「……嫌いなのに、なりたいのか……?」
「『なりたい』んじゃなくて、『なる』んです」
「……きみのことだ。知っているとは思うが、司法試験は」
「あらゆる国家資格試験の中で最難関、ですか?」
「あぁ。夢を持っているなら教員として応援したいとは思うが──何がおかしい」
喉の奥で笑う様子に、シェラは若干眉宇をひそめた。
自分は今、教師として真剣に進路の話をしている。
確かに、青少年を導くものとして不適格なところはあるかも知れないが、それでも、少なくとも今は真剣に仕事と、生徒と向き合っているつもりだ。
それを茶化されて、気分がいいわけがない。
「──夢? 夢って、憧れていたり、叶えたいと望んでいる物事に対して使う言葉じゃないんですか?」
「……そうだろう? 現にきみは」
「──冗談じゃない」
「……」
語気の強さに、思わずシェラは身を強張らせた。
大声を出したわけではない。
むしろ低く、静かに紡がれた声音だ──けれど、だからこそ、その冷たさが身体に突き刺さるようだった。
「言ったでしょう? 弁護士ってヤツは死ぬほど嫌いなんだ。虫唾が走るくらいにね」
「だったら」
「だから、なるんですよ」
「……きみの言っていることは、いつもよく分からないな……どうして、なりたくもない、嫌っている職業に就こうとしているんだ」
「さぁ?」
「ミスタ・ファロット、私は真剣に」
「俺も至って真剣だ」
「……」
ヴァンツァー・ファロットという人間の眼はいつだって冷徹なほどに冷静だが、今回はその冷静さの奥に炎が燻っている気がした。
いや、炎というにはまだちいさい、けれど無視出来ない火種がある気がするのだ。
「冗談でこんなことを言っているわけじゃない。司法試験に合格するために一生を棒に振る人間がいることも知っている。俺が確実に合格する保障なんてどこにもない」
「それならどうして」
「さぁ、何ででしょうね。お金かな。それとも、名誉かな──権力かも知れない」
「──それのどこが真剣だと言うんだ」
薄笑いを浮かべる生徒に、シェラは少しきつい口調で切り返した。
睨みつけている自覚もある。
それを気にするような殊勝な性格をしていないことは、よく知っているのだが。
「真剣ですよ。──『力』が欲しいと思うのは、万人共通だと思うけどな」
「何のための力だ。弁護士なら、弱者を救済するのが仕事じゃないのか」
「──はっ、弱者?」
吐き出された言葉の鋭利さに、息を呑む。
常に貼り付けたような笑みを浮かべている美貌が、嫌悪に歪んでいる。
世界のすべてを憎悪しているかのようなその表情はそれでもなお美しかったが、得体の知れない恐ろしさを内包していた。
「弱者は守られるべきもの? 大事に、慈しまれるもの?──それは、誰が唱えた幻想ですか?」
「……きみ」
「違うだろう? 弱者は、蔑まれて、踏みにじられて、人としての尊厳も、否と答える声さえも奪われた、搾取の対象だ」
「……」
「弁護士は、それを助けるヒーローなんかじゃない。絶望した弱者を助けるふりをして、更に奈落の底へ突き落とす、──薄汚い地獄の亡者だ」
「きみは……」
自分への非難というわけでもないのに、浴びせられる言葉の棘があまりに鋭くて息が出来なくなる。
そんなシェラを見てというわけでもないのだろうが、ヴァンツァーは不意に微笑んだ。
「──それなのに、あんなバッジひとつであらゆる人間の賞賛と信用を一瞬で勝ち取る……」
どこか、うっとりと夢見心地な口調。
それなのに、脈打つ心臓の速さは今まで以上。
言葉が、直接心臓に叩きつけられるようだった。
「こんなに便利な道具って、ちょっと他にないでしょう……?」
「……きみは、弁護士になって何がしたいんだ」
「なったら考えます」
「──……」
腹の底から、ふつふつと怒りが湧き起こってくる。
職業観も倫理観も、自分がどれほど希薄な人間かということはよく分かっている。
だから自分と比べるつもりはないが、どうしてもあの人と比べてしまう。
思い出すだけでも胸が痛むのに、忘れようとしているのに思い浮かべてしまう。
派手に遊びはするが、後腐れのない、割り切った遊び方をする人だった。
決して法に触れるようなことはしなかったし、人に恨まれるようなこともなかった。
真面目とは決して言えないが、自分の仕事に美学を持った人だった。
「……きみは、社会人としての適正がかなり低いようだな」
それに大して、涼しい顔のままヴァンツァーはこう答えた。
「────人間としての適正が、皆無なんですよ」
「──お兄様!」
待ち合わせの五分前を目指して行動していたナシアスだったが、妹はもっと前からその場所で待っていたらしい。
姿を認めるなり、駆け寄ってきて抱きつかれた。
「……こらこら、アランナ。レディーが公衆の面前で──」
「お久しぶりです、お兄様」
嗜めようとしたナシアスだったが、先手を打って花が綻ぶようなにっこりとした笑顔を向けられてはそれ以上叱ることも出来ない。
「……まったく」
困った子だ、と頬を撫でれば、嬉しそうに目を細めて微笑む。
その姿を、心の底から愛しく、可愛らしいと思う。
母親によく似たやさしい面立ちの、愛嬌のある好ましい人柄──何もかも、自分にはないものだ。
それでもそれが嫌悪の対象ではなく、愛情の向かう先となるのだから人間という生き物は面白い。
「最近お仕事はどうですか?」
「うん? あぁ、やんちゃな子たちが多くてね。体力がついていかないよ」
「まぁ、お兄様ったら」
ころころと、鈴が転がるような明るい笑い声に癒される。
無条件に慕われるというのは、案外気分の良いものだ。
「まるでお年寄りみたいなことをおっしゃるんですね」
「年寄り……まだ若いつもりだったんだが、今の発言はダメかい?」
「ダメではないですけど……──あ、そうだ。お兄様は優秀でいらっしゃるから、達観された雰囲気があるんですわ」
「ふむ……ものは言いようだね」
「あら。わたくし、きちんと褒めてましてよ?」
「知ってるよ──ありがとう、アランナ」
自分で言っておきながら、公衆の面前で妹の頬にキスをする。
なまじ抜群の容貌をした男性なだけに、周囲の注目もすさまじい。
アランナは確かに可愛らしい、誰からも好かれそうな顔立ちをした女性だが、美貌のナシアスと比べてはやはり見劣りする。
ふたりの関係を知らないものが見れば、みすぼらしい女が金を出してホストに遊んでもらっている、くらいの印象しか持たれないかも知れない。
「──お、お兄様!」
赤くなってきょろきょろしているアランナに「可愛いなぁ」と微笑むと、ナシアスは軽く、それでいて優雅に礼を取った。
「──では、お嬢様。本日はどちらへご案内いたしましょうか?」
ぷっくりと頬を膨らませていたアランナは、次の瞬間破顔して兄の腕に自分のそれを絡めた。
「まずは美味しいランチとスイーツのお店へ。そのあとはお買い物三昧をして、お夕食は上品に会席料理で。あ、出来れば美味しいカクテルも飲みたいです」
「……予約なしで、会席かい?」
「大丈夫ですわ。わたくし、これでも割と顔が広いんですから」
「……アランナ」
苦笑するナシアスに、アランナは悲しげな表情を浮かべてみせた。
「──あ、……ごめんなさい。お兄様、そういうのお嫌いでらっしゃるのに……」
一瞬前の晴れ晴れとした笑顔が嘘だったかのように途端に表情を曇らせた妹に、ナシアスは「いいよ」と答えた。
「アランナがそうしたいのなら」
「……でも」
「今日のわたしは、アランナのためのコンシェルジュってところかな。お嬢様のご要望は、すべて叶えてご覧に入れますよ」
にっこりと微笑んだナシアスに、アランナは嬉しそうな笑顔を向けた。
「お兄様、大好き!」
「わたしもだよ」
ひと月からふた月に一度、こうして妹と会える時間を、ナシアスはとても楽しみにしていた。
深窓の令嬢として育てられたから多少我が儘なところはあるが、それを含めても、一緒にいるとほっと出来る数少ない人間だった。
兄妹だから空気が肌に馴染むということもあるのだろうが、親子であっても顔も合わせたくない人間だっている。
だから、それはアランナ自身の持つ癒しの気質なのだろう。
「──そうだ、アランナ」
「はい、お兄様?」
駐車場まで歩き、助手席にアランナを乗せたナシアスは、エンジンをかけると妹に訊ねた。
「あの朴念仁は、デートにくらい誘ってくれたかな?」
「ぼく──……お兄様、バルロ様のことをそんな風におっしゃっては失礼です」
「おや。では唐変木だったか」
「もうっ」
言いながらも、アランナはちいさく笑っていた。
笑ってはいるが、若干声に寂しさが混じる。
「……バルロ様は、お忙しい方ですから」
「アランナをデートに誘う以上に優先させることがあるってことかい? それは許せないね」
「お兄様」
「今度会ったら説教だな」
「お兄様ったら。よして下さい」
本当に困ったように眉を寄せる妹に、ナシアスは苦笑しながら謝った。
「ごめん、ごめん。冗談だよ」
「もう……お兄様はやるとおっしゃったらやる方なんですから……」
「はは。さすがはわたしの妹だ。理解者がいるというのは嬉しいものだね」
「今度は褒めてません」
ふいっ、とそっぽを向くアランナに、ナシアスは慌てて言葉を繕った。
「──あぁ、悪かった。本当に、しないから」
「……本当に?」
「本当に」
「約束……?」
「約束。わたしはアランナとの約束を破ったことはないよ」
「──信じます。でも、本当に、バルロ様は悪くないんですからね……? あんなに素敵な方なんですもの……もしかしたら、意中の方がいらっしゃるのかも知れませんし……」
「……」
これには、天井を仰ぐしかないナシアスだった。
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