──光、だった。
とても健康的な、燦然と輝く太陽のような人。
どういうわけだか昔から人を見る目がなくて、騙されたり、裏切られたり、傷つけられたり。
やさしいと思った人ほどその傾向が強くて、それでも、やっぱり第一印象でやさしいと信じ込んでしまうから『いつかやさしいあの人に』と思ってしまうことが多い。
そんなことばかり繰り返していたから、感覚が麻痺していたのだろう。
あまり行儀の良くない場所にも出入りしたし、お金をもらって抱かれたこともある。
本当は、やさしくしてもらえるならお金なんていらなかったけれど、それが彼らなりの線引きなのだと思ったから黙って受け取った。
今思えばあれは買春で、自分は性犯罪の一端を担っていたのだろう。
自分は恋愛をしているつもりだったから、犯罪ではないのかも知れないけれど。
──そんな自分が、どうしてあの人と出会うことが出来たのか。
分からないけれど、あの頃は物心ついてから初めて安らぎと心地良いぬくもりを感じることが出来た時間だと言える。
初めての邂逅は夜の繁華街。
倍以上歳の離れた男に手を引かれていたところを、半ば無理やり引き離された。
二、三人の男が自分を取り合うこともあったけれど、そういうときは最後に残った男についていくだけ。
今回もそうなのか、と思った。
「──どうせ遊ぶなら派手に遊んだ方がいいが、お前はまず人を見る目を養うべきだ」
どこかのホテルに連れ込まれるのかと思ったら、行き着いた先は駅近くのファミレスで。
コーヒー片手に説教する端正な容貌を、目をぱちくりさせて見ていた記憶がある。
黒い髪、黒い瞳の男らしい顔立ち。
意思の強そうな眉に、鍛えられた長身。
アメフトでもやっていそうな、広い肩と締まった腰。
顰められた顔も魅力的ではあったが、どうして自分が怒られているのかよく分からなかった。
「年齢は」
「……二十一」
答えれば、じっと瞳の奥を覗かれた。
居心地は悪かったけれど吸い込まれるような光の強い目をただただ見つめ返していると、「そうか」と返事があった。
嘘かどうか、見極めようとしていたらしい。
そもそも、自分には『嘘を吐く』という考えすらなかったのだけれど。
「大学生か」
「はい……」
「そろそろ就職を考える時期じゃないのか?」
暗に、『いかがわしい界隈をうろついている場合じゃないだろう』と突きつけられている気がした。
「……就職先は、決まっています」
「ほぅ?」
驚いたように目を瞠る様子が、少し子どものようで可愛らしい印象を受けた。
「真面目に就職活動していたのか」
「就職活動というか……試験に受かったので」
「試験?」
「はい。教員採用試験」
「き────?!」
カップに口をつけていた彼が、コーヒーを噴き出しそうになった。
気管に入ったのか、激しくむせている。
「あ、あの……大丈夫ですか……?」
おろおろしてお絞りと水を渡すと、しばらくしてようやく落ち着きを取り戻した彼が頭を抱えていた。
「……あのなぁ。青少年を導くべきものが、繁華街であんな胡散臭そうな男にホイホイついていくな」
「……あなたは……?」
「なに?」
「……あなたも、あそこにいらしたじゃありませんか」
若干唇を尖らせて上目遣いに顔色を窺えば、特大のため息が漏らされた。
「俺が行こうとしていたのは風俗店でもラブホテルでもない。至極真っ当な飲み屋だ。仕事帰りの疲れたサラリーマンがちいさな癒しと酒を求めて歩いていたところに、まぁ、見るからに怪しい風体の男に手を引かれた女性が見えた。男として、それは放っておけないところだろう。──まぁ、お前は男だったがな」
「……」
それは嘘ではないのだろうし、この男は嘘を言っているようには見えない。
少なくとも、自分に嘘を吐く必要はないはずだ。
「──とにかく。成人してるからって、家族に心配かけるようなことはするな」
「……いません」
「え?」
「家族……弟が亡くなってから、両親の仲が悪くなって……母が出て行ったあと、父は交通事故で亡くなりました」
「……」
言ってしまってから、苦笑する。
こんな重たい話を聞かせられて、気分がいいわけない。
あまり考えずにぺらぺらと喋ってしまう方だから、こうして呆れられることも多い。
そう思って顔を上げたら。
「──ひとり暮らしか」
「え?」
思いがけず真剣な顔がそこにあって、我知らず姿勢を正していた。
「今はひとりでいるのか、と訊いている」
「あ……はい。父の保険金が──」
言いかけて、また余計なことを喋ってしまっている自分に気づいて慌てて口をつぐんだ。
「そうか……」
何か考え込むような顔つきになった彼に、「あの?」と声をかける。
聞こえていないのか、僅かに目を伏せている彫の深い顔立ちをまじまじと見つめていると、「よし」と顔が上げられて驚く。
「とりあえず、送る。飲むつもりだったから会社に車を置いてきたが、そこまでは一緒に戻ってもらうぞ」
「え……?」
「ひとりにした途端にまた繁華街に逆戻りじゃ、寝覚めが悪いからな」
「……」
ぽかん、としていると、にやり、と口許が歪められた。
端正な顔立ちが一気に精悍さと色気を増した気がして、どきり、と心臓が跳ねる。
「安心しろ。見ての通り女には不自由していない──送り狼になどならん」
「……」
あなたなら構わないんですけど、と思いはしても珍しく口にしなかった。
それでも、そのときはそれで正解だったのだと思う。
「俺はバルロ。お前は?」
「……シェラ」
「名前まで女のようだな」
「生まれる直前まで、女の子だったみたいです」
「──なるほど」
まぁ、そういうこともあるらしいからな、と頷く。
からかわれることはよくあったし嫌な思いもしたけど、こうしてさらりと流されてしまうことは、それはそれで物足りなかった。
「さて。そうと決まればさっさと帰るぞ」
「……お酒は?」
「運転するのに飲めないだろうが」
「ちゃんと帰ります……煩わせるのは、申し訳ないですから……」
そう、初対面なのに、どういうわけかこの人に面倒だと思われたり、嫌われたりするのは嫌だった。
好意を持って欲しいだなんて思っていないけれど、でも、煩わしいと思われるのは、何だか嫌だったのだ。
「──それとも、私はそんなに信用ならないように見えるんでしょうか……」
自分の素行を思い返せば、まぁよくそんな台詞が言えたものだと汗顔ものだが、目の前にある精悍な容貌の主は「まったく」と言って大仰に肩をすくめた。
やはり呆れられたか、と身をすくませると、俯いた頭をガシガシとかき混ぜられた。
「ぅえあっ!」
思わず変な声を出すと、彼は低く深みのある声で笑った。
快活でいて、軽薄でない、まだ若いはずなのに落ち着いた声音。
とても、安心する声だ。
「学生が余計な気を回すな」
「……」
「それに、自慢だが俺は人を見る目がある方なんだ」
「……」
「お前が本当にどうしようもないやつなら、面倒事に巻き込まれるかも知れないのに引きずってきたりはしない」
「────……」
そのとき、彼がふと浮かべたあたたかい微笑とやわらかなまなざしを、今でも覚えている。
──胸の痛みとともに、覚えている。
「で? きみと彼はどういう関係なんだい?」
河岸を変えて飲み直しているナシアスとバルロだが、金髪の青年が楽しそうに瞳を輝かせているのとは対照的に、黒髪の青年の表情は冴えない。
ちびちびと舐めるように焼酎を飲んでいるバルロに、ナシアスはすっと目を眇めた。
「──昔の恋人?」
「……」
「ふぅん。なるほどね」
「……何だ」
「いや。道理でうちの可愛い妹が気に入らないわけだ」
「気に入らないと言った覚えはない」
「あんな滅多にお目にかかれない美人が元カノ──と、カレか。それじゃあ、アランナが劣って見えても仕方ない」
「……アランナは可愛い」
「だろう? わたしの妹だからね。よく気がつくし、家事は何でもこなすし、でしゃばらなくて頑張り屋さんだ」
くすくすと楽しそうに笑う男に、バルロは僅かに視線をきつくした。
「俺は──」
「──『お前のことが』、かい?」
「……」
梅酒のグラスを傾けたナシアスは、聖母のような微笑を浮かべた。
「困るって、何度も言っているだろう?」
聞き分けのない坊やだ、と嘆息すれば、バルロはふいっと横を向いた。
「わたしより、彼の方が美人じゃないか。女性でもあれだけ美しい人はなかなかいないよ? 散々遊び歩いていたきみには、言うまでもないことだろうけどね」
「……あれとは、もう終わっている」
「つれないな。──わたしのことも、そうやって捨てるんじゃないか?」
軽口を叩きながら梅酒のおかわりを頼むと、目の前でものすごい怒気が膨れ上がったのを感じて目を丸くした。
「──フラれたのは俺の方だぞ?! 一体どうしろと言うんだ!!」
かなりざわつきのある店内だが、低く張りのある豊かな声が怒号を上げれば、嫌でも視線が集まってくる。
ぴたり、と会話がなくなると、それまでが騒がしかっただけに耳に痛いほどの沈黙が訪れる。
だが、そんな周囲の注目などないかのように、ナシアスはにっこりと笑った。
その微笑を周囲にも向けると、自然と目が反らされてちらほら会話も始まり、元の居酒屋の風景に戻る。
「ほぅ。きみが失恋とは珍しいこともあるものだね」
「ふんっ。たった半年かそこらで、俺の何が分かる」
「じゃあきみは、たった半年かそこらで、わたしの何が気に入ったのかな? 自分で言うのもなんだけど、わたしは典型的なAB型だよ?」
まぁ、血液型占いなど生物学的には何ら根拠のないものだけれどね、と笑う。
「こんな扱いづらい男より、お人形さんみたいに可愛い子の方がいいんじゃないかな?」
「……お前、アランナはどうした」
「もちろん、きみがアランナを選んでくれるならこんなに喜ばしいことはない。あの子は君に夢中だからね」
「……」
「けど、わたしだって鬼じゃないから、浮気のひとつやふたつ、愛人のひとりやふたりくらいで文句は言わないよ」
ずいっと身を乗り出してバルロの耳元で低くささやく。
「──何といっても、きみはこの国で五指に入る、大企業の経営者なんだからね」
多少の遊びには目を瞑りましょう、と店員が運んできた梅酒のグラスを受け取って口をつける。
「……お前こそ」
「わたし?」
「エンドーヴァー家といえば旧家の名門。政財界で知らない人間などいない」
「──それは父方の姓だ」
ぴしゃり、と冷たく言い切ったナシアスの瞳は、空の青ではなく凍える冬の冷気となった。
「きみは、わたしがその名を嫌っているのを知っていてわざとそんなことを言う。相当に性格が悪いね」
「お互い様だ」
「好きな子相手に意地悪をするなんて、本当に坊やだな」
「煩い。たかだか五つの違いだ」
「赤ん坊と五歳児くらいの違いはあると思うけれどね」
「ナシアス」
しっ、と唇の前に指を立てる。
「あまり騒ぐと、追い出されるよ」
「構うものか」
「わたしは構う。ここのお酒は美味しい」
「……」
「嫌ならきみひとり出て行くといい」
実際幸せそうにグラスを空けるナシアスを目の当たりにすると、バルロは口をつぐむしかなかった。
「──ま。アランナにするなり、元サヤに戻るなり、両方選ぶなり。好きにするといい」
「お前は……」
人の話を聞いているのか、と言ったところで、このやたら顔の綺麗な男がまともに会話に乗ってくるわけがない。
それは、さして長くない付き合いでも分かっている。
──分かっているからこそ、腹が立つのだが。
「──……わたしとしては、さっさと収まるところに収まってくれることを祈るばかりだ」
ぽつり、と呟かれた言葉は、周囲の喧騒に掻き消されてバルロの耳には入らなかった。
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