一度タガが外れてしまえば、後はもうなし崩し的に堕ちていくだけ。
分かっていたから、ギリギリのところで自分を律していたというのに。

「──まだ、出来そうだね」

自分が快楽に弱い性質だというのはよく知っている。
依存しやすいということも。
どういうわけか自分の容姿と肉体は男に好かれるらしく、大人しく身体を差し出せばそれなりのやさしさは与えてもらえた。
それが愛情だったのかどうかなんて知らないけれど、それでも、抱きしめてもらえるならそれでいいと思ったことがあるのは確かだ。

「……どうして……」

自分を組み敷く青年に、訊ねてみた。
どうして、自分を抱くのか、と。
何かを期待していたわけではなく、ただ、純粋に不思議だったから。
彼ほどの容姿であれば、ひと晩過ごす相手に不自由するわけがない。
実際、夜の街で会ったときも、彼は誰かと過ごした後だった。
その直後にもうひとり抱く元気があるのだから、さすがに十代の体力というか。

「理由?」

こんなときに無粋なことを訊くんだね、と笑いながら身体を揺らされる。
薬でも使っているのではないかと錯覚するほど強い快感に、知らず涙が零れた。
相性が良い身体というものは確かにあって、手を重ねるだけで身震いする男もいれば、体温を感じられることがたまらなく心地良い男もいる。
そこにどんな違いがあるのかは分からないし、正直どうでもいい。

「──気持ち良ければ、それで良くない?」

そう、確かにそうだ。
今までもずっとそうだった。
それなりのやさしさをくれて、気持ち良くしてくれて、寂しいときにあたためてくれる男なら、ある程度誰でも良かった。
十代の頃は、行きずりの男と寝たこともないわけではない。
この職業に就いてからは──というか、あの人と付き合っている間は、そんなこともなかったけれど。
思ってしまって、涙でブレる視界の向こうにいる男が、一瞬違う男と重なった。
瞬間的に強張る身体に、「どうしました?」と耳元でささやく声は、あの人のものではなかった。
だから、どうにかシェラは自分を取り戻すことが出来た。

「私の身体が、そんなに気に入った……?」

半ば以上誤魔化すためだったが、上がった息の向こうから茶化すようにそう言えば、ちいさく笑われた。
不思議そうな顔を向けると、にやり、と形の良い唇が持ち上げられた。

What did Adam do when he saw that he and Eve were different?

綺麗な発音で紡がれた謎かけのような言葉に、シェラは思わず笑いを漏らした。
そうして、するりと相手の首に腕を回し、唇を重ねる直前ささやいた。

──He split the difference.
──Good.


独りでいると、余計なことが頭を占める。
忘れてしまいたいことほど頻繁に、しかも鮮明に思い出されるというのは、何かの罰なのだろうか。
確かに、自分は罰を受けなければならないのかも知れないが、それは何も自分だけが悪いわけではない。
むしろ、自分は被害者だった。
逃げるわけでも、責任を押し付けるわけでもなく、あの頃の自分には何をすることも出来なかった。
ただ受け入れる以外の何も、出来はしなかった。
あれからしばらくは、人に触れることも、触れられることも怖くて仕方なかった。
自分が触ると、また、誰か死ぬ。
夜も眠れず、人と接することも出来ず、このまま飢えて死ぬのかも知れない、と思った。
それでもいい、と。
こんな命は、ない方がいいのかも知れない。
いや、きっとそうなのだ。
どこへ行っても白い目で見られる。
親戚をたらいまわしにされ、好奇の目で見られ、しかし腫れ物に触るように扱われて疎外される。
値踏みするような視線にはすぐに慣れたが、触られることには耐えられなかった。
肩を叩かれるくらいなら吐き気を殺すことも出来たが、腕や頬に触れられると過呼吸に陥って医者を呼ぶ騒ぎになることも少なくなかった。
大人の庇護を必要とする、中学生にもならない年齢だったとはいえ、そんなお荷物を好んで抱え込みたがる人間はいなかった。
幸い、親の遺産がかなりの額あったから、それがあればしばらく生きていくことは可能だった。
本当は、血の繋がり以外何もない親戚連中は、後見人となることでその遺産を好きなように使いたかったようだ。
だが、厄介払いが出来るならそれも仕方のないことかと思ったのだろう。
金だけ搾り取って放り出すことも出来ないことはなかったが、そうするには遺産管理を任されている弁護士が生真面目な性格であることが災いしたらしい。
まだまだ若手の域を出ない三十そこそこの青年弁護士だったが、その分情熱を持って仕事をしているのだろう──そのときは、そう思っていた。

「ぼくのことは、お兄ちゃんだと思ってくれると嬉しいな」

照れたように笑う姿を、好ましいと思った──そう、不思議と、吐き気を感じなかった。
負った傷を知っているから、必要以上に触れようとはせず、適度な距離を置いて付き合える。
ひとりっ子だったから、余計に『兄』としての彼に好感を抱いたのかも知れない。
広い家にひとりで暮らすのももったいなく感じられ、彼と一緒に暮らすことにした。
その提案をしたときには驚いた顔をしていたけれど、すぐに嬉しそうに微笑んでくれたから、自分の選択は間違っていなかったのだ、と思った。

──数少ない、信用出来る人間。 傍にいることで安堵出来る人間。

彼は、とても稀有な存在だった。
勉強で苦労したことはなかったが、それでも司法試験という最難関を突破した人間に勉強を見てもらえるのであれば効率も成績も上がる。
ハーフであり、国外の司法試験にも合格している国際派だから、当然語学は堪能だ。
何だかそれがかっこ良く感じられて、自宅内での会話は全部英語にしていた時期もあった。
試験で良い結果を持って帰れば、誰よりも喜んで褒めてくれた。
両親を同時に失い、親戚からも疎まれた自分にとって、ほとんど肉親と言っても差し支えないほどに心を許していた。

──十五になったばかりの、中三の春までは。

もともと、自分では気にしたことがなかったけれど、かなり人目を引く容姿だということは知っていた。
好むと好まざるとに関わらず、人を──特に『雌』を引き寄せるのだ、と。
嫌になるほど、知っていた。
けれど、さすがにそのときは耳を疑ったものだ。

「……ぼくを……抱いてくれない?」

倍以上歳の離れた中学生に、法律の専門家である青年が言ったのだ。
性行為に対する同意年齢は十三歳と規定されているが、成年者が十八歳未満の児童と淫行に及ぶことは、結婚を前提にしていたり、親の同意がある場合を除いては罪に問われる民・刑法と条例がある。
実際に逮捕され、裁判にかけられるかどうかは別として、原則処罰される規定があるのだ。
むろん、裁判が行われた結果無罪になることも少なくない。
──十三歳未満が相手では、合意があろうとなかろうと、問答無用で強姦罪が適用されるのだが。
対象が同性あっても、それは変わりない。
むしろ、同性愛の性行為同意年齢は、男女のそれよりも引き上げられている国や地域が多い。
だから、ヴァンツァーは笑った。
温度のない、ぞっとするほどに艶やかな笑みを、その美貌に浮かべたのだ。

「────いいよ」

背徳など、とうに経験している。
今更、何を失うこともない。

……そう、思っていたはずなのに。

自分の下で喘ぐ男の顔を見た瞬間、『パキンッ』と音が聞こえた気がした。
あの人を抱いて──否、あの人に犯されて以来、初めて感じた人の体温。
否応なしに思春期の肉体は熱を持っていったというのに、逆に心は冷え固まるばかりだった。

──気持ち悪い……。

それだけだ。
とにかく速く終わらせたくて、無茶苦茶な抱き方をしたような気がするが、よく覚えていない。
次の日から、その弁護士はヴァンツァーが人に触れられることが嫌いだと知っているのに必要以上に接触を求めてきた。
夜になれば毎晩のように身体を求める。
暇な身ではないだろうに──否、もしかしたら、忙しいからこそ若い少年の肉体に癒しを求めていたのかも知れない。
そんな関係が三ヶ月も続いただろうか。
最初に感じた好ましさなど、ヴァンツァーの中ではとっくに消え去っていた。
彼は当時を思い返し、「よく殺さなかったものだ」と冷笑を浮かべることがある。
それくらい、かつて『兄』と慕った男は彼にとって我慢ならないものになり変わっていた。
面倒くさそうに、おざなりな態度を向ければ狂おしいまでの眼で詰め寄ってくる。
女が出来たのか、だの、自分の身体に飽きたのか、だの。
果ては、何でもするから捨てないでくれ、ときた。
あまりに陳腐すぎて、笑うことも出来なかった。
彼がいつから自分にそんな感情を抱いていたのかは分からないが、もしかしたら初めからそのつもりだったのかも知れない。
煙草の味を覚えたのは、その頃だろうか。
美味いとは冗談でも言えない、他人が吸っているときには不快感しか覚えなかったそれなのに、束の間もたらされる酩酊感にずるずると浸っていった。
呼吸器官が侵される嫌悪感も嫌というほど感じたが、同時に自分の身体を痛めつけている感覚が心地良くもあった。
未成年者の喫煙にも、法の番人であるはずの青年は何も言わなかった。
ただ、「キスが苦い」と、それだけ。
そんなものは、ヴァンツァーの知ったことではない。
嫌ならこんな関係はいつ解消しても構わない、むしろ自分は迷惑している──そう言えば、青年は押し黙ることしか出来なかった。
自分の意のままに人間が動くというのは、ほんの少しだけ気分が良かった。
若い弁護士が、ぞんざいに扱われることを好む性癖の持ち主だったなら、日に日に少年らしさを失い青年へと変化していく傍若無人な男をまだしばらくは愛せたかも知れない。
実際、愛してはいたのだろう。
──しかし、それはヴァンツァーにとっては強引な勧誘や押し売りと変わらなかった。
だから、同居人には一切知らせず、私立の全寮制の高校へと進学を決めたのだ。
進学先を訊かれて答えた春休みの初日。
制服の採寸をするために高校へと行って帰ってきたヴァンツァーがまず目にしたものは、リビングのテーブルに身体を預けている同居人の背中だった。

彼は、ただ、眠っているように見えた────。




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