『危うい』

きっと、彼を見てそんな評価を下す人間は、そうはいない。
成績優秀、眉目秀麗、品行方正、スポーツ万能。
欠点らしい欠点を探す方が難しいような少年──否、青年だ。
けれどシェラは、幸か不幸か他の教員や生徒たちが知らない彼の一面を知っている。
それは何も、ベッドの上というだけの意味ではない。
学校の中でも、自分の前では仮面のような微笑み以外の表情を見せることがある。
もちろん、それはふたりきりでいるときに限られるが、冷徹で、酷薄で、慈悲のかけらもない表情を垣間見せることがあるのだ。
どうして彼がそんな二面性を身につけているのかは知らないし、きっと訊いたところで正直に答えてなどくれない。
むしろ、彼がシェラに対して別の側面を見せているのは、特別扱いしているというのではなく、ただ単に彼が笑って済ませられない、傷を抉るような発言を無意識のうちにしてしまっているからなのだろう。
思ったことをそのまま口に乗せてしまうシェラだから、昔からそれでよく失敗してきた。
それでも、自覚したところでさして改善が見られないのだから、もうそれは矯正が出来ないほど人格や性質に組み込まれてしまっているものなのだろう。
正直といえば聞こえは良いが、社会人として生きていくには不便な性格だった。
また、幼い頃に身に着けた習性というものは大人になっても健在で、彼は何でも自分の中で解決しようと試みる傾向にあった。
──だからなのか、シェラはこのところ、かの少年のことを考えている時間が多くなった。
それはある意味、『あの人』のことを忘れていられる時間だった。

「──How’s my babe today?

そう声がかけられたのは、中間試験の試験中だった。

「……」

シェラは信じられないものでも見るような目で、整いすぎた造作を凝視した。
にっこりと微笑む少年は、試験問題に関する質問に答えるために教室を回っているシェラがやってくるなり、消しゴムを落とした、と手を上げて傍にきた彼の耳元にささやいたのだ。
落としたものを自分で拾うとカンニング扱いされるため、そういった場合生徒は教員を呼ぶことになっている。
決まりは決まりだが、静まり返った教室でこんなことをしてくるとは思っていなかったため、シェラはしばらく動けなかった。
文字通りに取るならば、『ご機嫌いかが、ぼくの可愛い人?』といった程度の言葉だが、この少年がそんな可愛らしい台詞を口にするわけがない──それも、わざわざ成績に響く試験の最中に、だ。
あまりにも流暢で早口だから、他の生徒が聞き取れている可能性は低い。
それでも、万が一ということがある。
消しゴムを拾った体勢のままじっと少年のことを見ていたシェラだったが、やおら立ち上がると机の上に消しゴムを置きながら、試験問題のある一点を指差した。

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示された言葉に、今度はヴァンツァーが目を瞠る番だった。
大人びた雰囲気のこの生徒がそういう表情を浮かべるのを見ると、何だか胸がすっとするシェラだった。
勝ち誇ったような顔を見せれば、ヴァンツァーはくつくつと喉の奥で笑ったあと、にっこりと微笑んだ。

「──わざわざ、ありがとうございます」

それは他の誰にも分からない、当事者たちも決めていたわけではない、『夜の逢瀬』を約束する合図だった。


「……お前なぁ」

心底呆れた、という顔を隠しもせず、バルロは助手席で不安気な顔をしている青年を見た。

「俺は初対面の人間にそういうことを言うな、と言っているんだ。全然分かってないだろう」
「……ダメ……ですか?」
「だから、そういうことではなく」
「じゃあいいんですか?」

ぱあぁぁ、と顔色を明るくした、どこからどう見ても美少女な男に、バルロは盛大なため息を返した。

「──いいか、よく聞け」
「……」

低められた声に、シェラは反射的に身構えた。
心臓は先ほどから胸を突き破って出てきそうだ。
喉はカラカラに乾いているし、手足も震えていて座っていることもつらいくらいだ。

「誰にでもそういうことを言うんじゃない。そういう台詞は本当に好きなヤツに──」
「──好きです!」
「……」
「あ……あなたのこと、す、すごく好きです!」

真っ赤になってともすれば泣きそうな表情をしているシェラに、バルロは思わず口を閉ざした。
最初に見たときから思っていたが、この菫の瞳は嘘を吐かない──否、吐けない。
馬鹿正直なまでに、真っ直ぐだ。
だからこそ、助ける気になったのだが。

「こ、告白だって……初めて、自分からしました……」

消え入るような語尾になるのは、緊張が極限に達した今の彼には仕方のないことだった。
俯いて、せわしなく指を組み替えて、膝を擦ったり、長い銀髪を耳にかけたり。
そうして、じっと見ることは出来なくても、ちらちらとバルロの表情を伺う。
本当に、男だというのが信じられないくらいに可愛らしい様子だ。

「……」

そんな風に思ってしまって、バルロは内心で首を振った。
これでは、繁華街にいた男と変わらない。
ひとつ咳払いをすると、潤んだ瞳で見つめてくる捨て犬のような青年に訊ねた。

「自分から告白するのは初めて?」
「……はい」
「『好きになってもいいですか』とか言っていたな」
「……はい」
「それで俺が『ダメだ』と言ったらどうするんだ」
「……」

きゅっと唇を噛み締める仕草が、また大層可愛らしい。
見た目だけで言うなら、この天使のような美貌を嫌いなわけがない。
むしろ綺麗な顔は大好きだ。
どちらかといえば、自分の好む性格に比べおとなしくて儚げではあるのだが、それはそれで趣があって良い──と考えてまた首を振る。

「……好きになってもらえるように、努力します」
「どんな?」
「……」

また黙り込む様子に、バルロは気づかれないようにちいさく口許で笑った。
嘘を吐くのが嫌いなのか、生来の気質なのか、この銀色は本音を口に乗せる。
そのために、言葉を操るのに時間がかかるらしい。
あまり気の長い方ではなかったが、自分の問いかけにどんな答えが返ってくるのか待つというのは、案外悪くない。
それも、適当に取り繕った言葉ではなく、本音を口にしてくれる。
幼い頃から虚偽だらけの美辞麗句を並べ立てる大人ばかり目にしてきたからか、こういう態度は非常に好ましいものがある。
何とはなし、答えを待つ間に口許が緩んでいるのを感じる。

「……あなたの好きな服を着て」
「別に似合っていればどんな服装でも構わん」
「…………あなたの言うことを何でも聞いて」
「そんな人間は吐いて捨てるほどいる」
「………………あなたの、身の回りのお世話を」
「お前、俺の使用人になるつもりか?」
「……………………お料理、得意です」
「それはいいな」
「──本当ですか?!」

喜色満面になるシェラに、バルロは「しかし」と釘を刺した。

「大抵の女は同じ台詞を言えばウケると思っている。聞き飽きた」
「……」

眉を顰め、唇を噛み締め、泣きそうな顔で──それでも、『負けるものか』という表情を浮かべている。
やはり笑いを噛み殺したバルロは、ハンドルに腕を預けて「それでおしまいか?」と訊いた。
面白いは面白いが、もうひとつ刺激が足りない。
この奥ゆかしい雰囲気を好む男も多いのだろうが、少なくとも自分はそうではない。
三歩下がってついてくるタイプも嫌いではないが、それだけではダメだ。
それだけでは、自分と一緒にいることは出来ない。
だから、バルロは嘆くようにため息を吐いた。

「ふむ。案外つまらな──」
「~~~~っ、つべこべ言わずに、私を好きになればいいんだ!!」
「……」

唐突に、胸倉を掴まんばかりの勢いで大声を出され、バルロは目を真ん丸にした。
真っ赤な顔をした天使は、柳眉を吊り上げて息を荒くしている。
あんまり考えすぎて、思考がショートしてしまったのかも知れない。
挑みかかるような視線の強さがどこか心地良い。
元来、自分の性格が生意気で無鉄砲で尊大であることを自覚しているバルロだから、偉そうな態度を取る人間を見ると無性に反発したくなる。
上からものを言われるのが大嫌いなのだ。

──しかし。

「……ぷっ」

堪えきれずに吹き出すと、あとはもう腹を抱えて笑うだけだった。

「……え……え?」

きょとんとして瞬きしているシェラを見て、また盛大に笑う。
こんなに大声を出して、腹が痛くなるほど笑ったのは久々だった。
貼り付けたような笑顔ばかり浮かべていることが多いから、顔の筋肉が固まっていたのかも知れない。
若干こめかみの辺りが痙攣して痛い。

「あ……あの?」

勇気を出して告白したというのに、相手はひーひー腹を抱えて笑っている。
思えば、これ以上失礼なこともない。

「ど、どうして笑うんですか!」

真剣なのに、と声を荒げれば、一層笑いが大きくなる。
狭くはないが、さして広くもない車内だから車体が揺れるような印象すら受ける笑い方だった。
気持ちが良いといえば気持ちが良かったが、これでは一世一代の告白が台無しだ。

「い、いや……悪い、わる──」

ぶはっ、とまた吹き出す。
頬を膨らませているシェラの前でひとしきり笑うと、バルロは眦に滲んだ涙を拭って大きく息を吸った。
深く吐き出し、まだ笑いを堪えているかのような表情でシェラに言った。

「──お前、俺が好きだろう」

思わずきょとんとしてしまったシェラだった。

「はい。さっきからそう言ってます」

真面目な顔で頷くと、また笑われた。
もう勘弁してくれ、とか言っているが、それはこっちの台詞だ。
いいのか悪いのか、はっきりして欲しいものだ。
どっちなんだ、と喉元まで出かけているシェラに、バルロは「違う、違う」と手を振った。
首を傾げるシェラに、教えてやる。

「振り向いてくれない相手には、毎日毎日そう言ってやるんだ」
「……はい?」
「『お前、俺のことが好きだろう』、『好きだな』って繰り返していれば、そのうち『あぁ、そうなのかも知れない』と思うようになる」
「……え?」
「まぁ、大抵錯覚なんだが、気のせいだろうと何だろうと、その気にさせてしまえばこっちのものだ。人間は考える脳みそがある分、暗示をかけるのも簡単な生き物だからな」
「……」

まだ首を捻っているシェラに、バルロは器用に片目を瞑って見せた。

「──とりあえず、毎日俺に言ってみろ」

しばらく考えたのち、シェラはほわぁぁぁぁぁ、と菫色の瞳を宝石のように輝かせたのだった。




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