ゆるゆると、首を振った。
顔色が悪かったことは百も承知だ。
頷いてはいけない、と脳裏で警鐘が聞こえた。
だから、自分は頷かなかったはずだ。
むしろ、その場から一刻も早く逃げようとしていた。
実際、すくむ脚を鼓舞して、目の前の美貌から逃れようとしていたのだ。
後ずさり、そうして駆け出す。
彼の言葉が紡がれた通りの意図を持ってなどいないことは分かりきっていた。
だから、自分は頷いてはいけない。
幸い、この辺りに学校関係者は住んでいない。
生徒とホテルの前でキスをしていたことは、関係者には見られていないはずだ。
ここから逃げてしまえば、それで終わり。
学校で顔を合わせたときに多少気まずい思いをしようと、それだけのこと。
キス以上のことをしたわけではない。
やましいところは何もない。
もし見られていたとしても、年頃の少年のただの悪ふざけだ、と言えばそれで話は終わるだろう。
そう思い、シェラはヴァンツァーを振り切るようにして駆け出した──次の瞬間。
けたたましいクラクションと、視界を焼く眩いライト。
急ブレーキで道路とゴムタイヤが擦れる耳障りな音に頭が埋め尽くされた直後、
────シェラは意識を手放した。
瞼を震わせ、ゆっくりと目を開ける。
見たことのない天井。
二、三度瞬きをし、ぼーっと天井を見つめていると、自分の身に起こったことが思い出された。
天国にしては、随分と現実味がある。
病院にしては、特有の薬品の匂いがない。
明かりにしても、あたたかみのある白熱灯だ。
あの界隈にある、猥雑なホテルの内装とも異なる。
「……ここ……?」
呟き、また瞬きする。
「──あぁ、気がつきましたか」
聞こえてきた声に、目を瞠って跳ね起きる。
途端に、ひどい頭痛に襲われた。
思わず、額を押さえて低く呻く。
「横になっていた方がいい」
喉の奥で笑う声が近くなったと思ったら、ちいさくベッドのスプリングが軋む音。
反射的に顔を上げれば、そこにはやはり、妖艶なまでの美貌。
「……きみ……」
「逃げたかったのは分かるけれど、あの世まで逃げて逝こうとするのはどうかと思いますよ」
「……」
俯くシェラを許さないように、顔の横に流れる銀髪に指を絡める。
そのまま、頬に手を沿わせて上向かせた。
長い睫に縁取られた藍色の瞳が、正面から自分を見つめている。
それだけのことで、心拍数が上がる。
通った鼻梁も、形の良い唇も、どこにも一部の隙もない。
ただただ黙って見つめることしかできないでいると、青年は僅かに首を傾げた。
「眼は良い方?」
「え……?」
「今、裸眼でしょう? 学校では眼鏡を掛けているから」
「あ、あぁ……」
「伊達眼鏡と無造作に束ねた髪で、目立たないようにしていた?」
「……別に……」
ふい、と顔を逸らした勢いのまま、室内を見渡す。
しん、と静まり返った重い空気の感じで、壁の厚さが知れる。
やはり、安っぽいラブホテルではなく、それなりに落ち着いたシティホテルのようだ──まぁ、ラブホテルの中にもシティホテル並みに上品な構えのものもあるのだけれど。
あの辺りにこんなホテルがあったか、と訝しむ顔つきになったシェラに、青年は言った。
「こう見えて俺は結構親切なんですよ。騒ぎになるのは嫌だろうと思ったから、タクシーで」
金曜の夜、あの界隈は人通りが多いから、と告げる。
「騒ぎ……」
言われて、自分がこの青年に気を取られていたことに気づく。
死にかけたことすら、しばし忘れる程度には。
「嫌われたのかな、と思ってちょっとショックだったんですけど、あなた俺の顔は好きみたいだし」
「……」
「キスして気持ち良ければ、大抵カラダの相性もいいですから」
安心して下さい、とシェラをベッドに押し倒す。
「──ちょっ」
決して乱暴な仕草ではなかったが、さすがに菫色の瞳を瞠った。
「言ったでしょう? 横になっていた方がいい、って」
「それは」
『安静にしていろ』という意味ではないのか、と喉元まで出かけた言葉がキスで封じられる。
この青年の口づけが巧みなことは、先ほど嫌というほど実感させられた。
思考が奪われてしまうのも、時間の問題だろう。
しかし、自分は教師で、この子は生徒だ。
それも、同じ学校。
知らなかった、で済む話ではない。
「……っ……は、ぁ……」
長い口づけに、胸を大きく上下させる。
激しい鼓動をこの青年に対するときめきだと勘違いするほど子どもではないが、久々の感覚に身体が疼くのも事実だ。
「……知っている? あなたが今、キスだけでどんないやらしい顔になっているか」
「──っ、きみ!」
「そんなに溜まっていたんだ」
くすっ、と微笑むと、ヴァンツァーはシェラの頬をそっと撫でた。
それだけのことに、肌が粟立つ。
悪寒にも似た感覚が嫌悪でないことは、よく知っている。
「あなたの前の男は、そこまでして操を立てるほどイイ男だったんですか?」
「──……遊んでいる割には、マナーがなっていないな」
視線をきつくしたシェラを前にしても、ヴァンツァーは涼しい顔を崩さない。
「遊びじゃありません」
「悪いが、きみが特定の相手に本気になるタイプだとも思えないが」
「もちろん。金蔓相手に本気になるほど、俺は馬鹿じゃない」
「……『ウリ』を、しているのか」
はっきりと顔を顰めたシェラに、ヴァンツァーは薄く微笑んだ。
「美人が台無しだ」
「話をはぐらかすな」
「そんなことしませんよ。別にあなたから金を取ろうとも思っていない。──俺は、自分から積極的に金銭を要求したことは一度もありませんから」
ただ勝手に相手が金を置いていくのだ、と昏い瞳で告げる。
「まぁ、おかげで懐が潤っているのは事実ですけど」
「きみは……」
「──忘れたく、ないんですか?」
「……」
「あなたはただ黙って横になって、快楽に身を任せるだけでいい」
「……」
「それだけで忘れられるんですよ?」
「……随分な自信だな」
「おかげさまで、それなりの場数は踏んでます」
自慢した風ではなく、むしろ嘲るような口調。
「──あぁ。それとも、『忘れる気がない』んですかね?」
「……」
「だったら、俺のしようとしていることは、『ちいさな親切、大きなお世話』ってヤツですね」
また、嗤う。
人当たりが良く、温和な笑みを絶やさないこの青年が、自嘲的で温度の低い笑みを浮かべている。
その理由はシェラには分からなかったし、訊く気もない。
ただ、少し、気になる。
それだけだ。
「どうします?」
このまま仲良く腕枕でもして寝ますか?
本気か冗談か、そんなことを言う。
「それとも……」
シェラの脚の間に割って入った膝が、軽く、敏感な部分に触れた。
「──っ……」
ぴくん、と身体が跳ねた。
じんわりと、熱が生まれる。
先ほどのキスで一時熱くなっていたものが、また熱を取り戻す。
一気に頬に熱が上る感覚に顔を逸らせば、ヴァンツァーがにやり、と口許を歪めた。
「……まんざらでも、なさそうですね」
「私は」
「教師だから?」
「……」
「でも、教師だってもとをただせばただの男だ。腹も減れば性欲も覚える」
「……」
「我慢は身体に良くない」
くすくすと笑って、シェラのやわらかな耳朶に噛みつく。
おとなしくしているのを肯定の合図と取ったのか、ヴァンツァーは服の裾から手を忍び込ませると、シェラの耳元でささやいた。
「──I wanna make love with you.」
「……『to』、だろう?」
「古いな」
そう言って、ヴァンツァーはおかしそうに笑った。
「俺としては、『双方対等な立場で』、という意味を持たせたつもりだったんですが?」
「対等、ね」
鼻で笑ったシェラは、口端を吊り上げると年下の男に言った。
「どちらかといえば、『I need to get laid.』ってところだな」
「下世話だ」
「Sexに綺麗も汚いもない」
「雰囲気も大事なessenceだと思いますけど」
「……雰囲気、ね。まぁ、きみの発音は及第点だ」
「及第? その程度?」
言葉遊びのようなやり取りの間にも、ヴァンツァーはゆっくりとシェラの衣服を寛げ、白い肌に唇を落としていく。
「──痕は」
「つけませんよ」
子どもじゃあるまいし、という台詞に、シェラは苦笑した。
「まだまだ高校生のくせに」
「その高校生の愛撫に感じてるくせに」
ほら、と服の上から下肢を撫でられる。
確実に、そこは芯を持ち始めていた。
「これ以上苛めたら、服を汚しそうですね」
「……」
微かに、シェラの頬が朱に染まる。
「俺は困りませんけど」
「ちょっ──きみ!」
「色気がないな。もっと可愛く『──脱がせて』って、ねだって見せて下さいよ」
「そんなこと」
「出来るでしょう?」
言って肌を舐め上げる。
思わず漏れた声に、ヴァンツァーは満足気に目を眇めた。
「ほら。可愛くねだって、可愛く啼いて……俺を、熱くしてみせて……」
声音はやさしいくらいなのに、なぜか『出来るものならやってみろ』と突き放された気がした。
見つめた藍色の瞳が、ひどく醒めた色をしていたからかも知れない。
表情は微笑んでいるように見えるのに、眼だけが笑っていないような。
「……」
この子は、本音を明かさない。
それでいて、こちらの本心は簡単に暴いてしまう。
短い会話の中からでも、それは十分読み取れた。
笑みを絶やさないのは、内心を気取らせないため。
この子は、口にすることも、浮かべる表情も、すべてを繕っている。
もしシェラが言われた通りにしな垂れかかるような真似をすれば、その瞬間この行為に飽きてしまうような子だ。
だから、シェラはヴァンツァーの頬を両手で包み込むと、嫣然と微笑んだ。
これは、退廃的で不毛な、Gameなのだ。
擬似恋愛ですらない。
勝ち負けさえもない、言葉遊びのようなもの。
ならばとことんまで、楽しんだ方がいい。
「──私のカラダに溺れるなよ、High school君?」
一瞬目を瞠ったヴァンツァーは、直後おかしそうに喉を震わせた。
「Sure. ──……今夜が、あなたの忘れられない夜になるよ……」
──息が出来なくなるほどの口づけで、長い夜の幕が開いた。
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