ヴァンツァーは、不意に笑った。

「──どした?」

目の前で食事を摂っている友人に訊かれたので、「いや」とだけ答えた。

「なに。昨日の熱~い一夜でも思い出してたのか?」

にやり、と口端を持ち上げる金茶髪の少年に、ヴァンツァーは喉の奥で笑った。

「うん。そう」
「思い出し笑いするのは、えっちな証拠だぜ?」
「まぁ、嫌いじゃないから」
「ちぇ。俺としたって、思い出し笑いなんてしないクセに」
「何だよ。妬いてるのか?」

面白がる視線を向ければ、「いや、全然」と返される。

「そんなに気持ちいい相手なら、俺もヤってみたいなぁ、と思っただけ」
「却下」
「ケチ──独り占めしたいくらい、イイの?」

声を潜めて訊いてくる友人に、ヴァンツァーはやはりくすくすと笑って「お前向きじゃないよ」と答えた。

「いたぶり甲斐があるっていうか、嬲り甲斐があるっていうか」
「同じ意味だぜ、それ」
「快楽に弱いクセに、一生懸命逃げようとしている姿が可愛い」
「ははぁ。そりゃあオトコゴコロをくすぐるが、確かに俺向きじゃねぇな」

レティシアは、どちらかといえばお互いに楽しく、スポーツ感覚で抱き合うのが好きな男だった。
気持ち良くしてやって、気持ち良くしてもらって。
そうやって、提供しあう関係を好んでいる。

「だろう? 次はどうやって屈服させてやろうか、って考えるのが楽しくてね」
「堕ちそうなのか?」
「どうかな?」
「何だよ。お前でもまだ堕とせねぇの?」
「結構頑固なんだ。今度のうさぎちゃんは」
「うさぎちゃん?」
「そう。宝石みたいな瞳をした、真っ白いうさぎ。草むらでびくびく震えながら、狼に喰われるのを待ってるんだ」

思い出すように、藍色の瞳が遠くを見る。
薄く笑みを浮かべた口許が、それだけでどこか卑猥だった。

「待ってる? 逃げるんじゃねぇの?」
「すごい怖がりで、最初は逃げるんだけど……────喰われたいんだよ、アレは」

喉元に喰いつかれて、白い毛皮を赤く濡らすことを望んでいる。
最終的に望んでいるのは、そういうことだ。
ただ、捕食者というものは『はい、どうぞ』と急所を晒されたのでは気分が萎えてしまう。
だから、懸命に逃げ、嫌がり、抵抗出来ないほどの力で押さえ込まれるまで抗い続ける。

「……計算でやってるんだとしたら、相当だな」

ぽつり、と呟いた声は、さすがのレティシアでも聞き取れなかったようだ。

「何か言ったか?」
「──いや。お前の言う通り、今回のはちょっと楽しいよ」
「ふぅん。……俺もどっかで引っ掛けて来ようかなぁ」
「いくらでも、向こうから寄って来るだろう?」
「寄って来すぎて誘い方忘れた~」

きゃはは、と笑っていると、同級生の男子がふたりやって来た。
どちらもレティシアのクラスの男の子だ。

「なになに? 何か楽しい話か?」

レティシアとヴァンツァーは一緒にいることが多いが、ヴァンツァーはともかく、レティシアは交友関係の広い少年だ。
友達も多いし、基本的に誰とでも仲良くするし、楽しく会話する術も身につけている。
少年たちに話しかけられたヴァンツァーとレティシアは、ちらりと顔を見合わせた。
そうして、にっこりと微笑んだ。

「「──うん、猥談」」

一瞬固まった少年たちだったが、直後ものすごい勢いで食いついてきた。
優等生然としたヴァンツァーがその手の話をすることも新鮮だったらしい。
そうして、夕食の席で実に高校生らしい会話が展開されていったのである。


「せんせー! 『えっちする』って、英語で何て言うの~?」

シェラの受け持つ語学の時間、レティシアのクラスで男子生徒のひとりが非常に元気に手を上げたと思ったらそう言った。
途端にざわめく教室。
女子生徒たちも、「やめなよー」とは言いつつも興味津々といった感じだ。
男子生徒は言うに及ばず。

「お前、いつ使う気だよー」、「無理むり~。使う日なんか来ねぇって!」などと笑いあっている。
レティシアも周囲の生徒たちと一緒にけらけら笑っている。
見るからに野暮ったい教師がどんな返答をするのかと興味深げに視線を向けたレティシアは、一瞬ぞくりと背中が騒ぐのを感じた。
表情も分からないような眼鏡をかけた教師が、ほんの僅か口許を歪めた──それだけのことに、心臓が跳ねたのだ。
何だか、抜けるような白い肌に、赤い唇が異様に目を引く。
プロポーション抜群の女を前にしても、こんな風に胸が騒ぐことはあまりない。
ほんの数歩先にいる英語教師を見ていると、期待に胸が逸るというよりも、もっと直截的な、ダイレクトに官能に訴えてくるような感覚を覚えるのだ。
そんなことは今まで皆無だった。
確かに彼の授業を受けるのは今年が初めてだが、姿を見かけることなら何度もあった。
今までにこんな感覚を味わったことはない、と断言出来る。
何かが、今までの彼と決定的に違うのだ。

「──……Make love.

紡がれる声も、常より甘い。
もともと発音の綺麗な、耳に心地良い声をしているとは思っていたが、今日は何だか感じが違った。

「色々言い方はあるけれど、私はこれが綺麗で好きかな」
「どーやって使うんですかー!」
「たとえば……I wanna make love with you.

口にする直前、シェラは生徒たちには気づかれない程度にちいさく笑った。
あの夜、彼が口にした言葉だ。
今、実際に耳元でささやかれているかのように、思い出すことが出来る。
あの声は、一種の媚薬だ。
記憶を手繰り寄せるだけで、背筋を悪寒にも似た衝動が駆け抜ける。
彼の性格を知らなければ、そのひと言で簡単に篭絡されてしまうに違いない。
言われてみれば確かに、『with』というのは悪くない。

「──あれ。それってやっぱり『with』が正解?」

待ったをかけたのは、金茶の髪の、小柄な少年。

「レット?」
「俺、ずっと『to』だと思ってたんだけど、この前──」
「え~、ナニナニ。お前、どこの女に使ったんだよー」
「レティーなら言われてそうな気もする~」
「待て待て、こいつが『Make love』ってガラかよ! こんっな軽いノリのヤツに、ラヴをメイクできるわけねえって!」
「──あ、お前ね。それ失礼」
「きゃー、レットが怒った~ん」
「気色悪い声を出すなっつーの!」
「きゃははっ」

教室中が大騒ぎである。
シェラは苦笑してさすがにまずかったか、と反省した。
そうして、「静かに」といつもはあまり出すことのない大きめの声で生徒たちを嗜める。

「ねぇ、先生。『with』が正解なの?」
「レット、使う気かよー」
「似合わねぇ~」
「うるせー。悔しかったらそろそろ卒業しろよ───チェリー君」
「~~~~んだと、この!」
「あーもー、あんたたち、授業中!」
「今の暴言は許せん!!」
「うっさい! 本当のことでしょうが!!」
「そーそー。俺、正直ものー、嘘吐かなーい」

きしし、と笑って少年たちに中指を立てて見せる。
シェラは再度「はい、静かに」と腹に力を込めて声を出した。
クラスごとに個性というものはやはりあって、このクラスは他のどのクラスよりも活気のあるクラスだった。
気を抜くとすぐ煩くなってしまうのだが、高校生らしい元気があってそれはそれでいいと思う。
特進クラスでは、この雰囲気は望めない。
真面目なだけの生徒ばかりではないが、どちらかといえば大人しい生徒の多いクラスなのだから。

「えぇっと……『with』と『to』の使い方だけど、私も人に指摘されてね」
「えぇ~! 先生、それ使うようなイケナイことしちゃったの~!!」

きゃー、っと身悶えるような仕草をする男子の頭を、女子が思い切り叩く。
どっと教室に笑いが起こり、シェラもくすくすと笑った。

「『to』でも間違いじゃない……というか、もともとは『to』だったんだよ。でも、言葉というのは常に表現が変化するものだから。どうもその人の言い分だと、『双方対等な立場で』って意味を持たせて、『with』を使ったらしいんだ。この頃は、そういう使い方が多いのかも知れないね」

何だかいつもの授業よりも楽しげに話す銀髪教師の言葉に、レティシアは軽く目を瞠った。
そうして、注意深くその眼鏡の奥の瞳を覗こうとする。
黙ってしまった彼とは対照的に、教室ではあれこれ議論が始まっていた。

「あー、確かに。『to』だと一方的な感じがするかも」
「え~、『to』でもいーじゃん。何か、『あなたに捧げます』って感じでさ」
「あ、じゃあさ、じゃあさ。『for』とかダメなのかな?」
「ん~、オレは『for』だと重い気がするな」
「あぁ、分かる。わざわざ用意してる感じがするよな」
「そうそう!」

こんな風に、ひとつの疑問が次々に新しい見方や考え方を生んでいく。
学問の面白さのひとつだ、とあまり真面目な学生時代を過ごして来なかったシェラでも思う。
また、若い世代というのは考え方が柔軟だから、ひとつの観点に固執しないで考えの幅を広げることが出来る。

──あの人に、教えてもらったこと。

考えて、シェラは僅かな胸の痛みを感じた。
それでも、思い出すだけで涙が込み上げるようなことはなくなってきたのだけれど。
思い浮かべたあの人とはまた違った端正な容貌に、シェラは我知らず微笑んだ。

「先生!」
「──あ、はい」

顔を上げたシェラに、挙手をしていたレティシアはにっこり笑ってこう言った。

「結論。──気持ち良きゃ、それで良くねぇ?」

爆笑に包まれる教室の中で、シェラは淡い笑みをたたえて

「──……そうだね」

と、呟いた。




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