本当に好きで、大好きで。
一緒にいるとどきどきして、苦しくて、──でも、その胸の痛みすら愛しくて。
あんな幸福な日々は二度と訪れない。
奇跡なのだから。
こんなにも身持ちの悪い自分が出会うことの出来た、一生に一度、ただひとりの奇跡。

──自分から手を離した、幸福。

何度も何度も後悔して、その度に首を振った。
あんなにも素敵な人が、傍にいてくれた。
穏やかな時間を、忘れていた──否、それまで知らなかったときめきを、幸福感を与えてくれた。
それで十分だ、と。 光の中にあるべき人は、光に返してあげなければいけない。
暗い場所に、引きずり込んではいけない。

──自分が彼のいる場所まで行ければ良かった。

光の中に、自分の居場所があれば良かった。
でも、そうではなかったから。
光に憧れて手を伸ばしても、そこはあまりにも眩しくて。
最初は自分の知らなかった空間に、世界に、ただ驚きと興奮でいっぱいだった。
けれど、段々と違和感を覚えるようになった。
幸せだったのだ、それは間違いない。
彼の隣にいられた自分は、間違いなく、それまでの人生の中で一番幸福だった。
それなのに、声がするのだ。

──ソコハ、オ前ノ居ルベキ場所デハナイ……。

初めは微かに。
風にそよぐ木の葉のさざめきのようにちいさな音。
しかしそれは、時間を経るにつれて無視出来ない雑音になっていった。
あれは、良いきっかけだったのだ。
束の間、光を見られた。
光の中で幸福を感じることが出来た。
それで、十分だ、と。
そう思え、と声がした。
暗闇の中に安住の地があるものに、光は毒でしかないのだ、と。
いくら望もうと、憧れようと、結局は住む場所が違うのだ。

──だから、手を離した。

あの人のために。
光の中で輝く、あの人のために。
自分の闇に浸されて、あの人の光が翳らないように。
好きだったから。
本当に、本当に大好きだったから。

──……あの人の、ため。

別れてすぐの頃は、そう思うことでバラバラになりそうな心を律していた。
ここ最近はあの青年と一緒にいることが多かったから、思い出すだけで涙を流すようなことはなくなっていたというのに。

「……きつ……」

寝起きのように、意識が覚醒していない無防備なときはダメだ。
理性よりも感情が勝ってしまうから、一度溢れ出すと止まらなくなってしまう。
ひとりでいると余計だった。
こうなると誰かの腕に逃げたくなるが、そうしたくない、と叫ぶ声もするのだ。
あの人との約束。

『本当に、好きな人とだけ』

思って、自嘲の笑みを浮かべた。

「……好きな人、ねぇ……?」

思い浮かべた美貌がその対象になるだろうか、と考えて、すぐに打ち消した。

「──……これは『恋』じゃない」

だったら何だ、と問われても困るが、あの青年との関係は、そんな綺麗な言葉で飾れるものではない。
利用しているだけなのだから。
少しでも、あの人の面影から遠ざかるために。
再びの邂逅に歓喜した自分を殺すために。

「……汚い……」

彼のことを罵る資格は、自分にはない。
そのうち彼もこの関係に飽きてしまうだろう。
そうしたら、また別の人間を探さなくてはいけない──考えて、また嗤った。

──どうやら、自分には『禁欲』を貫くことは出来ないらしい。

あの人となら、何でもないことだったのに。
手を繋ぐだけだって、十分に満たされたというのに。
『約束』が聞いて呆れる。

「……こんな私を見たら……」

軽蔑しますか……?

闇の中でささやいて、何だかおかしくなってきて笑った。
きっと、あの人はもう、そんな感情すら抱いてはくれないのだろう、と。
勝手に告白して、勝手に隣に押しかけて、別れすら自分で勝手に決めて。
こんな我が儘な人間のことなど、どうでもいいに決まっている。

「お見合い……上手くいったのかな……」

でもそれなら、どうしてジャンペール先生と……?

考えて、眠れなくなって、頭の中がぐちゃぐちゃで。
こんなときに彼がいたら、と思ってしまって。

──また、自分を嫌いになった。


「……っ、ん」

静かな室内に、甘えるような声と濡れた音が響く。
離れていく唇を名残惜しそうに見つめたシェラに、微かな笑いがもたらされる。

「……なに」
「いや、抵抗しないんだなぁ、って」
「……きみの方が力が強い」
「はいはい」

素直に認めようとしないシェラの下唇に、軽く歯を立てるようにして口づける。
ぴくっ、と反応が返るのを見て、自らの唇を舐めた。
その仕草が彼の美貌と相まってどこまでも官能的で、ここは昼間の研究室だというのに相手の服を寛げそうになる。

「イイなぁ、その顔」
「え……?」
「気づいてないの? 『今すぐ抱いて下さい』って顔をしているよ?」
「──……そうか」

いつもならば声を荒げて否定するところだが、思いの外あっさりとした反応にヴァンツァーは「おや」と眉を上げた。

「どうかしました? キスが気持ち良すぎて、本当にしたくなっちゃった?」

からかうように言っても、ぼんやりとヴァンツァーの肩口を見つめているだけのシェラに、藍色の瞳が眇められる。

「──誰のことを考えている」

低められた声に、シェラの肩が震えた。
静かな口調だというのに胸を刺すような鋭さがあって、思わず怯えた視線を向けた。

「ぁ……」

──『怖い』、と。
はっきり、そう感じた。
教室にいるときのような穏やかな笑みは浮かべなくとも、嘲るような微笑は常に貼り付けている美貌から、一切の甘さが排除された。
ただそれだけのことなのに、寒気がするほどの恐ろしさを感じるのだ。

「前の男?」
「……」

射すくめられて何の反応も返せないでいるシェラを鼻で笑う。
そうして、きつく顎を掴んで真っ直ぐに菫の瞳を覗く。

「──気に入らないな」
「……」
「ふたりでいるときは、集中しろよ」
「……」
「あなたが言ったことだ」

忘れたとは言わせない、と眼下の赤い唇にゆっくりと舌を這わせる。
ぞくり、と粟立つ肌に、シェラは反射的に長身を押し返そうとした。
だが、その右腕を逆に取られてソファに押し付けられる。
こうなっては、身じろぎすら出来ないことを経験から知っている。
細く見えても成長期であるヴァンツァーの力は強く、昔から運動はからっきしのシェラにはどうすることも出来ない。

「ほら。早く逃げろよ、うさぎちゃん?」
「……」

嘲る笑みの口調に、シェラは視線をきつくして妖艶な美貌を睨みつけた。

「……イイな、その顔。──ゾクゾクする」

呟き、細い首筋に顔を埋める。
直後感じた微かな痛みに、シェラは菫の瞳を瞠った。

「──っ、きみ!」

ありったけの力を込めて押し返せば、まるで『ざまぁみろ』とでも言いたげな表情がそこにあった。
怒りか羞恥か、顔を赤くし、呼吸を荒くして首筋を押さえているシェラに、ヴァンツァーはにっこりと微笑んだ。

「色が白いから、目立つね」
「……こんな子どもっぽいことは、しないんじゃなかったのか……」

見なくとも、押さえた手の下に鬱血の痕があることは明らかだ。
どうやっても服で隠れる場所ではない。
そこからじんわりと熱が広がっていくような錯覚を覚えて、鼓動が速くなる。

「あなたが望んだことだ」
「……何を言っている。言い訳をする気か?」
「言い訳?」

おかしそうに笑う男に、シェラは更に視線をきつくした。
射抜くような視線すら心地良さげに受け止めた男は、ゆったりと口端を持ち上げた。

「────紅く、汚して欲しいくせに……」

その台詞に、シェラはどくん、と心臓がひと際大きく脈打った気がした。
思わず、心臓を掴むように服を握る。
息を呑んだ彼は、ただただ、目の前の美貌を凝視することしか出来なかった。


シェラの研究室から出てきたヴァンツァーは、薄い微笑をその形良い唇に乗せていた。
自然と、唇を舐めている自分がいる。
その昏い瞳は、もしも今誰かが彼を目にしたら、ことごとくを虜にしてしまうようなものだった。
日が長くなってきたとはいえ、とうに下校時刻は過ぎている。
寮へと続く校舎の出入り口へと向かった彼は、廊下を曲がったところで教員のひとりとばったり出くわした。

「──こんにちは」

にっこりと微笑む生徒に、女性的なまでに美しい生物教師──ナシアス・ジャンペールも穏やかな笑みを浮かべた。

「やぁ、今帰りかな?」
「はい」
「補習……なわけ、ないね」

きみほどの学力の主が、とちいさく笑う男に、ヴァンツァーは「委員の仕事で、ちょっと遅くなりました」と当たり障りのない返事をした。

「そう、それはご苦労さま──と、失礼」

ナシアスはヴァンツァーの肩に指先を伸ばした。

「髪の毛が」
「あぁ、どうも──」
「若いのに白髪かと思ったら……──どうやら銀髪のようだね」
「……」

相手に分かるほど、ヴァンツァーは表情を変えたりはしなかった。
けれど、殊更ゆっくりとその端正な容貌に微笑を浮かべた。
普段浮かべているものとは掛け離れた、やさしさのかけらもない──それでいて、見るものを惹きつけて止まない笑みだ。
そうして、わざと声を低くする。
どこか醒めた、それでいてどこまでも甘い声音。

「……あぁ。もしかしたら、昨日寝たオンナのかな……?」
「……」

ナシアスの、透き通るような水色の瞳の奥を射抜くような視線を向ける。
時間にしてほんの二、三秒だろうか。
ヴァンツァーは自分から視線を逸らした。

「良かったらあげますよ、それ」

それじゃあ、と横を通り過ぎていく背中に、ナシアスも笑みを浮かべた。

──しかしそれは、奥歯を音がなるほど噛み締めて、見るものを焼き尽くさんばかりの眼光を瞳にたたえた笑みだった。




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