射すくめられたように動けずにいるシェラに、ヴァンツァーはふわりと微笑み、言った。
「──冗談ですよ」
菫の瞳が瞠られるのを、おかしそうに笑う。
「あれ。もしかして、期待してました?」
「っ、きみはどうしてそう──」
人をからかうような真似ばかりするんだ! と怒鳴ろうとした。
しかし、ちゅっ、とちいさな音を立てる軽いキスに、二の句が継げなくなった。
込み上げてきていた怒りを唐突に遮断され、言い知れぬ苛立ちに顔を赤くするシェラに、美貌の青年は「可愛いなぁ」と呟いた。
「照れているの?」
「違う!」
「隠さなくてもいいのに」
「違うと言っている!!」
長身を押しやり、挑むように睨みつける。
ピリピリと肌を焼くような怒気などまるで感じていないかのように、ヴァンツァーは薄く微笑したまま。
『抵抗しませんよ』とでも言いたげに諸手を上げている様すら腹立たしい。
「いやだなぁ。キスなんて、ごく軽い挨拶でしょう?」
「きみにとってはどうか知らんが、私にとっては違う」
「そう?」
「当たり前だ!」
「そうなんだ」
くすくすと笑う姿に、そろそろ忍耐の限界を感じる。
ぐっ、と拳を固め、「何が言いたい」と押し殺した声音で問い掛ける。
「別に。──ただ、それなら俺としたsexは挨拶以上の意味があったんだなぁ、と思って」
「……」
「教えてよ。どうして俺と寝る気に──」
ずい、っと身を乗り出す男を、シェラは反射的に引っ叩いていた。
小気味良い音が、室内に響く。
さすがのヴァンツァーも薄笑いを収め、顔を顰めて頬を押さえた。
「……腫れると泣く人間がたくさんいるんだけどな……」
「余計イイ男になったんじゃないか、you masher……?」
「どうせなら『Maker』の方がいい」
「はっ。きみのような不道徳な人間が、『創造主』になどなれるものか」
「──『Service』なら出来るけどね」
不意に昏い笑いを浮かべた青年に、シェラは嫌悪も露わに「最低だな」と吐き捨てた。
「きみのような男に、親になる資格などあるものか」
そのひと言に、微かにヴァンツァーの肩が揺れる。
ほんの僅かだが、空気が緊張する。
まるで怯えるかのような反応に、シェラは一瞬虚を突かれた。
「きみ──」
「──確かに」
何かを振り払うかのように、強められた口調。
思わず出かけた言葉を呑み込んだシェラに、ヴァンツァーはにっこりと微笑んだ。
「まぁ、あなたが女だったら、この間ので妊娠していたと思いますけど」
「──っ、出て行け!!」
「はいはい」
軽く肩をすくめると、「それじゃあ、また」と後ろ手に手を振って研究室を出て行く。
「……何なんだ……何が」
したいのか。
彼の挙動を思い出せば怒りがふつふつと込み上げてくる────はずなのに。
「……」
思い出すのは、傍若無人な振る舞いでも、人を食ったような物言いでもない。
一瞬垣間見えた、はっきりと青褪める顔。
もともと色の白い青年だが、貧血でも起こして倒れるかと思うくらいにひどい有様だった。
「……何なんだ……」
自分には、彼を責める権利があるはずなのに。
腹を立てているのは本当なはずなのに。
「どうして──」
少し前まで感じていたものとはまったく別の苛立ちが、シェラの胸中を蝕んでいた。
「……ねぇ、ヴァンツァー君」
四時限目の数学の授業が終わり、校内は昼食へと急ぐ生徒たちのざわめきに支配されている。
ひと息吐いて教科書を片付けようとしていたヴァンツァーは、ひとりの女生徒に話し掛けられた。
「うん? なに?」
にこやかな笑みを浮かべる、他のクラスメイトよりも格段に大人びた美青年に、少女の顔が赤らむ。
そんな彼女の表情を見て、ヴァンツァーは内心で舌打ちした。
誰も彼も、『雌』という生物が自分を見る目は、大して変わらない。
「あ、あのね……ここ、教えて欲しいんだけど……」
上目遣いで、こちらの機嫌を伺うように。
校則で禁止されているというのに、化粧までして。
あまつさえ、彼女が「分からない」と訴えているのは。
「どれ?──あぁ、これか」
「もう、全然分からなくて」
「コツさえ掴めば、そんなに難しくないよ」
「え~、それはヴァンツァー君だからだよぉ」
頬を膨らませて可愛らしさを演出する少女に好意的な笑みを浮かべながら、ヴァンツァーは内心で吐き気を感じていた。
──こんな、初歩的な問題。
そう思わずにはいられない。
「まぁ、確かにオーロン先生の授業は、ちょっと分かりづらいけどね」
苦笑すると、近くにいた別の女生徒も話しに入ってきた。
「──あ、そこ! あたしも分からなかったの」
「え、じゃあ持っておいでよ。今ヴァンツァー君に教えてもらってるところだから」
「ちょっと待ってね」
人の意見も聞かず、勝手に話を進める少女たちにも、ヴァンツァーは表面上は苦笑を浮かべるに留めている。
机の上は自分のものでない教科書やノートに占領され、昼休みは既に十分経過している。
「──あ、そうだ。あたし、この前ジャンペール先生に数学教えてもらっちゃった!」
「え~、何でまた生物の先生に?」
「だってカッコイイじゃん! 教え方もちょー巧いんだよ!」
「いいなぁ~。先生、やさしそうだもんね~」
「うんうん。すっごいやさしかった~。いい匂いするし~」
「あはは、何それ~」
──だったらそのジャンペール先生に教えてもらえよ。
きゃーきゃー騒いでいる目の前の雌犬どもを、人目も憚らず殴りたくなってきたヴァンツァーの背に、息が詰まるような衝撃が加わった。
「──ちゅっどーん!!」
「──っつ?!」
背中に体当たりされ、そのまま首を羽交い絞めにされる。
「何、なに~? 楽しそうな話なら、俺も混ぜて、混ぜて~」
「……レティー、苦しい」
ヴァンツァーの抗議など聞こえていないように、「やっほ、レティー」と手を上げる少女に「やっほ」と挨拶を返す。
「レティー……レティシア」
呼んで腕を叩いても首を絞める腕は緩まない上に、椅子ごと身体を揺らされる。
自分より小柄なくせにやたらと力のある男の腕から抜け出すのは、容易なことではない。
だからこそ、そこはレティシアの意思で離れてもらわないといけないのだ。
「ほーんと、仲いいよね。レティーとヴァンツァー君」
「うん。俺たちラヴラヴだから」
な~、と頬を摺り寄せてくる男に、「言ってろ」と嘆息を返す。
「やーだー。ヴァッツが冷た~い」
「あのなぁ──」
いい加減放せ、と言いかけたヴァンツァーは、首筋に慣れた痛みを感じて息を詰めた。
見るともなしに見た少女たちが、目を丸くして固まっている。
「いっえ~い! キスマークはっけーん!!」
「──発見じゃない! それは今お前が!!」
さすがに声を荒げて立ち上がるヴァンツァーに、レティシアは無邪気な笑顔を向けた。
「ほらほら、早く昼飯行こうぜ~? 俺、もう腹ペコだよ~」
「……」
「あ~、学食空いてっかなぁ? 厳しそうだな~」
言いながらヴァンツァーの手を引いて歩いて行こうとするレティシア。
口許が緩みそうになりながら、ヴァンツァーは背後で固まっている少女たちを振り返った。
「──ごめん。今度また教えるから」
友人の傍若無人さに困惑している態度を演じつつ、ヴァンツァーは教室から逃げ出したのだった。
教室から出た直後、ものすごい歓声が上がったのはこの際聞こえなかったことに。
「悪いな、レティー」
「あ~ん、何が?」
廊下に出てもヴァンツァーの手を引いて歩いているレティシアだったが、他の生徒たちは大して気にした様子もない。
それは何も、昼食に先を急いでいるから、というだけの理由ではなさそうだ。
「助かった」
「ん~? そうなの?」
気のない返事をしてはいるが、この金茶の髪と瞳の外見通りに軽薄な男がわざと先ほどのひと幕を演じて見せたことは間違いない。
「──ま、あれだ。お前さんの場合、自分で思ってるよりも下手だからな」
「下手じゃないだろう?────知ってるクセに」
「ベッドテクじゃねぇよ。優等生の仮面のかぶり方だよ」
「分かってるよ。でも、そっちも下手だと言われたことはないぞ」
「そりゃあ相手の見る目がねぇな」
軽口の応酬に作ったわけではない笑みを零すと、ヴァンツァーは指摘した。
「ところでいつまで手を繋いでいる気だ?」
「なぁに言ってんの。俺たち蜜月真っ盛りよ~?」
それまではヴァンツァーの手首を握って引いていたレティシアだが、背後を振り返ってにやり、と笑うと、指を絡めて手を繋ぎ直した。
「……おい」
「いいじゃん。誰も気にしてねぇよ」
「それはお前がスキンシップ過多なのを、皆知ってるからだ」
「都合いいね~。良かった、俺B型で」
「まったく」
呆れたようにため息を吐いたヴァンツァーは、思い出したように首筋を擦って声を落とした。
「……こんな目立つところにつけるな」
「目立つところにつけないと、意味ないでしょーが」
「馬鹿な女どもが目の色変えるんだよ」
「あら大変ね~。女の嫉妬は怖い怖い」
何を言っても無駄と悟ったのか、ヴァンツァーはわざとらしく嘆息すると、「とりあえず、この手は学食までだからな」と約束を取り付けた。
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