一度訪れたことのあるナシアスの屋敷に辿り着いたヴァンツァーは、来訪を告げても応答のないことに首を傾げ、扉に手を掛けた。
ちいさく蝶番が鳴り、玄関の扉は開いた。
何か違和感のようなものを感じて一度己の手を見る。
理由が分からず、再び首を傾げた。
静寂に包まれた屋敷に足を踏み入れる。
広い玄関ホールに佇むが、人の気配ひとつしない──まるで、無人の廃屋のよう。
先程、ここへ来る途中、馬が一頭駆けていく音を聞いた気がしたが、人が乗っている気配はしなかった。
しかし、もしやそれに乗って行ってしまったのだろうか。
「──誰か」
よく通る声で、短く呼び掛けた。
しかし、やはり返る声はない。
他人の家の構造など知らないが、とりあえず以前ここへ来たときに通された大広間へ向かうヴァンツァー。
記憶にあるその場所へと続く重い扉を押し開けた。
「……父上」
そこにはファロット公爵ひとりが佇んでいた。
振り返る銀髪の主。
「──あぁ、来たか」
口端に、酷薄な笑みを浮かべる。
「随分と派手にやったな」
何を指すか、確認するまでもない。
「さすがは私の息子、といったところか」
おかしくもないだろうに、おかしそうに笑う公爵。
ヴァンツァーは実の父を射殺しそうな視線で見つめた。
「……あなたを、殺したいと思っています……」
「あの奴隷を抱いたからか?」
「──っ!」
思わず、剣の柄に手をかけるヴァンツァー。
「何だ、お前まだなのか」
不思議そうな顔になった公爵だ。
「これは……私に似ず、随分と奥手だ」
くつくつと喉の奥で笑う。
「あれは男を受け入れるように慣らされているからな。──案外楽しめた」
その言葉を皮切りに、ヴァンツァーは抜刀して公爵に切りかかった。
ヴァンツァーが出て行って間もなく、居間のソファで寝転がっていたリィのもとにシェラが現れた。
「あぁ、シェラ。起きたのか」
ソファから起き上がり、居間の入り口に佇むシェラへと歩み寄るリィ。
ゆったりとした服を着て肩にストールを掛けているシェラは、不安げな表情でリィに訊ねた。
「あの、王女様……ご主人様は……?」
「──黒いの? 黒いのがどうかしたか?」
シェラには気取られぬ程度に目元を動かすリィ。
「いえ……何となく。あの人の馬が駆けていく音を聴いた気がしたものですから……」
「そうか? おれは気付かなかったなぁ。──でも、外出することくらい、あるだろう?」
にっこりと笑ってソファへと戻っていくリィ。
ごろりと横になると、その足元へシェラが跪いた。
「……何でもないなら良いのです」
眉宇を曇らせ、天使のような美貌には焦燥にも近い困惑が色濃く現れている。
ぎゅっと胸の前で服を掴む。
やわらかな布の感触が頼りなさを感じさせて余計に不安になる。
「おはよぉ……」
そのとき、あくびをしながらレティシアが室内に入ってきた。
「──あれ。王女さん、またお嬢ちゃん泣かせてるのか?」
「よく見ろ! 泣いてないじゃないか!」
慌てて飛び起きるリィ。
「いや、時間の問題だって」
リィが身を起こした向かいのソファに腰を下ろすレティシア。
もともと癖のある金茶の髪は跳ね放題に跳ねていて、国一番の医者であり剣士の見る影もない。
「──ヴァッツがどこに行ったか、気になるかい?」
唐突なレティシアの台詞に、シェラの肩がビクリと揺れる。
「……ご存知なのですか?」
「ちょっと前には朝帰りしたし、女のとこじゃねぇの?」
「……」
「レティー」
口調をきつくするリィを視線ひとつで制し、レティシアは似合わぬやわらかな笑みを浮かべた。
「懇ろになった女からあいつを取り返す気がある、ってんなら、行き先教えてやるよ」
シェラは俯き、それこそ泣きそうな顔で唇を噛んだ。
広い居間は静寂に包まれ、シェラは自分の心臓の音が他のふたりにまで聞こえてしまうのではないかと思った。
そうして、長い沈黙のあと。
「……女性じゃ、ありません……」
消え入りそうな声ではあったが、それは確かにふたりの耳に届いた。
「何で? 俺が嘘吐いてるってのかい?」
追い討ちをかけるようなレティシアの言葉に、シェラは更に打ちひしがれたような瞳になった。
「……伯爵様を疑うわけではありません……でも」
早鐘を打つ心臓を押さえつけるシェラ。
「あの方が幸せになれるのなら、こんなに不安になったりしません……」
「不安? 嫉妬じゃなくて?」
ヴァンツァーにそんな相手がいたら、の話だが。
にやり、と笑ったレティシアに、シェラは眉を下げて首を傾げた。
「嫉妬……?」
それがどんなものなのか知らない、といった顔つきになるシェラを見て、レティシアは淡々と続けた。
「だって、お前あいつのこと好きだろう?」
「……」
シェラは菫の瞳を揺らして、胸元で組んだ手を見た。
「……あの人を手に入れたい、だとか、そんな大それたことは考えていません……あの人が心穏やかに暮らせるなら、それが私の幸せです……」
だから、この館での軟禁生活も受け入れたし、今も女のところへ行っているのが本当だとすれば祝福もする。
王女でない女性を選んだとしても、決めたのがあの人ならば間違いはない──そう思う。
「──ですが、あの人は女性のもとへなど行ってらっしゃらないでしょう……?」
肯定してくれ、と言わんばかりの泣きそうな顔で見つめられ、思わずリィに視線を寄越すレティシア。
「ご主人様は、どちらへ向かわれたのです?」
顔を見合わせたレティシアとリィは、ため息を吐いて肩をすくめた。
『──何でもいいから、とっととくっついてくれよ……』
異胸中同音に、ふたりはそう呟いた。
そんな顔をするくらいなら、自分の気持ちに正直になれ、と怒ってやりたいところだが、どうにも弱いものいじめをしているような気になっていけない。
とりあえず、今はシェラを連れてヴァンツァーのもとへ行かなければならないのだと確信し、ふたりは頷きあうと手早く支度を始めたのである。
「──サリ……?」
「うん?」
ナシアスは裸の男の胸に自分の頬を擦りつけるようにして、ほぅ、と息を吐いた。
「……もし、私が一緒に死んで欲しいと言ったら……」
あなたはどうするのですか? と言外に問う。
ファロット公爵は胸を震わせた。
その振動で相手が笑っているのだと知り、ナシアスはそっと冴え渡る月の美貌を伺い見る。
満月の光に浮かび上がる公爵の表情は、空気に溶けそうなほどにやわらかだった。
何だか本当に溶けて消えてしまいそうで、ナシアスは思わず公爵の頬に手を伸ばした。
公爵はその手首を掴むと、ナシアスの手のひらに唇を押しつけた。
「そう難しいことを言うな」
「……」
「私には守らねばならない家名がある」
「……」
やはり、どこまでも穏やかでやさしい笑みを浮かべる公爵。
「──もう、終わりにしたいか……?」
公爵の問いに、ナシアスは無言で首を振った。
「……世間で女性がよく使うという言葉に、あなたならばどのような答えを返すのか、聞いてみたかっただけですから……」
ふわりと笑みを浮かべる。
ナシアスの額に口づけた公爵は、瞼、頬へと唇を滑らせた。
そうして、吸い上げるような口づけを唇に与える。
「──……私は、私の邪魔をするものに容赦はしない」
言葉の奥に「たとえそれがお前でも」と、含まれていると感じ、ナシアスは微かに頷いた。
「……知っています」
誰よりも近くでこの人を見ていた自信がある。
……しかし、なぜだろう。
────誰よりもこの人を理解している、と言い切れないのは……。
ゆっくりと寝台の上に身を起こしたナシアスは、「飲み物でも」と一言告げて床に足を下ろした。
ローブに袖を通し、寝室を後にする。
ほどなくして戻ってきたナシアスの手には、葡萄酒の入ったデカンタと、華麗な細工の施されたクリスタルグラスが二脚。
寝台の端に腰掛けた公爵に葡萄酒の入ったグラスを手渡すナシアス。
「──……毒入り、ですから」
言い添えられ、グラスを受け取った公爵は一瞬ナシアスと視線を合わせ、微笑むとグラスを傾けた。
──瞬間、ナシアスがその手からグラスを叩き落とした。
毛足の長い絨毯のために、グラスが割れることはなかった。
深い色で染められた絨毯だから、葡萄酒の色に染まることもない。
ただ、濡れたことにより更に深い色に変わる。
ナシアスは額に汗し、過呼吸になりそうなくらい大きく喘いでいた。
脈が、異様に速い。
「……なぜ……」
掠れた声が喉に張りつく。
「何がだ?」
平然とした顔で、微笑みすら浮かべてみせる公爵。
「なぜ、飲むのですか……」
乾いた声は、湿ったそれに変わる。
「……私を、試しているつもりですか……?」
公爵はおかしそうに笑った。
「それはお前だろう? わざわざ毒入りだと言い添えて、私が毒見でも頼むと思ったか」
「……」
床に落ちたグラスを自ら拾い上げ、公爵はそれを音もさせず寝台横のテーブルに置いた。
自分は椅子に腰掛ける。
「そうしたら、お前はそれを飲み干して私の前で死んでみせるのだろうな」
「……」
テーブルの上で組んだ手に顎を乗せて微笑む最愛の男。
その姿を前に、ナシアスは歓喜と疑念の入り混じる己の心境をどうすることもできずにいた。
『信じてもらえないことが、一番辛い』
そう言っていた青年のことを思い出す。
血を分けたこの人もそう思っているのだろうか、と考えるが、分かるはずもなかった。
けれど、それを訊ねる勇気もない。
どんな言葉が返ってきても、自分はそれを疑うから。
最初から揺れることが分かっているのに、どうしてそれを口にできるだろう。
今も、この人がグラスを傾けたことで、死んでも構わないと思っていたのか、自分の言葉を疑って毒など入っていないと思っていたのか、それすらも分からないというのに。
「……お前の、悪い癖だな」
思いがけず語気の弱い言葉に、ナシアスは思わず顔を上げた。
「お前は頭が良すぎる」
苦笑する姿など、滅多に見られない。
だからナシアスは目を瞠って茫然としていた。
「私がそうさせてしまったのか……」
ひとつ息を吐くと、公爵は厳かな面持ちでこう呟いた。
「──もしも、私が自由の身だったら……」
しかし、直後口をつぐんで首を振る。
「……言っても詮無いことだな」
代わりに、公爵はそっと手を差し出した。
躊躇うことなく、公爵の足元に膝をつくナシアス。
金髪に指を梳き入れれば、甘えるように膝に頬を乗せてくる青年。
指通りの良い髪は絹のように細く、絡め取ろうとしてもすぐに手を離れていく。
「……」
「……」
一言も交わすことなく、ふたりはそのまま時を過ごした。
リィの駆る馬は、他の人間には乗りこなすことのできない、最高の軍馬だった。
その脚はヴァンツァーのものより数段速い。
シェラを自分の身体と馬の頭の間に乗せ、リィは愛馬を全速力で走らせた。
とはいえ、レティシアの馬があまりに離されては困るので、時折様子を見つつの行程ではあった。
三人がボナリスに到着したのは、ヴァンツァーとほとんど変わらなかった。
屋敷の前に繋がれたヴァンツァーの馬の首を軽く叩いてやるリィ。
「……ここ……?」
軽装に着替えたシェラは、胸元のブローチを握るように屋敷を見上げた。
「ナシアスの屋敷だよ」
「ナシアス様の?」
目を丸くするシェラ。
「どうして……?」
「とりあえず、中に入ろう」
──手遅れになると困る、とは内心に隠し、リィはシェラを促した。
ノッカーを叩いても反応がない。
ヴァンツァーがしたのと同じように、リィは扉を開けた。
「王女様?」
シェラが心配そうにリィを見つめる。
リィはにっこり笑った。
「何か咎められたら、おれの顔で勘弁してもらうさ」
「……」
確かに、王女のすることならば大抵のことは許されるだろう。
シェラはリィに手を引かれ、屋敷の中へ入った。
僅かに灯りの漏れている部屋が見える。
微かに聞こえてくるのは──。
「──あっちか……」
焦燥の見え隠れするリィの横顔に不安を覚えながら、シェラはリィとふたり大広間へ入った。
「──ご主人様!」
そこには、いつぞやと同じく剣を携えた主人の姿。
違うのは、相手をしているのがレティシアではなくてファロット公爵であることと、その公爵も真剣を携えていること。
シェラの声に、ヴァンツァーが間合いを取って脚を止めた。
「ありゃま。始まっちまってたか」
緊張感のない声でレティシアも大広間へと入ってきた。
「伯爵様、止めて下さい!」
必死の形相でレティシアに縋りつくシェラ。
こんな場所での剣戟の応酬が、訓練でないことくらい分かる。
それに、ヴァンツァーの表情はレティシアに向かっていったときと同じだ。
本気で、殺すつもりでいる。
「無理だな」
「そんな──伯爵様は、国一番の使い手なのでしょう?!」
肩を揺さぶらんばかりのシェラに、ふと視線を落とすレティシア。
「──まぁ、もうちょっと見てな」
「そん──」
絶望に打ちひしがれるシェラの前で、再び鋼の鳴る音が聞こえ出した。
あまりの速さに、シェラの眼はふたりの動きを追うこともできない。
青ざめた顔でカタカタと震え、思わず、といった感じでリィの袖を引く。
「……どちらが、お強いのですか……?」
「公爵」
一言きっぱりと答えが返ってきた。
その途端、大きな音がしてヴァンツァーが床に倒れた。
「ご主人様!」
飛び出そうとするシェラを、レティシアとリィが両側から留める。
「──放して下さい!」
「お前が行っても斬られるだけだ」
「見てなって」
力を入れているように見えないふたりの拘束が解けず、シェラはただ固唾を呑んで倒れた主人を見ることしかできないでいる。
床に膝をついた状態のまま肩で息をしているヴァンツァーに、公爵は悠然と歩み寄った。
「ふむ。この程度か。思ったほどでもない」
「……」
ギリッ、と歯噛みするヴァンツァー。
「何をそう熱くなることがあるのか……」
憐憫に近い微笑みすら浮かべる公爵の前で、ヴァンツァーはゆっくりと立ち上がった。
脇腹に鈍痛が走り、顔を顰める。
「私の言う通り、大人しく王女と結婚すればいいものを」
嘆かわしい、と大仰に肩をすくめてみせる。
「一国の王女と奴隷とでは、その身の価値が違う」
厳かな声で言い切る公爵に、ヴァンツァーは薄笑いを浮かべた。
「──……結婚、しますよ。王女と」
「ほう……?」
公爵のみならず、この告白にはシェラも目を瞠った。
「それで文句はないのでしょう?」
「どういう心境の変化だ? やはり男どもの手垢にまみれた奴隷は嫌か」
ちらり、と視線を送られ、シェラは大きく肩を震わせた。
す、っとリィがその背にかばう。
シェラは耳を塞いだ。
「別に。あなたには関係ない」
柄を握り直し、ひた、と公爵の目を見る。
「関係なくはない。お前は王女と結婚して公爵家を継ぐのだから」
「だったらとっとと引退して下さい」
「その程度の腕しか持たないお前に、まだ爵位を譲るわけにはいかないな」
「──そうですか……」
ヴァンツァーはすい、と剣を持ち上げた。
公爵の剣に軽く触れ合わせ、鋼が鳴った瞬間、ふたりは距離を取った。
そのまま、動かない。
「……へぇ」
リィが感嘆の声を上げる。
「さすがだね。分かるかい、王女さん」
「当たり前だ。眼が違う」
レティシアとリィのやり取りの意味が分からず、おろおろとするシェラ。
そんなシェラの様子を汲み取ったレティシアは、細い肩に手を置くとヴァンツァーの方を見るように言った。
「俺も一度しか見たことがない」
「……え?」
「ああいう眼をしているヴァッツをさ」
「眼……ですか?」
視線を主人に投げるが、普段と何が違うのか分からない。
いつものように静かで、穏やかな藍色の瞳だ。
呼吸すら止めているのではないか、と思えるほど、微動だにしない長身。
「行く──」
リィが呟いたその瞬間。
──風が、動いた。
眼を凝らしていたというのに、シェラには何が起きたのか分からなかった。
「あの眼をしているヴァッツは──」
次の瞬間には対峙していた公爵とヴァンツァーが背中合わせに離れた位置に立っているのが分かっただけ。
傾いだのは────公爵の身体。
「──俺より、速い」
レティシアがいっそ嬉しそうな声音で解説した。
公爵は床に膝をついて腹部を押さえて呻いている。
シェラはほんの僅かにほっとして息を吐いた。
親殺しが大罪であることは自分も知っている。
そもそも、このふたりがどうしてこんなことをしているのかが分からないシェラにとって、ヴァンツァーが咎められない状況こそが何よりも大事だった。
「……手加減していた、というわけか?」
剣戟が来るのだろうと思っていたが、まさかそれが蹴りだとは──そんなことは抜きにしても、あの速さではとてもではないが反応できないが。
ヴァンツァーはふ、と笑った。
「むしろ逆ですね……」
「逆?」
「初めはあなたを殺そうと思っていた。それを、やめただけです」
分からない、という風に首を振る公爵。
「なぜだ」
まだ立ち上がることのできない公爵に一瞥をくれるヴァンツァー。
ゆっくりと歩み寄り、そしてその横で立ち止まる。
「──……あなたにも、王女をないがしろにしてまで手に入れたかったものがあったと気付いたから……ですかね」
「……」
再び歩き出したヴァンツァーは独り言のように呟いた。
「……ただ、シェラに泣かれたくなかったからかも知れませんが……」
どちらも分かる気がして、公爵は口許に笑みをたたえた。
腹部に感じる痛みはまだ続いているが、そう気分は悪くないから不思議だ。
似ているところなどないと思っていた息子は、存外自分に似ているのかも知れない。
「……何の、騒ぎです?」
躊躇いがちな声に、大広間の入り口を新たな人物に開ける王女たち。
「ナシアス……」
「……サリ?」
不思議そうに声を掛けたナシアスは、床に膝をついている公爵のもとへ軽く駆けて行った。
部屋着でいることからも、ナシアスが目覚めてさほど時間が経たないうちにこの場へやってきたことが分かる。
「……怪我、でも?」
「いや……大事ない……」
立ち上がろうとした公爵を支えるナシアス。
「……そう、ですか……」
ナシアスの手が、公爵の腰へと添えられる。
「──おい!」
突如、リィが声を上げる。
シェラたちのもとへと歩を進めていたヴァンツァーが、振り返る。
振り返った先には、公爵を支えて立っているナシアスの後ろ姿。
何ということはない光景なのに、どういうわけか違和感を感じた。
この屋敷に入ったときに感じたものと同じ。
「……父上……?」
思わず呟いたヴァンツァーの視線の先で、公爵の身体がずるり、と落ちた。
不思議そうにナシアスを見上げる公爵。
公爵を見ることもなく、ただ前方に目を向けているナシアス。
その柔和な美貌に光るものが見えたそのとき、公爵の鍛えられた身体は床に伏した。
その腹部からはおびただしい量の鮮血。
立ち尽くすナシアスの右手には、公爵の腰に差してあった小太刀が握られていた──。
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