ここ数日、シェラは長い髪を束ねもせず、背中に流していた。
何だかやけにじろじろと舐めまわすような視線とひそひそとささやきあう声を感じるのは、気のせいではないはずだ。
純白に近い自分の銀髪が非常に目立つことを知っているから、職場ではあまり目立たないように束ねていたというのに。
短く切ってしまっても良いのだが、今はこの長さが幸いしている。
「先生、すごく綺麗な髪ですね!」
放課後の廊下で、女子生徒のひとりが数人の友人と一緒にそう声をかけてくる。
「あ、ありがとう……」
とりあえず、ぎこちない笑みを浮かべてそう返せば、いくつもの瞳がじっと見つめてきて居心地が悪い。
それに、今はそんな風にじっと見つめられると困るのだ。
生来あまり活発な性格をしていないシェラだから、身を縮めるようにしている。
「お肌もぴっかぴか~」
「先生、男の人だよねぇ? 化粧品とか使ってるの?」
「ねぇねぇ、眼鏡外してみて」
きゃっきゃと騒いでいる女子高生のエネルギーというものはすごい。
女の子は苦手ではないが、この迫力はどうにかならないものか。
妹だと思えば可愛いものかも知れないが、そんなに年齢が離れているわけでもないのに自分が高校生の頃はこんなだったか? と考えてしまう。
元気をもらえるときもあるが、今日は何だかぐったりしてしまいそうだった。
──そうでなくとも最近、週に一度はあの子と逢っている。
いつからだったか。
まるで恋人どうしのデートみたいだ、と苦笑したのだが、それが決まりごとであるかのように、土曜の夜は一緒に過ごすことが多かった。
それも、泊まりだ。
肉体的な快楽だけを求めて帰る、ということは、少なくなってきた。
とはいえ、一晩中抱かれているのだから、まず快楽ありきなのだけれど。
月曜ですら気だるいのに、週も半ばを過ぎればもうほとんど気力だけで動いているようなもの。
半ば以上無理やり眼鏡を外されそうになっているシェラに救いの手らしきものが伸ばされたのは、そのときだった。
「こらこら。先生が困っているよ?」
背後からの声に振り返ったシェラは、そこに白衣を身に着けた穏やかな美貌の主を認めた。
「あー、ジャンペール先生だー」
「ホームルーム終わったんですかー」
あっという間にシェラのことなどどうでも良くなったのか、少女たちは群がるようにナシアスの元へと駆けていった。
「こら、走らない」
「はーい」
「気をつけまーす」
「まったく……返事は立派なんだけどな」
苦笑するナシアスに、少女たちも明るく笑う。
ナシアスは男女問わず生徒に人気がある。
話しやすい雰囲気と、やさしい美貌もさることながら、分かりやすい授業には定評がある。
「楽しく毎日を過ごすのも大事だけど、もうすぐ夏休みだし。受験も近いんだから、勉強もしっかりやるんだよ」
「はーい」
「あ、じゃあ先生教えて!」
「受験に生物を使うの?」
「ううん、数学全然分からなくて」
「……数学は専門外なんだけどな」
「いいじゃん。先生の教え方上手いし」
「分かりやすいし」
「本当は、専門外の科目を教えちゃいけないんだよ」
「えー、じゃあ内緒にするからー」
「お願い!」
「迷える子羊たちを助けると思って!」
拝むようにして手を合わせている生徒に、シェラとナシアスは顔を見合わせてちいさく笑った。
「分かった。じゃあ、生物室へ行っていて」
「やったー」
「先生、やっさしー」
「じゃ、またねー」
きゃーっ、と叫んで去っていく彼女たちを見ていると、勉強を教わるというよりも、ナシアスの綺麗な顔を眺めていることが主眼のようだ。
「……人気者ですね」
控えめに声をかけるシェラに、ナシアスは困ったように笑った。
「まぁ、やる気を出してくれるのはいいことですが……」
「先生?」
何かを言いかけてやめてしまった自分よりもいくらか長身の男を見上げるようにし、シェラは首を傾げた。
僅かに水色の瞳が細められたかと思うと、その身を屈めて耳打ちする。
「──首筋。見えてますよ」
「──えっ?!」
慌てて右の首筋を押さえる。
先日くっきりと痕をつけられた場所。
他の場所はともかく、ここはかなり目立つ。
見えないようにシャツの襟を高めに立てて、髪を下ろしていたというのに。
では、やはり先ほどの女生徒たちにも見られてしまっただろうか。
赤くなってあたふたするシェラに、ナシアスはくすり、と微笑んだ。
「子どもっぽいことはおよしなさい、と言ってあげた方がいいですよ」
周囲にいる生徒たちを憚っての耳打ちだったが、シェラは俯いてこくこく頷くことしか出来なかった。
とにかくその場を離れたくて、ナシアスへの挨拶もそこそこに逃げるようにして研究室まで戻った。
必死に髪を梳いてそこを隠すようにして去っていったシェラの背を、ナシアスは温度の低い笑みを浮かべて見送った。
「──はへ?」
レティシアは、同室であるヴァンツァーが愕然とした声で呟いたひと言に、気の抜けた返事をした。
「だから、数学で二問間違えた……」
「あー……まぁ、そりゃあお前にしちゃ珍しいな」
「──珍しい?」
キッ、と藍色の瞳をきつくして睨んでくるルームメイトに、レティシアは内心で「だいぶご機嫌ナナメだな」と呟いた。
「二問だぞ? 今まで数学だけは満点で通していたんだ。しかも、わざと間違えたわけじゃない」
「だろうな。そんだけ焦ってんだから」
「何でだ……?」
机に肘をつき、ほとんど頭を抱えている友人を、レティシアは一応励ましてみようと試みた。
「別にいいじゃん、二問くらい。それ他の生徒に言ったら『厭味か?』って言われるぜ?」
「あのオーロンに、『今回は調子が悪かったのか?』って言われたんだぞ?!」
ははぁ、と納得したレティシアだ。
ご機嫌ナナメの原因はそこらしい。
いけ好かない教員に高度な反抗の意思を込めて満点を貫き通していたというのに自分の気づかないところで間違え、あまつさえ馬鹿にするような台詞を言われた。
プライドの高いヴァンツァーには耐えられなかったのだろう。
「言わせとけよ。次でまた満点取ればいいじゃねぇか」
「……何で今回に限って」
「だーから。あんま悩むなよ。九十点以上取ってんだし、期末試験の結果はやっぱり一番だし、成績はどうせオールAプラスだろう?」
「でも」
「デモもストもないの。平和な学園生活送りましょーよ。ね」
よしよし、と頭を撫でてやれば、邪険に振り払われる。
この女王様はなかなか扱いが難しい。
それでも、苛立ちでも何でも、表に出してくれるだけマシだ。
初めて会ったときはひどいものだった。
にこやかに微笑んでいるというのに、瞳の奥も、身に抱える空気もきつくてギスギスしていて、そのくせ感情を表に出さなくて。
思わず初対面なのに「気持ちわりぃ……」と本人の前で呟いてしまったものだ。
まぁ、それをヴァンツァーが面白がったのが縁でこうして友人関係を築いているわけだから、人生何が起こるか分からない。
「……どうして間違えたんだ……」
「まだ言ってんのかよ」
さすがに呆れ返ってしまい、レティシアはベッドに腰掛けて指摘してやった。
「あれじゃねーの? 『うさぎちゃん』?」
「……うさぎ?」
「そ。今お前さんが夢中になってるうさぎちゃん」
「……夢中になんてなってない。遊んでやってるんだ」
「はいはい」
「……で。それがどうした」
「だからさ。今までのと違って随分長いし、寮抜け出す回数も増えてるし、うさぎちゃんのことばっかり考えてケアレスミス──」
「──あり得ない」
はっきりきっぱり言い切られ、レティシアは眉を上げた。
「そんなことはあり得ない。確かにあれは面白い獲物だが、本気になんてなるわけないだろう?」
馬鹿なことを言うな、と吐き出すヴァンツァーに、レティシアは「そうかねぇ?」と首を傾げた。
「……何が言いたい」
更に機嫌を損ねさせてしまったらしいが、レティシアは肩をすくめて思ったままを口にした。
「いや。ただ、気になるヤツがいて試験でいつもなら解ける問題間違えちゃったりとか。そういう方が人間らしいな、って」
対するヴァンツァーは、薄氷のような笑みを口許に浮かべた。
「──そんな感情は十歳のときに捨てたよ……」
考えないようにしているというのにあの忌まわしい日々は影のようについてまわり、その度に胃の腑が冷えていく。
自分の血が赤いのか、体温があるのかすら分からなくなるときがあり、それを確かめる唯一の手段が他人と身体を繋げることだった。
身体の内側は冷え固まって醒めていても、生理現象として肉体が熱を帯びるのを感じれば安堵した。
──それが、彼にとってたったひとつの、『生きている』という証だった。
「ふぅん」
気のない相槌を打ったレティシアは、「俺はね」と打って変わってにっこり笑った。
「最近、英語の調子がいいんだな~」
「へぇ。完全理系のレティーが英語、ねぇ?」
唇を歪め、金茶色の瞳を細めてにこにこ笑っている友人を見る。
「いやぁ、うちのクラスの英語って、お前のとこの副担任じゃん?」
「うん」
ヴァンツァーは、一切表情を変えない。
薄く笑みを浮かべたまま、ごく普通の高校生どうしが話すような面持ちをしたままだ。
「あれさ、何だっけ名前」
「クーア」
「それファミリーネームだろ?」
「あぁ、First name? ──シェラ、だよ」
「そうそう! 名前まで女の子みたいなのな」
「で? 彼がどうかしたのか?」
「うっわー。『彼』ってちょー違和感あるよな」
「レティー」
あまり話を引き伸ばされるのを好まないヴァンツァーだから、若干硬い口調で先を促す。
「な。お前、毎日見てるじゃん? シェラちゃんのこと」
「見てるよ」
ヴァンツァーのいる机まで自分の椅子を持って移動したレティシアは、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「何かさ、こう、最近、ムラムラ~ッとこねぇ?」
「──は?」
さすがのヴァンツァーも、藍色の瞳を真ん丸にした。
「……お前がああいう地味なのが好みとは知らなかったよ」
レティシアの言葉の意図は図りかねるが、普通の高校生は学校でのシェラを見て『地味だ』と判断するはずだ。
しかし、レティシアは不思議そうな顔をしたものだ。
「お前らしくないね」
「……え?」
「だって、最近のシェラちゃんがヤバいってのは、結構な噂だぜ?」
「……そうなのか……?」
プライヴェートも知っている自分にとっては、あの銀色のうさぎちゃんの何かが変わったとは思えないのだが。
けれど、そう思っている生徒が多いのなら、自分もそう思わないとおかしいかも知れない。
「……毎日見てるからかな。全然分からないよ」
「そっか。まぁ、近くで見てりゃそんなもんだよな」
「……」
近さの意味が、レティシアの考えているものとはまったく異なるのだが、ヴァンツァーはやはり表情を動かさずに「で?」と訊ねた。
「いや、何かさ。最近妙に色気がある、ってーか」
「──色気?」
「髪下ろしてるからかな、って思ったんだけど。何か、それだけじゃねぇんだよなぁ」
「そう……」
「オトコでもいんのかな?」
一瞬だけ、心拍数が上がった。
しかし、厳密に言えば自分はそういった意味での『オトコ』ではないし、いくら相手がレティシアとはいえバラすことでもない。
「最近のシェラちゃん見てると、一発お願いしたくなるんだよなぁ」
しみじみと、とんでもないことを呟く友人に、ヴァンツァーは苦笑した。
「いつものお前なら、お願いしたくなったときには押し倒してるクセに」
「ん~、そうなんだけどさ。──ありゃダメだ」
意外なほどあっさりと肩をすくめるルームメイトに、ヴァンツァーは首を傾げた。
「ダメ?」
「ん。ダメ──あれは、遊びの相手にゃ向かねぇよ」
まさにその『遊びの相手』をしているヴァンツァーは、不自然には聞こえないよう理由を訊いた。
レティシアは、きょとん、とした顔になった。
その表情の理由も分からず、ヴァンツァーは微かに眉を寄せた。
「何で、って……アレは『遊び』を知ってる顔じゃねぇだろ」
「そうかな?」
ふっと笑ってゆったりと唇を持ち上げたヴァンツァー。
眼鏡のせいかどうかは分からないが、レティシアが人間を見誤るとは珍しいこともあったものだ、と少しおかしくなる。
だが、続くレティシアの指摘に言葉を失ったのはヴァンツァーの方だった。
「アレは────オトコに遊ばれてるのが分かっても、自分は本気で尽くすタイプだ」
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