「それじゃあ、行ってきます」
午後七時。
夕食後、寮の生徒たちは部屋で本を読んだり、ゲームをしたり、フリースペースで談笑したりしている時間だ。
この時間から外出をするには、寮監の許可が必要となる。
にっこりと微笑む寮生に、窓口の女性も頬を赤らめながら笑顔を向けた。
「今日も予備校?」
「えぇ。そろそろ本格的に勉強しないと」
「あなたなら、もう十分なんじゃないの?」
「そんなことないですよ」
苦笑してもイイ男、とうっとり見つめてくる女に眉を寄せそうになるのをどうにか堪え、ヴァンツァーは優等生としての会話を続けた。
「希望校のレヴェルが高いですからね。準備しすぎる、ってことはないでしょう」
「まーねー。さすがに、うちからも合格者少ないものねぇ」
「国立だから、一発勝負ですし」
「滑り止めは?」
「受けませんよ」
「え?」
きっぱりと言い切られた台詞に、窓口の女性は緑の目を丸くした。
国立を受けるのであれば、若干偏差値を下げて私立の二、三校も受けるのが通常のパターンだ。
余程経済的理由で私立を希望出来ないという場合を除いては、併願するものである。
「だって、滑り止めなんて受けちゃったら、その分覚悟が減るでしょう?」
「覚悟?」
「そう、覚悟。私立に受かって、そこで安心したくないんですよ」
「……普通、安心して国立受けたくて、私立も受けておくものなんじゃないの?」
「普通はね。でも俺は、そういうぬるい勝負はしたくないんです」
「ぬるいって……」
一応人生がかかっているかも知れない大学受験で『ぬるい』だの『勝負』だのという言葉を使うとは。
「やるなら一発真剣勝負」
「……男らしいというか、何というか」
呆れた顔になる女性に、ヴァンツァーはちいさく笑った。
「戦略的ルートはいくつも用意しますけど、逃げ道は作らない主義なんです、俺」
だから、とガラス一枚隔てた女性に、顔を寄せる。
銀幕スターやモデルでも見たことのないような綺麗な顔が目の前にあって、思わず息を呑む。
「──恋人相手にも、一途なんですよ?」
きつく映る切れ上がった眦に笑みを浮かべれば、それだけでどきりと相手の胸が跳ね上がったのが分かる。
こんな女など誘惑する気は毛頭ないが、寮の監視員も勤めている相手だから味方に引き入れておいて損はない。
笑顔ひとつで陥落するというのが味気ないが、女相手に時間をかけるつもりもない。
間違いなく、この女は自分が好意を持たれていると思い込んでいるはずだ。
「浮気とか、絶対しないし」
「……本当かな? きみくらい綺麗な子だったら、選び放題じゃない……?」
「本当ですよ。一度に付き合うのは、ひとりだけ」
実は、これは本当のことだ。
ヴァンツァーはコロコロ相手を変えるが、そのときに相手するのはひとりだけ。
その期間が三時間か、三ヶ月かの違いがあるだけだ。
複数の人間を相手にしてそれが露見したときのことを考えている、というわけでもない。
ただ、自分は飽きっぽい性質だという以上に、ひとつのものをとことん追いかけ、追い詰めてみたい性格だというのも知っているだけ。
他が目に入らない、といえば聞こえは良いが、gameだからといって手を抜く気がないだけだ。
相手を地獄に叩き堕とすまでの、短くも激しいgame。
それを、ヴァンツァーは楽しんでいた。
「……若いんだから、遊びたくなるんじゃないの……?」
疑り深い女だ、とは思いながらも、女とは得てしてそういう生き物か、と思い直す。
「あれ。信じてくれないの? 寂しいなぁ……」
沈んだ表情を浮かべれば、相手が血相を変えるのは分かっている。
男でも女でも、大抵扱い方は変わらない。
ここでこちらを無視するような人間ならば、多少は興味が湧くのだが。
そう、あの銀色のうさぎちゃんのように。
「し、信じてないとかじゃなくて!」
案の定、既に恋人気取りで身を乗り出してきた。
ヴァンツァーは「しっ」と唇に指を当てた。
「大きな声を出すと、人が……ね?」
こくこくと頷く様子に、自分の勝利を確信する。
十分もかからず攻略出来てしまった。
相手を追い詰めている間は心躍るのだが、堕とした途端に今までの時間すべてが無駄だったような気がしてくる。
世の中の男女が愛だの恋だの言って騒いでいる理由がまったく分からない。
ましてや、結婚などする人間の気が知れない。
子どもが出来ても女は『女』でしかなく、『母親』などという存在は、この世のどこを探しても見つかりっこない。
女などという低俗な化け物の腹から生まれたのかと思うと、血の一滴すら残さず捨て去りたくなる。
そこまで考えて吐きそうになり、ヴァンツァーは『自分に母親はいない』と言い聞かせることでどうにか自分を保つことが出来た。
「──ちょっ! 顔色悪いけど、大丈夫?」
「……えぇ。これからの時間を考えたら、気分が重くなっただけですから」
「休んだ方がいいんじゃない……?」
「本当にね。──その間あなたといられたら、どれだけ楽しいか」
ゆったりと笑みを浮かべれば、瞬時に首まで赤くする女。
もう、いい加減耐えられない、とヴァンツァーは「それじゃあ」と言って寮を後にした。
「──あ……」
シャワーを浴びたシェラは、風呂上りに覗いた鏡に映る自分に愕然とした。
ようやく研究室でつけられた痕が消えようかとしていたのに、今日新たにつけられてしまった。
つけられたことにも気づかなかった事実に、呆然とする。
確かにヴァンツァーとの行為には、今まで感じたことがないほどの快楽がある。
何度も果て、最後まで意識を保てていたことの方が少ないくらいだ。
だから、行為の最中であろうとふと意識が飛ぶことがある。
それでもまさか、こんなにあちこちに痕をつけられて気づけないでいたとは思いたくなかったのだ。
それに、ヴァンツァー自身がこういった『所有の証』のようなものを残すことを好んでいなかったはずなのに。
「……」
これは一体どういうことなのか、と髪を拭くのもそこそこにぼーっとしていると、部屋からバスルームへのドアが開く。
「──きゃっ」
思わずローブの襟元を手繰り寄せ、一歩身を引けば、きょとんとした常よりずっとあどけない顔がそこにあった。
「……女の子みたいな声だな」
「……煩い」
「今更隠すこともないでしょう?」
「煩い」
眉を顰めて横を通り過ぎようとすれば、腕を取られる。
まだ先ほどまでの情事の名残が身の内で燻っているのをありありと実感させられるほどに、掴んでくる手の熱が心地良い。
けれど、これは身に馴染ませてはいけない熱なのだ、と頭を振る。
いつまで続くか分からない、この年下の男の気紛れで左右される時間と関係。
「……痛い」
「ふぅん?」
「離せ」
「どうして?」
「シャワーを浴びるんだろう? 私はもう」
「──じゃあ、一緒に入りましょうか」
「ほぇあっ?!」
素っ頓狂な声を上げれば、吹き出したいのを堪えるような顔になった。
最近、こういう作ったのではない楽しそうな表情を垣間見るようになり、それが嫌ではない自分に戸惑いを覚えているシェラとしては、そうそう直視出来るものではなかった。
だから、「馬鹿なことを言っているんじゃない」と、踵を返して室内へ戻った。
出て行ったシェラの頤が薄く色づいていることを見逃さなかったヴァンツァーは、その美貌に薄く笑みを浮かべた。
それは、彼自身が浮かべたと意識していない微笑みだった。
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