──この街が、……とても、苦手。
街というよりは、雰囲気──空気なのかも知れない。
それなりに大きな街だから、休日には多くの若者で賑わう。
高層ビルもあれば、瀟洒な構えの店もある。
飲食するにしろ、遊ぶにしろ、買い物をするにしろ、この街で何かを手に入れようとして困ることはさしてない。

──それは、快楽でさえも。

もしかしたら、それは一番手に入れやすいものなのかも知れない。

「……」

駅から自宅への道を辿り、シェラはため息を吐いた。
通い慣れた道だというのに、まったく心が休まらない。
眼を閉じても帰れそうなほど毎日毎日通っている道で、本当に眼を瞑りたくなっている自分がいる。
──正確には、眼を『背けたい』のだ。
毒々しいネオンと、安っぽい、けれど無駄に豪奢な造りの建物たち。
傍を通るのも恥ずかしい、だなどと純情ぶるつもりは毛頭ないが、それでも、そういった建物はできるだけ視界に入れないようにして足早に通り過ぎる。

「……まだ……」

こんな街、さっさと離れてしまえばいいのだ。
ここに留まる理由はない。
職場へも二時間近くかかるのだから、もっと通勤に便利な場所へ引っ越せばいい。
ただでさえ億劫な春休みの通勤。
部活動に勤しむ生徒のために、いつも通り学校へ行かなければならないかったるさ。
通勤時間が長ければ、苦痛は更にひどくなる。
今住んでいるマンションは借家であって持ち家ではない。
それなのに、まだ自分はここにいる。
離れられないわけではないと思う。

「感傷だ……」

もうひとつの可能性を思い浮かべ、自嘲気味に唇を歪める。
ふ、と脳裏を過ぎる面影に、胸が痛んだ。
もう半年以上経つというのに、自分はここから動けないでいる。
住処という意味でも、────けじめをつける、という意味でも。

「……」

シェラは、美しい。
長い銀髪はいつも無造作に纏めてあるが、仕事が終われば清流のごとく背に流す。
その少女のような白皙の美貌も、誰もが振り返るほどに際立ったものだ。
そして、吐き出された嘆きのため息は、その美しさを更に深みのあるものにする。
華やかでありながら、どこか、影のある雰囲気。
夜の闇の中で、光を求める羽虫たちの格好の餌食となりそうな存在だった。
先ほどから、舐めまわすような不快で不躾な視線が付きまとっている。
金曜の夜ともなれば、人通りはぐっと多くなる──その分、ギラギラと光る双眸も数を増す。
いつものことだ。 好きでこんな容姿をしているわけではないというのに、昔から人が自分を見つめる視線というものは、大抵こんなものだった。
その視線を振り切りたくて、シェラは脚を早めた──そうしないと、今日はその視線に掴まってしまいそうな気がしたのだ。
駅から家までの道がホテル街というのはいかがなものか。
職業柄、あまり望ましい住居環境とは言い難い。
そんなことも、頭では解っている。
──と、俯き加減で歩いてはいたが、何とはなし、視界の先に映った姿に意識が向いた。
ホテル街だというのに学習塾も多いこの界隈だから、予備校などに通う学生かも知れない。
視線を向けられていることは分かる。
しかし、他の人間と違ってべっとりと張り付くような視線ではなかった。
だから目を向ける気になった──否、そんなことを考えることもなく、シェラはほとんど無意識のうちにその人物を視界に入れた。

「──……ぁ」

呟き、立ち止まる。
ことあるごとに思い出してしまう人物がいたわけではない。
その人に、よく似た姿をしていたわけでもない。
ただ、見知った顔だった、というだけだ。
しかし、『だけ』と言い切ってしまうには、自分の職業も、また彼の身分も、気づかなかったふりをして通り過ぎることのできないものだった。
彼が、予備校の類から出てきたのならば軽く挨拶をして別れることもできたろう。
しかし、そうではなかった。
確かに学習塾の看板も眼に入るが、彼が出てきたのはその隣──明らかに、情事のためだけに設けられた場所からだった。
目が合って、立ち止まる。
素晴らしい美少年──否、もう既に青年の域に達しているかのような、深い知性と落ち着きを感じさせる抜群の容貌だ。
闇に溶けるような黒髪と、夜空のような深い藍色の瞳。
色白でありながら脆弱ではない、細身だがしっかりとした身体つきの長身。
黒のパンツとシャツに身を包み、本当に闇に溶けてしまいそうな色彩をしているというのに逆にくっきりと浮かび上がって見えるのだから、どういう存在感をしているのか。
直接話したことはないが、シェラの職場である私立高校では、明晰な頭脳で有名な生徒だった。

「……ヴァンツァー・ファロット……」

思わず彼の名を呟いていた。
ホテルからひとりで出てきた彼だったが、先に出てきたのか、後から出てきたのか、どちらにせよ本当にひとりだったわけではないはずだ。
シェラと視線を絡ませた彼は、焦る素振りすら見せず薄く微笑んだ。
背筋が震えるような、凄まじい艶だ。
シェラを、自分が在学する学校の教師だと認識した上での行動。
むろん、自分がラブホテルから出てきたところを見咎められたのだということも、把握している。
そうして、動けないシェラの前で懐に手を伸ばすと、煙草のボックスとライターを取り出した。
明らかに、大人びているとはいえ高校生が持っていてはいけないものだ。
しかし、シェラはそれを注意することもできない。
ただ、彼が形の良い唇にそれを銜え、火を点けるのを眺めているだけ。
僅かに眉を顰める様子に脈が速くなったのは、教師として生徒を叱らねばならない場面に出くわしたからだろうか。
煙を深く吸い込み、吐き出した彼は、長い指に煙草を挟んだままシェラのもとへゆっくりと歩み寄った。

「こんばんは」

ヴァンツァー・ファロットという生徒は、成績優秀、眉目秀麗、その上品行方正で温和な雰囲気を持った、非の打ち所のない優等生だ。
その美貌と頭脳によるところが大きいのだろうが、彼の周りには人が集まる。
成績順にクラス内での役割を割り振られる学校だから、最優秀の彼は当然のように学級委員を務めている。
──その彼が、ラブホテルから出てきて煙草を吸っている。
きっと学校のどの教員に言っても一笑に付されるに違いない。
実際目の前にしているシェラだとて、別人ではないかと疑ってしまうくらいだ。
それくらい、シェラに掛けてきた声は、驚くほど冷ややかだった。
まるで、媚を売るくらいなら死んだ方がマシだ、と思っているかのように。
表情はほとんど動かさず、口許だけが嘲るように吊り上げられている。
それでいて、暗いわけではなく確かな存在感を持ってそこにいる。
目の前で見ると息を呑むほどに整った顔立ちをしていて、シェラは返す言葉もなく立ち尽くしていた。
不意に、青年が身を屈める。
そのまま、ぼんやりとしているシェラの唇に、青年のそれが押し当てられた。

「────……っ」

さすがに驚いて身を引こうとしたシェラだったが、相手はそれを許さず、大きな手でシェラの頭を押さえると口づけを深くした。
抵抗などないかのように口腔内を我が物顔で蠢く舌の感触に、シェラは眩暈を感じた。
久々のことだ、という意識よりは、ただ純粋に感じてしまっている自分に嫌気が差した。
擦り合わされる唇に、捕らえ、絡められる舌に、交わされる唾液に──微かに香る煙草の匂いに。
十歳も年下の男に与えられる口づけに、酔ってしまっている。
相手にもそれが分かったのだろう。
唇が離れる際わざと立てられた音にも過敏に反応してしまったシェラに、きつい目許を笑ませた。

「気に入ってもらえたみたいですね」

否定の言葉も返せないシェラの前で、ヴァンツァーは長いキスの間に灰に変わってしまった部分を落とし煙草を口に銜えた。

「……きみ」

顔を顰めて煙草を取り上げようと伸ばした手を、逆に捕らえられる。
自分よりひと回りは大きな手に、なぜだかぞくり、とした。

「つらそうだ」
「……」
「俺のキスに感じたから? それとも」

──忘れられない、男がいるから……?

大きく目を瞠ってから、しまった、と思った。
案の定、年下の男は普段学校では見られない微笑を浮かべた。
常に、能面のように貼り付けているやわらかいものではない──むしろ、野兎を前足で押さえつけて見下ろす肉食獣のそれ。
相手に緊張を強いる笑みだというのに、それはひどく魅力的だった。
そうして優秀な生徒は、顔を強張らせているシェラに提案をした。
──否、提案というよりも、それは。

「こんなところでお会いするなんて、偶然ですね──センセイ?」
「……」
「俺は、今予備校の帰りなんですけど」
「……」
「語学って、あまり得意ではない分野なんです」

嘘だ。
語学であれ、他のどんな教科であれ、彼が試験で一問以上間違えたという話は聞いたことがない。

「コミュニケーション能力が低いのかな、って……最近心配になっているところなんですけど」

怯えた目で自分を見上げてくるシェラに、ヴァンツァーはゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「悩める生徒の相談に、乗っていただけませんか……?」

そんな台詞を口にしながら、彼はゆったりと紫煙を燻らせた。




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