「────っ?!」
跳ね起きた瞬間、全身から冷や汗が噴き出す。
心臓はいつもの倍の速さで脈打っていて、手足の先が震えている。
息を吸い込もうにも悪夢に支配された脳は呼吸の仕方すら忘れてしまった。
見開いた眼には実際に目の前にある室内の様子ではなく、消し去ってしまいたい過去と二度と目にすることはない──したくもない悪魔の顔が映し出されている。
「……ぁ、……っ……」
肺が潰れてくっついてしまったのではないかと、頭の片隅でぼんやりと思う。
このまま死ぬのだろうか。
──それもいいかも知れない。
左胸を掻き毟るように掴み、瞬きすら忘れた眼で一点を見つめたまま、口許を三日月型に歪める。
「──ヴァッツ?」
呼ぶ声が聞こえるが、反応しようにも身体が動かない。
ほとんど酸素を取り込めない浅い呼吸を繰り返していると、盛大な舌打ちが聞こえた。
「──っ!」
次の瞬間にはベッドに押し倒されて、薄く開いた唇から無理やり舌をねじ込まれた。
抵抗しようだなどという意識は働かず、ただ、相手の好きなように口腔内を嬲られる。
これが、愛情や欲情など、およそ『情け』と呼べるようなものからくるものでないことはよく分かっている。
やろうと思えばいくらでもやさしく出来るクセに、乱暴なまでに余裕のないキス。
その余裕のなさも、決して情事の興奮からくるものではない。
「……っ、ふ……レ、ティ……」
苦しい、と細い肩を叩いて訴えれば、下唇を強く噛んで熱が離れていく。
「……痛い……」
上がった息の向こうから文句を言えば、「痛覚が戻ってりゃ上々だ」と疲れたようにため息を零した男が煙草を銜えて火をつける。
「……俺も」
「やめとけ、死に損ない」
「くれよ」
「……」
どこか必死な面持ちに、レティシアは嘆息すると一本口に銜えさせてやり、自分の煙草から火を移した。
「……危ない」
「さっきまでのお前の方が、よっぽど危ねぇよ」
「──……悪い」
項垂れる黒い頭を、軽く叩く。
後頭部を撫でながら、ちらり、と顔色を伺うように視線を向けてくる悪友に、レティシアは忠告してやった。
「命を助けてもらったときは、『ごめんなさい』じゃなくて、『ありがとう』でしょ」
「……」
「は~い、Repeat after me. アリガトウゴザイマシタ」
「……ありがとうございました」
「おー、素直でよろしい」
わしゃわしゃと黒髪を撫でてやると、目を閉じてされるがままになっている。
常の彼からは考えられないくらいに無防備な様子に、レティシアは内心で苦笑した。
「──よし。喫煙タイム、しゅーりょー」
言って、ヴァンツァーの口から煙草を取り上げる。
「まだほとんど吸ってない」
恨めしげな視線に、にっこりと笑みを返す。
「寝煙草は危ないでちゅよー」
「……まだ寝ない」
正確には、『寝たくない』のだ。
今寝たら、また悪夢に襲われる気がする。
そんなヴァンツァーの表情を読み取ったのか、レティシアは白い頬を引っ張った。
「……いひゃい……」
「安心しなさい────寝かせてやるから」
「……」
軽く目を瞠ったヴァンツァーは、直後疑わしげにこう言った。
「……それって、『寝かせる』んじゃなくて、『気絶させる』の間違いじゃないか?」
「一緒、一緒」
「……」
「で。どうするんだい、ハニー?」
「……だからやめろって、その呼び方」
「だってお前、蜂蜜みたいに甘いんだもん」
「冗談だろう? 毒物扱いならまだしも」
「いんや。甘い、甘い」
ぺろり、と耳朶を舐め、「な?」と目を細めて笑う。
その無邪気な様子に苦笑したヴァンツァーは、「分かったよ」と細い、けれど見た目とは裏腹に強靭で硬い身体を引き寄せた。
「──先生」
そう呼ばれる人間は、学校という場所なら何十人もいる。
しかし、明確に自分に向けられた声だと分かり、ナシアスは振り返った。
「あぁ、おはようございます」
にっこりと微笑み、教員用の玄関から駆け寄ってきた銀髪の主と朝の挨拶を交わす。
「おはようございます……あの、先日はすみませんでした……」
ぺこり、と頭を下げられ、はて? と首を傾げる。
「あの……その、酔っていたせいか、醜態を……」
相変わらず顔の半分を覆い隠しそうなフレームの眼鏡をしているが、頬を赤く染める様子が可愛らしくもある。
ナシアスはぽんっ、と手を打った。
「可愛い泣き顔のこと──」
「せ────?!」
慌てて『もがっ』とナシアスの口を塞ぐシェラ。
きょろきょろと辺りを見回すが、まだ生徒たちが登校するには早い時間だから誰もいなくてほっとする。
「……お……おっしゃらないで下さい……!」
「可愛いなぁ」
ふふっ、と笑って染まった頬を撫でる指に、シェラは「からかわないで下さい」とまなざしをきつくした。
「先生は、うさぎちゃんみたいですねぇ」
「──は?」
「真っ白くて、ふわふわのうさぎちゃん」
ほやぁん、とした様子でにこにこと話すナシアスに、シェラは「……はぁ」と曖昧な返事をした。
「警戒心が強いのに、一度受け入れると絶対的な服従を誓うタイプですね」
「──……」
言葉を返せないでいるシェラに、ナシアスはにっこりと聖人君子然とした笑みを浮かべた。
「とても可愛らしいけれど……──人を見る目がないと、悪い狼さんに食べられちゃいますよ?」
菫の瞳を瞠るシェラに、「気をつけて下さいね」と言うと、ナシアスは自分に与えられた研究室へと向かった。
「……」
残されたシェラは、懐かしい記憶と重なる台詞に、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
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