
「今のお前なら止められるけど、お前を止めようとしておれが飛び掛っていったら、お前は今のお前じゃなくなるからさ」
謎掛けのような言葉に、ヴァンツァーは薄く微笑んだ。
「……父まで殺したら、きっとシェラは涙を流して俺を罵るのでしょうね」
今まで殺した人間のことは、シェラの精神状態も考慮して話していない。
それでも、ファロット公爵のような大人物が倒れれば、国中にその情報が飛び交う。
「でも、行くんだろう?」
ほとんど確信して訊ねたリィに、ヴァンツァーはシェラの眠る寝室の方に目を遣って呟いた。
「──……何ひとつ失わずに手に入るとは、初めから思っていません」
留守中のシェラのことをよく頼み、ヴァンツァーは単身ボナリスへと向かった──。
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