春休みが明けて、四月。
桜は既に散りかけているとはいえ、麗らかな春の陽気が心地良い──はずだった。
始業式が終わり、生徒たちは早々に帰れるということで歓声を上げると、これからどこへ遊びに行くかの算段を練っている。
シェラが副担任として受け持つことになった特進クラスは、三年間クラス替えがない。
進級しても顔ぶれに変わり映えがない代わりに、気心の知れた友人が多いクラスでもある。
仲の良いグループというものも当然出来上がっていて、次々と行き先を決めて出て行く生徒たちを見送り、シェラは軽く息を吐いた。
大学進学を控えた三年生だというのに、まだ受験というものを意識している生徒は少ない。
始業式とホームルームだけで早々に帰れるのだが、真っ直ぐ帰宅して勉強しようという生徒は一割にも満たないはずだ。
それは普通科の生徒にも言えることだが、特進クラスが普通科と違うのは、切り替え方が巧いという点だろう。
集中しなければならない時というものを各自把握しており、模試でもきっちりと結果を出してくる。
ただ、そこに『これだけやっているのだから多少遊んでいても目を瞑れ』という感覚が皆無だとは言えないのだけれど。
それでも、全寮制のこの高校において、特進クラスの生徒には外出・外泊許可が他クラスよりも緩い裁定で出されるのは、『結果』がついてきているからだ。
有名大学に合格する生徒が多ければ、それだけ学校の知名度も上がる。
いわば、Give and takeだ。
──だがしかし、シェラのため息の原因は、そことはまったく別のところにあった。
春休み中特進クラスにのみ課されていた英語の宿題を抱え、教壇を降りようとした彼に、声が掛けられる。
「──先生、手伝いましょうか?」
高校生にしては低く落ち着いた声に、シェラの肩が震える。
「……ミスタ・ファロット……」
眼鏡の奥の菫色が僅かに怯えていて、ヴァンツァーは口端を緩く持ち上げた。
そこに一瞬だけ、先ほどまでにこやかにクラスメイトと話していた人間とは別の側面を垣間見て、シェラは課題を抱える腕に力を込めた。
「ひとりでこの量は、大変でしょう?」
「……いや、だいじょ」
「学級委員に、今年度最初の仕事を下さいよ」
「……」
言うが早いか、副担任から課題を奪い取ることに成功すると教室を出て行ってしまった。
早足で追いかけるシェラ。
「──どういうつもりだ……!」
小声で責めるシェラが隣に並ぶと、ヴァンツァーは頭半分ほど下にある女の子のような顔を見下ろした。
野暮ったい黒縁眼鏡にひっつめ髪。
スーツに身を包んでいるが、年齢がさほど離れていないせいか、自分たちと同じ制服を着て廊下を歩いていても誰も気づかないだろう。
存在感というものを消そうとしているかのようなこの教師が、ベッドの上ではどれだけ淫らで艶めいて見えるかを知ったら、思春期の少年たちは目の色を変えて飛びつくに違いない。
そんな内心を温和そうな笑みで包んだヴァンツァーは、困ったように言ったものだ。
「どういうも何も……俺は委員として先生を手伝おうとしているだけですよ」
「……きみが何の意図もなく、こんなことを──」
「心外だなぁ。俺、よっぽど信用ないのかな?」
あるわけないだろう! と怒鳴ってやりたくなったシェラだったが、ここは学校だ。
通りすがりに「さようなら」と挨拶をしてくる生徒たちに何とかにこやかに返しながら、シェラは拳を握り締めた。
この学校は職員室とは別に、教員ひとりひとりにちいさいながらも研究室が与えられている。
研究室にヴァンツァーを入れたシェラは、ギリッ、と秀麗な美貌を睨みつけた。
きょとんとして眉を持ち上げるヴァンツァー。
そういう表情をしていると歳相応の高校生に見えるが、彼が腹の中で何を考えているか分からない男だということを、シェラはよく知っていた。
「……消したんだろうな」
「消す?」
「とぼけるな! 画像だ!」
「画像……──あぁ」
これですね? と微笑んで携帯を開いて見せる。
「なっ──?!」
開いてすぐ、待ち受け画面に自分の寝姿。
絶句するシェラの前で、ヴァンツァーは楽しそうに笑った。
「ね? よく撮れているでしょう?」
カメラマンにでもなろうかな、と呟くヴァンツァーから携帯をもぎ取ろうと手を伸ばすが、難なくかわされてしまう。
「貸せ!」
「嫌ですよ。貸したら、あなたこれ消しちゃうじゃないですか」
「当たり前だ!! そんなもの──」
「バレたら、学校にいられなくなっちゃいます?」
「……きみ……」
青褪めるシェラを、まるで慈しむように美しい微笑みで見下ろす青年。
「私を……脅迫する気か……?」
「脅迫?」
驚いたように瞠目するが、そんな表情を信じられるわけがない。
「どうして、俺がそんなことをしなければならないんです?」
「知るか! それ以外に、そんなものを撮る必要はないだろう?!」
「──大声出すと、人が来ますよ?」
唇の前に指を当て、やわらかく微笑む。
人を──それも教え子を殴りたいと思ったのは、生まれて初めてだった。
「安心して下さい。誰にも見せたりしませんから」
「そんな言葉、信じられると思うのか……?」
「あれ。本当に信用ないんですね、俺」
「……わざわざ待ち受け画面にしているような人間の言葉を信じろと……?」
「だって、本当によく撮れているから」
綺麗でしょう? ともう一度携帯を開いて見せる。
思わず目を背けた。
白いシーツに埋もれるようにして眠る自分。
この、目の前の青年の手を握り、安心した顔で眠る、自分。
「せっかく手を繋いで眠ってくれているから、起こさないように撮るの苦労したんですよ」
そんな苦労はしなくていい、と酷い頭痛のする頭を押さえる。
「……とにかく、それはすぐに消去してくれ」
「嫌ですよ」
「きみ」
「ヴァンツァー」
「……」
「呼んで」
「どうして私が……」
「呼んで下さいよ」
見せつけるように、携帯を開いたり閉じたりする。
呼ばなければ、人に見せる、ということだろうか。
唇を噛み締めたシェラは、俯いてぼそっと呟いた。
「聞こえない」
「……ァン、ツァー」
「俺、耳悪くなったのかな?」
シェラに与えられた机に浅く腰掛け、腕組みをする。
じっと見つめてくる視線を、俯いた額の辺りに感じる。
あの日見た、冷ややかな視線だ。
──早くしろ、バラされたくないんだろう?
そう、言われている気がする。
「……ヴァン、ツァー……」
「──まぁ、ぎりぎり及第ってとこですかね」
俺の採点は甘いから、とちいさく笑う。
顔を上げたシェラは、さっと手を出した。
「呼んだぞ。さぁ、渡せ」
「──は?」
「言われた通りに名前を呼んだんだから、画像を消すんだ」
しばし目をぱちくりさせていた青年は、我慢できなくなって吹き出すと腹を抱えて笑った。
呆気に取られているシェラの前でひとしきり笑うと、ヴァンツァーは音もなく距離を詰めた。
シェラが避ける間もなく、顎を取ると唇を重ねた。
反射的に長身を突き飛ばす。
意識せず袖で口を拭うと、机に強か腰を打ちつけたらしい青年の「酷いな」という声が返った。
「……酷いのは、どっちだ……」
肩で息をし、ともすれば泣き出しそうな顔のシェラに、ヴァンツァーは冷笑を浮かべた。
「酷い? 俺が? 理由を教えて下さいよ、センセイ」
「理由?──はっ。そんな悪趣味なことをしておいて、よく言う」
「悪趣味?」
「悪趣味だろうが。人の寝顔なんて撮って!」
「可愛かったから、撮っただけですよ」
「嘘だ」
きっぱりと否定すると、ヴァンツァーは鼻で笑った。
「だから、その根拠は」
「きみは理由のない行動は取らない」
「可愛かったって、言ったじゃないですか」
「そんなもの、理由にならない」
「──どうしてあなたがそれを決めるんです?」
「……」
「俺は、本当にあなたの寝顔を可愛いと思ったから……撮りたいと思ったから撮った。それはそんなにいけないことですか?」
「……決まってる」
「なぜ?」
「……私と、きみは」
「教師と生徒だから?」
「……」
「一夜限りの関係だから?」
「……」
答えられないシェラに、また、あの冷たい笑いが漏らされる。
「──ふぅん。そう……」
ゆっくりと顔を上げたシェラに向かって、ヴァンツァーはゆったりと口端を吊り上げた。
獲物を前にした猛禽の眼で、目の奥を射抜かれる。
びくっ、と身体を震わせ、一歩後退るシェラの腕を引き、己の腕の中に囲い込む。
「やっ……はな」
華奢なシェラの抵抗など無視して、ヴァンツァーはきつく顎を掴むと唇を重ねた。
重ねるだけではない。
拒む唇を開かせ、執拗に口腔内を嬲る。
逃げる舌を追いかけ、吸い上げ、荒々しく──けれど、丹念に。
「──ん……っ、ふ……」
逃れようともがいても、細く見えるのに硬い身体はびくともしなくて、息の出来ない口づけに眩暈がする。
苦しくて反射的に零れた涙に舌が這わされ、ぞくり、と背中がざわめく。
脊髄が、彼に与えられる快楽というものを記憶してしまっている。
やっと唇が解放されたというのに、自ら息を詰めてしまった。
身体を強張らせるシェラの耳元に、声が落とされる。
「──感じてるんだろう?」
冷ややかな声だった。
「嫌がって見せても……本当は、俺に抱かれたいんだろう……?」
「ちが、っ……」
「どこが、違う……?」
下肢を撫で上げられ、ひゅっと息を吸い込む。
カタカタと震え、頬に熱が上っているというのに蒼白な顔をしているシェラに、ヴァンツァーは甘くささやいた。
「──白昼堂々、研究室で……っていうのも、そそるな」
唇を舐める淫靡な姿に、シェラは言葉もなく、ただただ見入っていた。
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