しばらく、誰も動けなかった。
だらり、と小太刀を握った手を下ろしているナシアス。
その手の下で、公爵が一度咳き込み吐血した。
まるでそれが合図だったかのように、ナシアスはしゃがみ込んだ。

「──すぐに、逝きますね……サリエラ」

穏やかな笑みを浮かべ、瞼を閉じて小太刀を己の喉下に宛がう。
勢いをつけ、刃を突き立てる。
この人ひとりを死なせはしない。
かといって己ひとりが死ぬことも躊躇われる。
この人が、自分以外の人間を選ぶことなど、耐えられない。
それならば、いっそ……。

「……ご主人様……?」

茫然としたシェラの声に、ナシアスは目を開けた。
刃物で身を切る熱がやってこないと思えば、それも当然のこと──ヴァンツァーが抜き身の刀身を握っていたのだから。
滴る血液が、ナシアスの服を汚す。
さすがにヴァンツァーの秀麗な美貌は苦痛に歪んでいた。
だが、ヴァンツァーが動いたことでリィとレティシアも呪縛を解かれた。

「──ちっ! レティー!」

シェラを背に庇うようにして叫んだリィに応えるように、レティシアが室内に入る。
愛用の薬箱を手に、部屋の奥へと走る。
彼が箱を広げたのは、ヴァンツァーではなく公爵の横だった。
服を裂き、傷口にありったけの消毒液をかけ、手早く処置を施していく。
ナシアスは、ただぼんやりとヴァンツァーを見上げている。
どうして彼が自分の死を止めたのかが分からない。
彼にとって自分は邪魔でしかない、しかもシェラをむごい目に遭わせた人間だというのに。

「……あ……どうして……?」

上手く呼吸できず、喘ぐように震える唇を動かす。
すぐそこでは、愛する男が息を引き取ろうとしている。
自分も後を追わねばならないのだ。
しかし、刃を握っている青年の力が自分よりも強いのか、小太刀はびくともしない。
間近でむせかえるような血のにおいがし、はっとして柄から手を離す。

「──ヴァンツァー様!」

今度こそ、シェラはヴァンツァーのもとへと飛んできた。
ブローチを外してスカーフを抜き取り、ざっくりと深い傷を負った主人の手に巻きつける。

「シェラ、汚れるから……」
「あなたの手の方が大事です!」
「……」

つい先程まで真剣勝負をしていた人間の目とも思えない、戸惑いに満ちた瞳をシェラに向けるヴァンツァー。
止まろうとしない流血に涙を流しながら、シェラはヴァンツァーの手を握った。

「が、我慢して下さい……痛いでしょうけど……血が……」

シェラの方が貧血で倒れそうな青い顔をしている。
ヴァンツァーは小太刀をリィに手渡した。

「ちっ! 王女さん、敷布でも何でもいい! ありったけ持ってきてくれ!!」

公爵は腹部からの出血が止まらず、もとから白い肌をしていたが、今は青いのを通り越して土気色をしている。
リィは短い返事を返し、ナシアスに寝室の場所を訊いた。

「……」

ぼぅっとしているナシアスの横っ面を引っ叩く。

「──栄えある騎士にこんな死に方をさせる気か?!」

細い身体のどこから、そんな大音声が出るというのか。

「……」

ナシアスは、太陽のような金色の髪に、燃え盛る炎のような緑の瞳をじっと見つめた。
そして、ささやくようにちいさな声で寝室の場所を教えたのである。
リィは駿馬の如く駆け出した。

「……悪くない同盟者だな……」

どこか楽しそうなヴァンツァーの呟きを聞き取ったシェラが、汗の滲んだ主人の顔を覗き込む。

「……あの……?」

視線を落としたヴァンツァーは、何でもない、という風に微笑んでやった。

「これくらい、すぐに治る」

そう言って、涙に濡れたシェラの頬を拭ってやる。

「……本当に……?」

また新たな涙が浮かんできて、ヴァンツァーは人を殺したときより胸を痛めている自分の心情に苦笑した。

「……どうして、利き手で……」

レティシアの必死の処置を受ける公爵を、どこか他人事のように眺めながら呟くナシアス。

「別に。咄嗟に出たのがこちらだっただけだ」
「しかも刃を直に……」

僅かな間の後、ヴァンツァーはシェラの手が重ねられている己の右手に視線を落とした。

「──どうせ、もう血に濡れている……」
「え……?」

ナシアスとシェラが、ほぼ同時にヴァンツァーを見た。

「レティー!」

そのとき、リィが両腕に敷布を抱えて戻ってきた。
細く引き裂くように指示を出すレティシア。
見たこともないくらいに必死なその表情に、シェラはしばらく見入っていた。

「……無理だよ」

レティシアに向かって呟くナシアス。

「急所を刺したんだ。その出血量では、いくら鍛えているこの人でももたない……」

確実に死ぬように、わざわざ刃を抜いたのだから。
いくら若くして名医の名を欲しいままにしているレティシアによる迅速な処置があろうとも、助かるはずがない。

「……一緒に、死なせてくれれば良かったのに」

責めるようにヴァンツァーを見上げるナシアス。
ヴァンツァーはおもしろくもなさそうに鼻を鳴らした。

「お前の命になど興味はない」
「だったら──」
「だが、お前が死ねばシェラが泣く」
「……」

思わず目を瞠ったシェラだ。

「ヴァンツァー様?」
「死を望んでいる人間に安楽な死を与えてやるほど、俺はできた人間じゃない」

黙っているナシアスに、ヴァンツァーはもう一言付け加えた。

「それに、お前の命はサヴォア公に預けた、と言ったはずだ」

さすがにその名には肩を揺らすナシアス。

「どうしても死にたいなら、サヴォア公の了解を取ってから死ぬんだな」

ナシアスは消えてなくなりそうな、儚い笑みを浮かべた。

「……だから、今この人と一緒に死にたいのに……」

視線の先にとらえた、血に染まっても美しい唯一絶対の主の顔に苦痛の色はなく、どこか穏やかな表情をしていた。


『グリンディエタ王女との結婚を条件に、ファロット公爵家のあらゆる家督及び公爵位をヴァンツァー・ファロットに譲るものとする。以降、小生サリエラ・ファロットは軍を辞し、隠居の身となり、余生を送るものである。然れども、王国の発展に資するため、有事とあらば力の限り尽力せんことを誓う。』

以上のような文面の手紙が、ファロット公爵の愛馬によって公爵家に届けられた。
その三日後、今度は公爵の訃報が、届けられたのである。

家督を継いだヴァンツァーにより、葬儀は滞りなく行われた。
人はその死に際して、どれだけの人間が涙を流すかで、その人徳が説かれるという。
国内有数の名門であり、大貴族であったことを除いても、サリエラ・ファロットという人物の国内における評価というものは高い。
政治家として、また軍人として、国内において最高の評価を受けるのは国王である。
故ファロット公爵はその国王にも次ぐ評価を受ける人物であった──ただ、有能な政治家が有能な家庭人である保証がないだけである。
その葬儀には、国王初め多くの人間が訪れて然るべきであった。
──しかし、跡を継いだヴァンツァーの意向により、ファロット公爵は密葬に付された。
公爵という地位にあった人物の葬儀としては異例のことであったが、その死因を鑑み、何よりも家名と名誉を重んじていたファロット公への、せめてもの餞といったところだろうか。
その死因も、レティシアの口によって本来のものとは異なるものが国王に告げられた。
そうはいっても王国の最高権力者を謀ることは大罪である。
国王に真実を告げた上で、その事実を隠匿して欲しいと願い出たのである。
良き相談相手であり、軍人としては先輩であるファロット公の死を悼んだ国王は、その申し出に頷いたのである。
密葬されたとはいえ、ファロット公の墓に花を手向けるものは少なくない。
その身分に恥じない立派な墓の前には、墓を覆いつくさんばかりの純白の花が献花されている。
公爵の死から数日後、日が落ちた頃、人目を憚るようにしてその墓を訪れた人物がひとり。
ただし、一輪の花も、その手には見受けられない。

「──ようやく、か」

聞き慣れた、豊かに響く低い声に、肩を揺らして振り返る。

「手向ける花も持たんとは……。随分と薄情なのだな──ナシアス?」
「……バルロ……」

闇に閉ざされた木陰から、立派な体躯の青年がひとり現れた。

「それとも、今度こそ死ぬつもりだったか?」
「……」

きついまなざしで睨むように見つめてくる視線に耐えられず、ナシアスはすい、と目を逸らした。

「お前の力量を惜しんだ国王陛下、表沙汰にしないよう尽力した王女殿下、レティシア伯や新たなファロット公爵の顔にまで、泥を塗るような真似を平気でする男だったのだな、お前は」
「……」

視線を逸らしたまま、きつく眉根を寄せるナシアス。
この唯一無二の親友に罵られるのだけは耐えられないから、隠れるようにこの場へ来たというのに。
もう『友』と呼んでくれた時間は戻ってこないのだとしても、自分の中では変わることない位置にいる男だから。

「朴念仁だと思っていたが、思いの外隠し事が上手かったのだな」
「バルロ」

思わず顔を上げた。
隠していたのは事実だが、それはあの方の立場を考えればこそ。
名門貴族が表立って男を囲っているなど、外聞が悪い。
そう思って見遣ったバルロの表情が泣き出しそうな子どものようで、ナシアスは水色の瞳を瞠った。

「……バルロ?」
「手紙の内容を、知っていたのか?」
「……手紙……?」

不思議そうに目を丸くする男を見て、バルロは重いため息を吐いた。

「訃報の数日前、公爵家に届いた手紙だ。ヴァンツァー殿に家督を譲り、自分は隠居する、というファロット公直筆の」
「──……」

ナシアスは、呼吸を止めた。
瞳は限界まで見開かれ、耳に直接心臓の音を聞いている。
手足はガタガタと震え、今にも崩れそうな青い顔をしている。
その有様を見て、バルロは盛大な舌打ちをした。
本人が死んでしまった今となっては確認のしようもないが、引退には程遠い四十代のファロット公が何を考えてそんなものをしたためたかは明らかだ。

「そんな……それじゃあ、私は……」

張り付いた喉から、ようやくそれだけの言葉を搾り出したナシアス。
涙すら流れない。
喘ぐように、上手く呼吸のできない肺に空気を送る。
ぎこちない足取りで数歩進み、公爵の墓の前にガクリ、と膝をつく。
ペタッと冷たい墓石に手を置く。

「……ど……して……」

何も言ってくれなかったのか。

「どう……して……っ」

あの人に刃を向けてしまったのだろう。
涙を流すこともできずに慟哭する親友の背を、バルロは静かに佇んで見つめていた。


ナシアスの屋敷より戻ってからというもの、シェラはそれまで以上に塞ぎ込んでいた。
ヴァンツァーが家督を継いだため、現在は公爵邸に住まいを定めている。
それでも本館ではなく別館に身を置いており、気心の知れた使用人たちの間で穏やかに暮らせるはずだというのに。
前公爵の葬儀が済んで喪が明ければ、ヴァンツァーは王女と結婚するのだという。
屋敷の内部も、相反するできごとの連続に忙しなく動いている。
それなのに、シェラは与えられた部屋から出ることもままならず、家事を手伝うことなどとてもできない状態にある。
それまでに受けた仕打ちを鑑みてヴァンツァーは何も言わない──それどころか、シェラには休息が必要なのだ、と家人にもよく言い聞かせている。
己の立場を考えれば何もしないでいることなど許されないと分かっていても、傷も痣もとうに癒えたのだとしても、シェラはほとんど寝台から起き上がることができない。
カリンなどはひどく心配し、料理長に消化の良い特別な食事を作らせたりもしている。
──そんな人々の気遣いは感じているものの、シェラはため息を零すことしかできない。
あの人は、やはり王女と結婚なさる……嬉しいことのはずなのに、どうしてこんなに胸が痛むのだろう?
主人が幸せになれることこそ自分の幸福だと思っていたシェラは、心からふたりの結婚を祝福できない自分がいることに気付いた。

「奴隷のくせに……」

王女を妬ましく思うほど、あの人を恋い慕っているとは思っていなかった。
レティシアもリィも、シェラの様子を見に頻繁にこの屋敷を訪れる。
しかし、会うことは会っても、最近まともにリィの顔が見られない。
先程も、見舞ってくれたふたりと二言、三言交わしただけ。

「……もっと、遠くなったのに……」

今では立派な公爵位にある主人。
愛しくは思っていても、それはやさしい主人に対する思慕の情なのだ、と思っていた。
欲望を覚えたのだとて、あの人があまりに魅力的だからなのだ、と。
その隣にいるのが自分でなければ嫌だと思うほど、あの人に恋しているとは思ってもみなかった。
この想いを自覚してしまうことが、こんなにも苦しいことだとは知らなかった。

「……当たり前のことなのに……」

あの人が王女を選ぶのは当然。
公爵家の存続を考えれば、この縁談を断る理由がない。
ほんのひと時でも、自分はあの人を独占できた。
もう、それで良いではないか。
あの幸福だった日々を胸に、あの人を送り出そう。
──そう思い、シェラは微笑もうとした。

「──……できない……」

紫の瞳から、大粒の涙が零れた。
笑顔であの人を送り出すなんて、できそうもない。
あの人はやさしいから、きっと結婚してからも自分を屋敷に置いてくれる。
王女も、奴隷である自分を抱きしめてくれる稀有な方だ。
ふたりとも大好きだけれど、そのふたりが幸せに暮らしている姿など、目の前にして自分は暮らせない。

それならば、いっそ──。

涙を拭い、シェラは主人たちのいる居間へと向かった。

「シェラ」

ヴァンツァーは微笑んでシェラを迎えようとし──けれど、シェラが手にしたものを目にしてその美貌が強張る。

「……シェラ?」

乾いた声で呟く主人の前で、シェラは自分の喉に小刀を宛がい、震える声で訊ねた。

「私が死んだら、涙を流してくれますか?」

白い喉元に、鋭い切っ先。
馬鹿なことをしている、と思う。
それでも、ナシアスのしようとしていたことが手に取るように分かる。
自分は、ヴァンツァーも一緒に、と思うほどの思い切りがないだけ。
この人に刃を向けることなどできないし、もしも向けたところでこの人が自分相手に手傷を負うわけがない。
だから、もし自分の死でこの人が悲しんでくれたら……それで、もう満足しよう。
カタカタと震える手で刃を握るシェラの前で、リィとレティシアは目を丸くし、ヴァンツァーは目を眇めた。

「──やれよ」

シェラの想いとは裏腹に、ヴァンツァーの口からは一言それだけが零れた。

「おい!」

リィが掴みかからんばかりの勢いでヴァンツァーに詰め寄る。
しかし、藍色の瞳が黙っていろ、と訴えてきて言葉を飲み込んだ。

「死にたければ死ね。お前の死に流す涙はない」
「……」

冷たい主人の言葉に、我慢しようにも涙が競りあがってくるのをシェラは止められないでいる。

「だが、忘れるな」

決して大きな声ではないが強い声音に、シェラの眉宇がひそめられる。

「──お前が死んだら、俺も死ぬ」

リィとシェラの目が瞠られる。
レティシアひとりが表情を変えない。

「残念だったな。お前が幸せになって欲しいと思っている俺は、お前が死んだ直後に命を絶つんだ」

皮肉げな笑み。
だが、冗談を言っているのでないことは明らかだ。

「……ヴァンツァー様……」
「それでもいいなら、死ねよ」

シェラは唇を噛んだ。
そんなことを言われて、どうして喉を突くことができるだろう。

「……ずるい……」
「────ずるいのはどちらだ」

思いがけない険しい声に、シェラはビクリと肩を震わせた。

「お前は俺のものだと言ったはずだ。それなのに今は勝手に死のうとしている」
「……」
「一緒に生きてもくれないくせに、死んだら悲しめ? ふざけるな。お前が俺に許したのは、好きでもない女と結婚して、表向きは幸せそうな家庭を築けということだけだ」
「……」

形の良い唇が、三日月型に吊り上げられる。

「──身分の差が気に入らないなら、俺が奴隷に落ちてやろうか?」

ぎょっとして思わず小刀を取り落とし、ヴァンツァーに駆け寄るシェラ。

「やめて下さい!」
「それなら俺が引き上げてやる」
「……ヴァンツァー様?」
「自由人にも、貴族にも」
「何を……?」
「俺は王女と結婚する」
「……」

もう一度その事実を聞かされただけなのに、なぜかそう言われた瞬間シェラの目には涙が浮かんでいた。
その表情に目を眇めたヴァンツァーの代わりにリィが口を開く。

「安心しろ。偽装結婚だよ」
「……偽装……?」

シェラの顔が訝しげに歪む。

「いや、実際には結婚するんだろうけどさ……。おれは結婚なんかしたくないけど、いつまでも逃げおおせるわけじゃない。だったら、とっとと黒いのと結婚するだけして、あとは勝手気ままに暮らすってわけだ」
「王女様、そんな──」
「その代わりに、おれはシェラを自由人にする」
「……」
「──ま、等価交換、って感じかな」

別に、偽装結婚などせずともただシェラを自由人にすることもできる。
人身売買や奴隷制度に異を唱える国王が、反対するとも思えない。
それでも、ヴァンツァーとリィの間ではそのように話が纏まっている。
あっけらかんとすさまじい告白をされ、シェラは目を白黒させた。
しばらく放心状態にあったが、はっとすると主人に険しい顔を向けた。

「──ヴァンツァー様!」
「シェラ、お前の言葉は聞かない」
「……」
「俺は、俺が幸せでありたいからお前を傍に置く。──お前の願いは、それで叶うのだろう?」
「……」
「何か問題があるか?」

何もないだろう? と言いたげな自信に満ちた表情。
そんな顔と言い切られるような言葉を前に、シェラは返す言葉が見つからない。
人から命じられ、それに唯々諾々と従うのが当然の生活を送ってきたのだから。
ようやく、何とか形になりそうな台詞を探し出した。

「……お世継ぎは、王女様との間に……?」

ヴァンツァーはふっと笑った。
そんなことか、と言いたいに違いない。

「だ、そうだが、王女?」
「冗談じゃない! どうしておれがお前と子作りしなきゃならないんだ!」

身の毛もよだつ、といった感じで本当に鳥肌を立てているリィに目を丸くしたシェラだ。
こんなにも魅力的な主人の何が気に入らないのか、まったく理解に苦しむのだが、王女相手にはっきりそんなことを言うわけにはいかない。

「養子縁組しても構わんし、別に家になど興味はない」
「ヴァンツァー様!」

今度こそ、シェラはヴァンツァーに縋るように掴みかかった。
公爵亡き今、ファロット公爵家の家督はヴァンツァーひとりの肩に掛かっている。
兄弟のいないヴァンツァーは、跡目を譲ることもできない。
その上世継ぎがいないのでは、本当に公爵家は断絶してしまう。

「あなたは何でも手に入るのに!」
「煩い、喚くな」

冷ややかな声音に、シェラは思わず身を竦ませた。

「……」
「俺は、穏やかに話しているお前の声が好きだ」

一瞬前とは打って変わって微笑まれ、そんな場合ではないと言うのに思わず頬を染めるシェラ。
レティシアとリィが胡乱気に眉を跳ね上げた。

「女遊びしねぇくせに、意外と誑しだねぇ。──飴と鞭を心得ていやがる」

内心、親父さん譲りなんだろうけど、と呟くレティシア。

「浮気しない一途な旦那なんて、理想的じゃないか」

その『旦那』が自分の夫となることはどうでもいいらしい。

「ウザくてお嬢ちゃんの方が浮気したくなったりしてな」

こそこそと笑いあうふたりの声は、しかしもうふたりの耳にはしっかり入るように計算されている。
それでも、シェラとヴァンツァーは互いにしか意識を向けない──向けられない。

「……もし、嫌だと申し上げたら?」
「別に。またあの屋敷に閉じ込めて、今度こそ鎖に繋いで毎晩抱くよ」
「──っ!」
「それでも俺が幸せだったら、お前も満足なのだろう?」
「……」
「もちろん、今度は一瞬たりとも目を離さない。自殺なんかしたら俺も死ぬし、お前が食べなければ俺も食べない」
「そんなの……傲慢です」
「知っている」
「……」
「ほら、早く頷け。お前の答えは分かっている」
「……どこから、そんな自信が……」

勢いがない声音、忙しなく揺れる菫の瞳。
シェラの問いには答えず、ヴァンツァーは微笑した。

「言えよ」
「……」
「俺を、愛しているのだろう?」

いつだったか、レティシアの言っていた台詞が思い出される。

──あいつはお前を絶対に裏切らない。嘘も吐かない。

拠り所がレティシアの言葉だというのが情けないが、それでも、賭けてみたい。
シェラは眉を寄せ、唇を噛んで拳を握った。

「……私は奴隷です」
「自由人にしてやると言った」
「……身体だって」
「他の男と比べられるのは癪だな」
「そんなこと──」
「いいから、早く認めろ」

強制しているのに、その声音があまりにやさしくて。
シェラは必死に拳を握り、手のひらに爪を立てた。

「──……きっと、あなたはすぐに飽きるんです……」

生涯一度きり、と思って愛した人が自分のもとを離れていくというのは、どれほどの苦痛なのだろうか。
ナシアスはその恐怖に怯え、そんな未来が訪れないようにあのような行動を取った。
この人がそうはならない、と言い切ることができるだろうか。

「……売られていた奴隷が、珍しいだけ……」

自覚してしまった今となっては、さっさとこの人のもとを離れてしまった方がきっと楽だ。
そんなシェラの心境とは裏腹に、何がおかしいのかヴァンツァーはちいさく笑った。
顔を上げるシェラ。

「そのときは、レティーか王女が俺を殺すさ」

さすがに紫の目を瞠る。

「え……」
「俺が死んでも、お前はどちらかのもとに引き取られて不自由なく暮らす。──それだけだ」
「……」

ヴァンツァーはやさしくシェラの頬を親指の腹で撫でた。
短くなった髪を梳き、耳朶に触れ、もう一度頬に手を添える。
その手には、まだ痛々しくも白い包帯が巻かれている。
素肌が触れ合わない、布の、ざらついた感触。

「……」

視線の端にその手を認めたシェラに、ヴァンツァーは、甘く、ささやいた。

「──お前は、ただ愛されることだけ考えていればいい」

およそ自分に対して使われるものではない言葉に、シェラはぎこちなく顔を動かした。
目の前のある美貌は、真摯な瞳でありながらやさしくて……。

「……」

みるみるうちに紫の瞳に涙が溜まり、我慢しきれないシェラが眉を寄せたのをきっかけに溢れ出した。
その涙に口づけ、啜り、宥めるように額にも唇を落とす。
体温が上がっていくのを、シェラは他人事のように感じていた。
頬が、熱い。
頬だけではない。 ヴァンツァーに触れられた部分が、例外なく熱を持っていく。
その熱を自分ではどうすることもできず、だから助けを求めるようにシェラはヴァンツァーに縋りついて泣いた。
シェラの細い身体をやわらかく抱きとめ、ヴァンツァーは銀髪に頬を埋めた。

「……俺は、お前が傍にいればそれで幸せだから」

頭皮に感じる吐息が熱く、低い声が震えているように思えたのはシェラの気のせいだろうか。

「だから……ただ傍にいてくれ」
「……」
「シェラ……?」

返事を促せば、しばらく躊躇った後にゆっくりと銀の頭が頷きを返してきた。

「──────シェラ……」

万感の想いを込め、ヴァンツァーはきつくシェラの身体を掻き抱いた。
骨の軋むような抱擁にも、シェラは泣きながら微笑みを浮かべた。
いつの間にか部屋にはシェラとヴァンツァーだけが残されていた。
どれだけ抱き合っていただろう。
どちらからともなく腕の力を抜き、顔を上げて互いの瞳の奥を覗いた。
いつかと同じ。
揺れる瞳の奥を探り合い、そのまま互いの唇を求めた。
初めは、躊躇って触れるか触れないか。
次は羽が触れるように軽く。
そして啄ばむように。
──やがて、吐息をぶつけ合うようになり、唇を開いて相手を迎え入れた。
ふたりの間で深く口づけが交わされたのはこれが最初。
粘膜が直接触れ合う感覚は、初めて口づけたあのとき以上の陶酔をもたらした。
次第に速くなる鼓動を共有するように胸を合わせ、もっと近くに互いを引き寄せ……。
それ以外の行為など知らないかのように、ふたりはただ、口づけだけを交わした──。  




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