季節は初夏。
学年が変わり、生徒たちは最初の楽しみであるゴールデンウィークの前に実力試験という関門を突破せねばならない。
成績が悪ければ追試が行われるため、休みは返上だ。
そんなことは冗談ではない、と躍起になる生徒たちの中で、ヴァンツァー・ファロットという生徒は机に齧りついているわけでもないのに、全科目で満点を叩き出した。
誰もが賞賛と羨望のまなざしを向ける中、顔色を青褪めさせている青年がひとり。

「……本当に取るとは」

定期試験とはわけが違う。
範囲などないも同然だし、五教科七科目それぞれ、校内の教員が集まってどんな問題にするかの会議も開かれる。
実に、前年度の終わりから、既に準備が始められているのだ。
これは、授業についてきているかの確認をするための定期試験ではない。
文字通り、現在の実力を見るための試験。
だから、いつもは特進クラスとは異なる試験が出題される普通科でも、同じ問題を解くことになる。
それでいて、普通科に合わせて作成されるわけではない。
かといって、特進クラスでも簡単に点数の取れる試験ではない。
いくらヴァンツァーが秀才の誉れ高い生徒だとしても、おいそれと満点を取れるような試験ではないのだ。
少なくとも、シェラが一部作成を担当した語学は、大学学部生レヴェルの水準が要求される問題すら出題されていた。
それなのに、そんなものは何でもないことのように有言実行したのである。

「──どうかしました?」

背後から声をかけられ、シェラはびくっと肩を震わせて振り返った。
驚いたのは、声をかけた方も同じ。
白衣の美青年は水色の瞳を真ん丸にしている。

「あ……ジャンペール先生……」

すみません、ぼーっとしていて、と苦笑するシェラに、ナシアス・ジャンペールは端正でやさしげな容貌に穏やかな笑みを浮かべた。

「いえ。わたしの方こそ、驚かせてしまって申し訳ない」
「そんな……」

首を振るシェラに、ナシアスは再度訊ねた。

「それで? 何をそんなにお悩みですか?」
「……悩んでいるように、見えましたか?」

金髪に水色の瞳の美しい青年は、「おや」という風に眉を上げた。

「悩んでいるのでなければ、困っていらっしゃるように見えましたよ」
「そう……ですか」
「先生?」
「困って……そう、ですね。困っているのかも知れません」
「何かありましたか? わたしでよければ、お話相手くらいは務めさせていただきますよ」
「いえ、大したことではないんです」
「そうは見えませんね」
「……」

シェラは苦笑した。

「いえ、本当に。大したことじゃなくて……」
「はい?」
「……私の作った問題は、簡単だったかな、と思いまして」

頬を掻くシェラに、ナシアスは納得したようだった。

「あぁ、ヴァンツァー・ファロット君ですね?」
「……」
「彼は別格でしょう。彼に合わせて問題を作ったら、他の生徒はみな赤点ですよ」

朗らかに笑う生物教師に、シェラはつられて笑みを浮かべた。

「確かに彼を見ていると、『絶対に満点を取らせてなるものか!』とか、思ってしまいますけどね」
「──ジャンペール先生でも?」

驚きに菫の瞳を瞠るシェラに、ナシアスは「どういう意味ですか?」と苦笑した。

「わたしがもう少し若ければ、対抗心を燃やしていたかも知れませんね。さすがに年齢が倍近く離れていては、そこまで熱くはなれませんけど」
「そういうものですか?」
「少なくともわたしは、ね」

何だか落ち込んで見えるシェラの肩を軽く叩き、ナシアスはにっこりと笑って提案した。

「お疲れのようでしたら、今夜飲みにでも行きませんか? 幸い金曜ですし」
「──え?」
「飲んで、酔っ払って、ぐっすり眠って。ついでに二日酔いとかになって頭痛と闘っていれば、試験のことなんて忘れてしまいますよ」

────何かを利用して、何かを忘れる。

そのことが、ひどくシェラの胸を突き刺した。
けれど彼は、大先輩であるナシアスの厚意を、無碍にしたりはしなかった。

「そうですね。たまには、いいかも知れませんね」


「なにー? ヴァッツ、全部満点取ったの?」

日課というか恒例というか、レティシアが放課後友人のいる特進クラスの教室に向かうと、クラスメイトに囲まれている黒い頭を見つけた。
彼が人に囲まれているのは珍しくないが、思いのほかざわめきが大きい。
ちょっとごめんよ、と言いながら輪の中心に向かうと、『助けてくれ』と言わんばかりの苦笑がもたらされた。
手元を覗けば、今回の実力試験の結果。

「やるな~。俺も理数だけは満点だったんだけどな」

言えば、周りの女子から「それだって十分すごいよ~」という歓声が上がる。

「──よしっ。俺がお祝いに奢ってやる!」
「え……?」
「ほら、さっさとしろよ。外出許可もらいに行くぞ」
「レティー?」

訝しがる友人を半ば無理やり席から立たせると、その背を押した。

「お祝いなら、私たちも行きたいー!」
「いいでしょう?」

上目遣いでおねだりをしてくる女子たちに眉を顰めそうになるヴァンツァーを追いやるようにして、レティシアはにっこりと笑った。

「ダーメ、ダメ」
「え~、どうして!」
「レットだけずるいわ!」

非難囂々の少女たちに、レティシアは「ちっちっち」と指を振った。

「──馬に蹴られて怪我したくなかったら、大人しくしておけよ」

きょとん、となるクラスメイトたちをよそに、レティシアはヴァンツァーを教室から連れ出したのである。

『奢る』とは言ったものの、レティシアがヴァンツァーを連れて行ったのはファストフード店だ。
特に食べるものにこだわるわけでもないので、ヴァンツァーは文句ひとつ言わずにバーガーを咀嚼している。

「お前さんね。どーしてあーいう目立つことする気になったの?」

これまでも試験では各教科一問以上間違えたことのないヴァンツァーだったが、それはただ単に彼がわざと一問程度間違えていたからに他ならない。
取ろうと思えばいつ、どんな科目でも満点を出せるが、毎回それでは騒がれすぎる可能性がある。
それならば、もう少し間違えても良さそうなものだが、そんなことは彼の矜持が許さない。
現在でも十分目立っているが、プライドの高いヴァンツァー・ファロットの、ぎりぎりの妥協の結果が『一問前後の間違い』なのである。

「目立つこと?」
「目立ってるでしょうが。全科目満点なんて──それも実力試験で満点なんて、普通取れないの」
「……ちょっと、勉強しただけだ」
「騒がれるの嫌だからって、満点避けてたくせに」

呆れている友人に、ヴァンツァーは苦笑した。

「約束……したから」
「約束? 満点取るって?」
「あぁ」
「女と?」

これには曖昧な笑みを返す。

「勢いっていうか……」
「──勢い?!」
「かっとなったっていうか……」
「──かっと?!」

盛大に吹き出したレティシアだった。
にこにこ笑っている腹の奥では沈着冷静な氷の視線で人を見ているこの友人の口から、まさか『勢い』だとか『かっとなった』だとかいう言葉が出るとは夢にも思わなかったのだ。

「……笑うな。『坊やは家に帰って勉強しなさい』みたいなこと言われたら、悔しいだろうが」
「はは~。今度は年上のお姉様かい? お盛んだねぇ」
「茶化すな」
「怒るなよ。美人が怒ると迫力あるんだから」
「気にもしないくせに」
「お前のは気になるの」
「何だ、それ」
「愛だよ、愛」

胡乱気なまなざしを送ったヴァンツァーだった。

「俺が言うのもなんだが、お前、自分の素行を思い返してものを言えよ?」
「なぁんだよ。本命はお前だって」
「はいはい」

この友人の軽口に付き合っていたら、それこそ身体がいくつあっても足りない。
軽く受け流したヴァンツァーに、「そんなことより」とレティシアは身を乗り出した。
やはり『そんなこと』程度なのか、と頬杖をついて耳だけ貸すヴァンツァー。

「お前が『坊や』なのは間違いないんだから、それは対抗するところじゃないぜ?」
「分かってるよ」
「いやいや。熱くなると深追いするからな。修羅場は怖いぜ~?」
「誰にものを言っている」
「百戦錬磨の女豹だって、目算誤ることくらいあるだろうよ」
「だから、誰が『雌』だ」
「だってお前どっちもイケんじゃん」
「それとこれとは話が別だ」
「お前負けず嫌いだからね」
「そんな子どもっぽいこと」
「してるの」
「……」
「モノにしたらすぐ飽きるのはそのせいだろうが」
「……」

渋面になる友人に、レティシアは仕方ない、といった笑みを浮かべた。

「──ま、俺としては今度もそのお姉様がさっさと落ちてくれることを祈るばかりだけどな」
「……お前はさっきから」
「あん?」
「今更確認するまでもないが、相当性格悪いよな」

憮然とした表情で横を向いている友人に、金髪の少年は「ホント、今更」と、それはそれは可愛らしい笑顔を向けた。

「で。何でよ」
「────……俺が女ダメなの、知ってるクセに」

僅かに泳ぐ藍色の瞳。
若干、白皙が青褪めている。
寒いと感じるほど過度に空調が効いているわけでもないのに、自らの肩をきつく抱く。
そんな友人の有様を見て、レティシアはそっと口許に笑みを浮かべた。

「はいはい、ごめんなさいねー」
「……誠意が感じられない」
「お前時々すーげー面白いこと言うよな」

きゃはは、と腹を抱えて笑う友人を、きつい瞳で睨みつける。

「あー、悪かったって。────隙見せると、喰っちまうぞ」
「見せなくてもヤるクセに」
「なぁに言ってんのよ。無理強いしたことなんてないでしょーが」

確かに、と思うところがあったのか、ヴァンツァーは押し黙った。

「俺はお前のことが大好きだからね。合意がなければしませんよー」
「……ヤりたい盛りの高校生が」
「だから他ので我慢してるじゃん」
「それは俺に失礼なんじゃないか?」
「だってお前気まぐれ猫ちゃんなんだもんよ。せめて週一でヤらせてくれたら他は我慢します」
「ヤることしか考えてないのかよ」
「うん。だって俺、思春期真っ盛りだし。結構モテるし」
「はいはい」
「──んもうっ! ヴァンツァー君ってば冷たいんだからっ!」

腰に手を当て頬を膨らませるレティシアに、ヴァンツァーは顔を引きつらせた。

「……気色悪い声を出すな」
「でもそこが素敵ー」
「レティー」
「はいはい、怒るなって」
「怒ってない」
「じゃあ眉間の皺をどうにかして下さい」
「それはお前の態度次第だな」

ふいっ、と横を向いたヴァンツァーだったが、ちらり、とレティシアと視線を合わせると、ふたり声を重ねて笑った。
過去を含め、何もかもを知って態度を変えないのはレティシアだけ。
軽口を叩き合ってはいるが、本当に、得難い友人だと思う。

「レティー」
「あん?」
「感謝してるよ」
「じゃあお礼に一発ヤらせて?」

にっこりと可愛らしく微笑む友人に、ヴァンツァーは「気が向いたらな」と笑顔を返した。




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