「……何か、意外です」
呟くシェラに、ナシアスは「何がです?」と首を傾げた。
「……先生、お洒落なバーとかレストランしか、行かない印象があったので」
「何ですかそれ」
ナシアスは苦笑しながら、冷酒のグラスを傾ける。
既に三本空けているが、まだまだ序の口、といった感じだ。
学校から数駅離れた場所にあるこの居酒屋は、週末ということもあって仕事帰りのサラリーマンで賑わっている。
どうやら、この店の売りは日本酒の豊富さのようだ。
様々な銘柄の瓶が、調理場の奥に所狭しと置かれている。
むろん、酒の状態を保つために温度管理されているものもあるのだろうし、冷蔵庫で冷やされているものもある。
また、おそらく、メニューにない希少な酒も隠してあるに違いない。
「お酒も、ウイスキーかカクテルしか飲まないかと……」
「ですから」
困ったように笑う上品な美貌の青年の前に並ぶのが、めざしとイカの一夜干し、もつ煮に肉じゃがというのがどうにもそぐわない。
「好きなんですよ、こういう雰囲気。飾らないし、肩凝らないし。──何より、安くて美味しいですからね」
幸せそうにめざしを頬張る様子が、何だか微笑ましい。
国立大学を卒業している非常に優秀な人で、美形な上に長身だから生徒の──特に女生徒の人気が高い。
それを除いても、好ましい人物だな、と思う。
「確かに、美味しいです」
活気のある店内は常連の客も多いのだろう、カウンター席では店員と客が大きな声で談笑している。
飛び交う注文に、元気良く、また愛想良く返事をする店員。
メニューを見ても、和の食材を中心に、それだけではなくボリュームのある料理も多い。
「でしょう? 独り暮らしをしていると、こういう家庭の味に飢えていけない」
「外食が多い?」
「少しは作りますけどね。でも、そんなに時間も取れませんし、どうしても出来合いのものを買ってしまうことが多いですね」
「そうなんですか」
「先生は、ご自分で?」
「えぇ。腕にはちょっと自信があるんです」
「それは素晴らしい。是非今度お相伴に預からせて下さい」
「はい是非」
にっこりと笑うが、久しぶりの酒だからか、かなり回りが早い。
頬が熱くなっているのが分かり、涼しい顔をして飲んでいるナシアスを見て恥ずかしくなる。
火照った顔を冷やそうとおしぼりを手にし、眼鏡を外して頬に押し当てる。
常温のはずのおしぼりが冷たく感じるのだから、かなり熱くなっているのだろう。
あまり強くもないので、今日はもうそろそろやめておいた方が良いかも知れない。
先輩の前で醜態を晒すわけにもいかない。
おしぼりに熱を奪われる心地良さに息を吐けば、何だか視線を感じてふとそちらを見た。
グラスを手にしたまま、呆けたようにこちらを凝視しているナシアスと目が合ってはっとする。
そういえば、今あまり意識せずに眼鏡を外してしまった。
「……これは、驚いた」
「……」
「もったいない。コンタクトにすればいいのに」
いたたまれなくなって俯けば、それを許さないように顎を取られる。
反射的に身体を硬くして水色の瞳を見つめ返せば、ただただ感心したような表情だけがそこにあった。
頻繁に自分に向けられる、欲望に満ちたものではなかった。
しげしげと眺められているのにその視線が不快でないのは、きっと水色の瞳が澄み切っているからだ。
「本当に美人だなぁ」
「……男相手に、美人もないでしょう。それに、ジャンペール先生の方がお綺麗です」
やんわりと顎に添えられた手を外せば、「失礼」と苦笑が返ってきた。
「まぁ確かに。男どうしで美人も綺麗もないですよね」
シェラも困ったように笑う。
「先生は、生徒にも人気がありますよね」
「そうですかねぇ? ありがたいことに、打ち解けて話してはもらえてますけどね」
「羨ましいです」
「先生も、眼鏡を外せばぐっと好感度が上がりそうですけどね」
「……取っ付き難い、ですかね……?」
僅かに表情を沈ませるシェラに、ナシアスは慌てて首を振った。
「そういう意味ではなく!……すみません、わたしは言葉が足りないようで……」
「いえ……」
「本当に、変な意味ではなくて……。眼鏡って、どうしても表情が分かりにくいでしょう? 特に先生のは、かなり縁のしっかりしたものですし」
「……」
「コンタクトには、抵抗があるのかな? 眼鏡にしても、フレームのないものは嫌?」
「嫌というわけでは……」
もともと、度など入っていない。
「……私、この顔が好きじゃないので……」
酔いが回っているのだろうか、こんなことまで話している。
何だか泣きそうだった。
そんなシェラを見て、ナシアスは大きなため息を吐いた。
呆れられたか、それとも楽しいはずの酒の席でこんなことを話して、空気の読めない奴だと軽蔑されたか。
どちらにせよ、馬鹿なことを口走ってしまって後悔する。
「──本当に、もったいない」
「……え?」
告げられた言葉と、声音の思いがけないやわらかなあたたかさに、シェラは思わず顔を上げた。
「少なくとも、わたしの目には楽しいですけどね」
「……ジャンペール先生……」
「その髪も、解いたらもっときらきらして綺麗なんでしょうね」
「……」
黙ってしまったシェラに向かって、ナシアスは今日何度目かの苦笑を浮かべた。
「──って、これじゃあまるで口説いているみたいだな」
酒のせいではなく薄く染まった頬を掻き、「すみません」と謝る。
ふるふる、と首を振るシェラ。
「いえ……」
不思議と、嫌な気分はしない。
こんな風に穏やかな時間を過ごせる人というのは、これまでの人生で何人もいなかった。
弟ならばいるが、兄や姉はいない。
長男として気を張っていることが多かったからか、包容力のある人を前にすると、どうしても甘えが出てしまう。
「……もし、先生がお嫌でなければ……」
「はい?」
「……また、こうしてお酒に付き合っていただいても構いませんか……?」
言い淀み、不安気な表情を浮かべるシェラに、ナシアスは破顔した。
「──えぇ、もちろん」
良かった、とシェラが息を吐き出した瞬間、携帯が振動する。
マナーモードにしたままだったが、「失礼します」と電話を取り出す。
──ディスプレイに表示された名前と番号に、目を瞠る。
顔が強張ったのが、自分で分かる。
どうしました? とナシアスが心配そうな顔で声をかけてくるが、その声が遠い。
「……すみません……ちょっと、席を外しても……?」
「えぇ、もちろん」
大丈夫ですか? と訊ねてくる相手に曖昧な笑みを返し、シェラは店の外に出て通話ボタンを押した。
『──あぁ、やっと出た』
耳元で響く低い声に、背中が震えた。
その戦慄がもたらされた理由が何なのか、シェラは気づかないふりをした。
「……なに……?」
『なに、って、何?』
「……」
くすくすと笑う声は、いつもの朗らかなものとはかけ離れている。
笑っているはずなのにどこか冷たい声。
獲物を前にした狩人の瞳が、見える気がした。
『約束……忘れたとは、言わせないよ』
「……守るとは、言ってない」
『へぇ? 約束破るんだ。教師が?』
「……」
『また私を脅迫する気か──とか思ってる?』
「……だったら何だ」
『ひどいなぁ。俺はあなたを脅したことなんて、一度もないのに』
酔いなどとっくに醒めている。
眉間に皺が寄っていることも、自分で分かる。
「よく言う……いつまでたっても画像は消さない。学校ではやたらと絡んでくる」
『それが、脅し?』
「無言の脅迫だ」
『あはは。──でも、恋人の寝顔を待ち受けにしているのは、普通だよね?』
「……なに、を……?」
『好きな人の傍にいたいと思うのも、何もおかしなことはない』
「きみ」
『そうでしょう──……シェラ?』
低められた声でささやかれ、ぞくり、と背中が騒いだ。
どうしてこの子の声は、こんなにも艶があるのか。
名前を呼ばれるだけで、足元から崩れ落ちそうになる。
「……私たちは、恋人どうしだと……? だから、きみのしていることは脅迫にならない……そう、言いたいのか?」
『頭の良い人は好きだよ』
「──馬鹿なことを言うなっ」
『馬鹿なこと?』
「……きみは、何がしたいんだ」
声が弱くなる。
彼に弱みを見せればつけ込まれることは分かっている。
それでも、勝手に声が震えるのだ。
──……怖い。
そう、恐ろしいのだ。
何を考えているのか分からず、何をしたいのかも見えてこない。
相手の手のひらの上で踊るしかないというのが、こんなにも恐ろしいことだとは思わなかった。
『別に。俺は今が楽しければそれでいい』
「……楽しい?」
はっと冷笑を浮かべるシェラ。
「私で遊ぶのが、そんなに楽しいか」
『楽しいですね。この上もなく』
「……」
『──で? 今お暇ですか?』
「……な、に……?」
『今。デートのお誘いなんですけど?』
俺から誘うなんて、レアですよ? とちっとも楽しくなさそうに嗤う。
「……今は、ダメだ」
『──誰かと一緒?』
「……」
『ふぅん。──でも、俺には関係ないですし』
「──っ、きみ!」
『理由なんて、いくらでも用意出来るでしょう? 語学の先生は、言葉を操るのがお仕事なんですから』
「……っ」
無視すればいいのだ。
こんな、脅迫紛いな誘いなど。
学校に暴露されたらされただ。
動き出すきっかけになるかも知れない。
「──……シェラ?」
どうとでもなれ、と半分自棄になって口を開こうとしたシェラは、その声が届いた瞬間頭が真っ白になった。
二度と耳にすることはない、と。
聞きたくても、聞くことの出来ない声だ、と。
自分に、何度も何度も言い聞かせたその──。
『──センセイ?』
耳に当てているはずの携帯からの声が、やけに遠い。
全身から、力が抜ける。
振り向いてはいけない。
分かっている。
そんなことは、頭では解っている。
『……センセイ──シェラ?』
だらり、と携帯を握っている手が力をなくす。
「シェラ、だな」
確信に満ちた声が、段々と近づいてくる。
──ダメだ!
脳裏ではそう叫んでいるというのに、立ち尽くすことしか出来ない。
ここから離れなければ。
すぐに、この人のもとから離れなければ。
そう思うのに、身体はまったく言うことをきかない。
必死に抗っているというのに、もうひと目その姿を見たいという欲求を抑えきることが出来ない。
──だから、シェラはゆっくりと振り返った。
そこには、半年前と何ら変わらない姿。
「シェラ……」
自分を呼ぶ声も、まったく同じ。
「……」
名前を呼ぼうとして、嗚咽で声が紡げないことを知る。
そうして、たった半年なのにどこか懐かしくて……半年も経ったのに未だに鮮やかだったその姿が、生身の姿で目の前にあることに身体が震えた。
目の前の長身に飛び込んで行きたい自分がいて、シェラは必死の思いでそれに抗った。
もう、終わったことだ──自分が、終わらせたこと。
別れを告げたのは、自分なのだから。
一方的な別れ……けれど、彼のためにはきっとそれが一番良かったのだ、と。
そう思っているのに、どうして自分の胸はこんなにも高鳴っているのだろうか。
「……」
声なき声で、相手の名前を唇に乗せる。
別の声が入ってきたのは、そのときだった。
「──バルロ?」
よく知ったその声は、今まで自分がいた店の中から──正確には、そこから出てきた男性のもの。
──……え? どうして……?
「ナシアス。お前、何をしている?」
「何って、同僚と飲みに──って、先生?!」
──……どうして、ジャンペール先生が、彼を知っているの……?
夜目にも、シェラの頬に涙が光っていることが見て取れたのだろう。
ナシアスは驚いた顔で駆け寄ってくる。
──……どうして、彼も先生を知っているの……?
「どうかなさったんですか?!」
「……」
「バルロ、あなた何か知りませんか?」
「……いや、俺は……」
否定の言葉が返され、シェラは思わず顔を歪めた。
これでいいのだというのに、どうしてこんなにも胸が痛むのか。
「……すみません……気分が優れないので、私は先に……」
「え? あ、え、えぇ……大丈夫ですか……?」
「……」
軽く頭を下げ、シェラは一度店に戻って鞄を手にすると「構わない」と言うナシアスに紙幣を渡し、寄り添うようにして立っているふたりの横を俯いたまま通り過ぎた。
どれくらい歩いただろうか。
いつ閉じたのかも分からない携帯を開き、自分からは一度もかけたことのない番号を呼び出す。
「────……どこへ、行けばいい……?」
どういう心境の変化ですか? と笑う声には答えず、落ち合う場所を決めると携帯を閉じた。
何でもいい。
忘れられるなら。
あの少年に抱かれているときは、確かに忘れられた。
──……ならば、それで……────いい。
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