初対面の人とふたりきりで車に乗ったって、緊張したことなんてない。
それから先のことに、期待したこともない。
大抵、車に乗せられたときは向かう先など決まっていて、「家まで送るよ」と言って本当に真っ直ぐ送られたことなんて皆無だ。
「……あれ、うちです」
だから、馬鹿正直に自宅に送り届けられたとき、シェラは若干戸惑ったものだ。
「そうか」
「はい……」
何だか、肉体関係を持つわけでも、持ったわけでもないのに、妙な気まずさがある──否、気まずいと感じているのはシェラだけだったが。
「あの……すみませんでした。お手数、おかけして……」
項垂れるように頭を下げると、運転席の男は「まったくだ」と軽く息を吐いた。
その様子に、僅かに眉宇を曇らせるシェラ。
膝の上で、ぎゅっと手を握る。
「──おい」
言葉とともに、額をピンッ、と弾かれる。
思わずそこを押さえて顔を上げると、どきどきするような端正な横顔。
あまり相手の容姿にこだわったことはないが、こういうとき、自分は面食いなのだなぁと思う。
「冗談だ。お前は、人の善し悪しを見分ける眼と一緒に、言葉の真偽を確かめる力も身につけた方が良さそうだな」
「……すみません」
「別に怒っているわけじゃない。呆れているだけだ」
「一緒です……」
この人に嫌われたり、呆れられたり、マイナスのイメージを持って欲しくない。
けれど、それは自分にとって大層な高望みで、繁華街で男に誘われるままついて行こうとしていたクセに、イメージも何もない。
「だいぶ違うだろう」
「……一緒です。だって……」
言うな、と声がする。
この人は、住む世界が違う人だ。
車を取りに戻った会社もとても大きなビルだったし、社名はまともな就職活動などしていない自分でも知っている有名どころだ。
そこの社員ということは、きっと仕事が出来て、頭も良くて、前途洋々とした素晴らしい人なのだ。
「だって……」
そんな人に、初対面でこんなことを言ってはいけない。
「だって、何だ?」
「……」
「はっきりしろ。──お前、男だろうが」
「──……」
記憶を探っても、自分を正面から男扱いした人間は少ない。
名前も容姿も女のようだし、その上自分は男が好きだ。
女々しいとからかわれることなど日常茶飯事で、高校時代など大多数の女生徒に嫌われていた。
原因はほぼ彼女たちの意中の男子の注目を集めていたからなのだが、『寝取られた』と噂されたこともある。
完全に間違いとは言い切れないので、特に反論もしなかったのだが、それも良くなかったのだろう。
当然、男と寝るときは女役をするし、それを嫌だと思ったこともない。
だから、あまりにも新鮮な言葉に思わず目を丸くした。
「何だ、その鳩が豆鉄砲喰らったような顔は」
「……ダメです……」
「は?」
「そんなこと……言っちゃダメです……」
怪訝な顔になり、「何か悪いことを言ったか?」と訊ねてくる男に首を振る。
「ダメです……そんなこと言われたら……────好きに、なっちゃいます……」
語尾は口の中で呟いたから、もしかしたら聞こえていないかも知れない。
だが、一度口にしてしまったら吹っ切れたのか、シェラは顔を上げてバルロを見た。
きょとん、とした顔をしている男に、破裂しそうな心臓を押さえながら言った。
「──好きになっても……いいですか……?」
生まれて初めて、自分から告白した瞬間だった。
六月になれば、進路調査のための三者面談が行われる。
高校三年生ともなれば、その重要性は言うに及ばない。
まず紙面で進路調査票を提出してもらい、それをもとに父兄を交えて生徒の進学・就職先について面談する、のだが。
「──ミスタ・ファロット」
廊下でよく知った声に呼び止められ、ヴァンツァーは振り返った。
「こんにちは、先生。どうかしました?」
にっこりと、可愛らしいくらいの笑みを浮かべる生徒を、シェラは「ちょっと」と言って自分の研究室に促した。
失礼します、と礼儀正しく入室の挨拶をする教え子に、シェラはとりあえずソファに座るよう勧めた。
そうして、進路調査票をテーブルに置き、口を開いた。
「三者面談の希望日が記載されていないんだが、期間中では都合が悪いのか?」
だったら別の日に時間を作ろう、という副担任に、ヴァンツァーは薄く笑みを浮かべて首を振った。
「そうか、先生ご存じないんですね」
「……何がだ?」
「俺、──親、いないんですよ」
「……」
「小学校の頃、亡くしまして」
「そうか……それは」
すまない、と頭を下げようとしたシェラをヴァンツァーは止めた。
「隠すつもりはないけれど、おおっぴらにすることでもないのであまり知っている先生はいませんし。──あ、でも校長先生とシリル先生はご存知ですよ」
担任の名前が出てきて、シェラはまずそちらに確認すべきだった、と顔色を曇らせた。
自分も、訊かれれば答えるが、あまり家族のことに言及されたくはない。
「……無神経だったな」
呟く副担任に、ヴァンツァーは笑って「今更」と言った。
「あなたが言いたいことを言う人だというのは、知っているつもりですけど?」
「……」
「それに、知らなかったのはあなたの罪じゃない」
まるでこちらを慰めるような言葉に、シェラは思い切って訊ねてみた。
「その……ご両親を亡くされて、……苦労は、していないのか?」
「まったく。遺産があるので、ここの学費もちゃんと払っていますよ」
「きみの成績なら、特待生として生活することも出来るはずだが?」
「ごめんですよ、そんな面倒な生活。色々拘束されて、制限が設けられて」
「……きみらしい」
冗談ではない、と顔を顰める様子に、シェラはちいさく笑った。
「……大して力になれるかどうか分からないが、何かあれば相談してくれ。もちろん、シリル先生でも構わないが……」
言えば、くすくすと笑う気配がしてシェラは顔を上げた。
「何だか、教師みたいですね」
「……失礼な。私は正式採用されたここの教員だ」
「それはそうなんですけど」
「私が教員に向いてないと言いたいのか?」
「いいえ。あなたの教え方はとても巧いと思いますよ」
「……」
真っ直ぐに褒められて、シェラは逆に驚いた。
その表情を読み取ったのだろう、ヴァンツァーは苦笑した。
「俺だって、評価すべきところはきちんと評価します」
「そうか……」
「──……ベッドの上のあなたなら、かなりの高得点なんですけどね」
「──きみ!!」
声を荒げても、涼しい顔をして受け流す。
怒るだけ時間と体力の無駄だということは分かっているのだけれど、どうしてもこの手の会話は苦手だ。
ここが学校だということも、もちろんあるのだが。
「はいはい、怒らない。怒ると皺が増えますよ」
「……まだそんな歳じゃない」
「若いうちからのお手入れが大切なんですって」
「……どこぞの女にでも教えてもらったのか」
「あなたって、本当に顔に似合わず口が悪いですよね」
気の毒そうに見つめてくる藍色の瞳に、額の青筋が増えた気がする。
「で? 進路の話はもうおしまいですか?」
「……あぁ──と、法学部?」
進路調査票を手に取ったシェラは、希望大学の学部を見て首を傾げた。
「きみは法律家になるつもりなのか?」
「おかしいですか?」
「……それをきみが言うのか……?」
未成年で喫煙し、同じ学校の教師と肉体関係を持ち、それで希望進学先は有名大学の法学部ときた。
「何でまた」
「面白そうかな、って」
「それだけ?」
「興味をもった分野の研究を深めるのが、学問でしょう?」
「……いや、きみにそんな正論を吐かれても……」
「うわぁ、失礼だな。未来ある学生に言う台詞じゃないですね」
「きみにだけは、『失礼』だなどと言われたくなかったよ」
疲れたように肩を落とすシェラは質問を続けた。
「で? 弁護士? 検事? 裁判官? それとも、研究者?」
「弁護士」
「──へぇ、弁護士。何でまた?」
ヴァンツァーはゆったりと笑みを浮かべて告げた。
「──死ぬほど嫌いなんですよ、弁護士って」
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