シェラが数学担当のオーロンに声をかけられたのは、一学期の期末試験が終わったあとのことだ。
職員室で採点結果を端末に入力していたときに「ちょっと」と話しかけられた。

「──ヴァンツァー・ファロット……ですか?」
「えぇ。今回の試験、数学の得意な彼にしては珍しく二問も間違えていたので」
「はぁ……でも、二問でしょう? かなりの高得点じゃありませんか」

今回も実力試験に引き続き自分の試験では満点を取られてしまったシェラとしては、別に彼が一問間違えようが、二問間違えようが、大した差はないと思っている。
そもそも、すべての科目で毎度毎度九十点以上を取れる生徒など、彼の他にはいない。
間違いなくAプラスがつく得点だ。

「まぁそうなんですが……。予備校に通っているのに点数が落ちているというのがちょっと気になったもので」
「……」

シェラは彼が『予備校』などに通っていないことは随分前から知っているが、彼にしては珍しい失態だな、とは思った。
こういう風に煩く詮索されたくないからこそ、彼はどれだけ遊び歩いていても成績は維持してきた。
そこにはさしたる努力もなかったのかも知れないし、今回も成績が変わることはないだろうが、それでもオーロンの考えとは別のところで気になる変化ではあった。

「シリル先生には?」
「訊きましたよ、もちろん。しかし、特に変わったことはない、というお返事でした。クラス内部での人間関係に変化があったわけでもないし、交友関係もいたって良好」
「でしょうね。私もそう思います」
「ふむ……」
「もっとはっきり……そうですね。たとえば彼が平均点程度の点数を取ったら、そのときに気にすればいいのでは?」
「平均点?! ヴァンツァー・ファロットが?!」
「……あ、いや、先生……声が大きいです」

あたふたして周囲を見回すと、案の定いくらかの教員の注目を集めてしまっていた。
別に自分が悪いわけでもないというのに、シェラはペコペコと頭を下げた。

「クーア先生。もし彼が平均点程度の点数を取ったとしたら、ですぞ」
「……はい」
「他の生徒は皆、赤点どころか点数が取れるかどうかも分からない、ということです」
「はぁ……」
「まぁ、つまり彼が平均点程度の点数を取る確率というのがですな」

話が長くなりそうだな、とため息を吐いたシェラに、別の人間から声がかけられた。

「はい──あ、ジャンペール先生」
「お話し中に申し訳ありません」
「いえ……」

首を振るシェラから視線を外したナシアスは、今度はオーロンに目を向けた。

「すみません。クーア先生に少しお話があるのですが……」

申し訳なさそうに眉を下げる美貌の教員に、オーロンは若干頬を染めて、ぶるぶると首を振った。

「いやいやいや。構いませんぞ。別に急ぎの用というわけでもありませんしな!」
「そうですか? ではお言葉に甘えて」
「どうぞどうぞどうぞ!」

ずいっ、とシェラを差し出すようにして、オーロンはでっぷりと太った身体を揺らしてその場を去って行った。
きょとん、として見送ったシェラは、はっとしてナシアスに目を向けた。

「あの、お話って……?」

話を振られたナシアスは、一瞬の間の後に「あぁ」と手を打った。

「──どうですか、今夜一杯」

にっこりと微笑むふんわりとした雰囲気の生物教師に、シェラはしばし呆けた視線を向け。

「──……私でよろしければ」

と、苦笑を返した。


金曜の夜、時々ナシアスと酒盃を傾けることがある。
どうしても話題の中心は学校や生徒のことになるが、ナシアス・ジャンペールという男は非常に話術が巧みであり、話題にも事欠かない人物だった。
だから、シェラがあまり言葉を繋げないで黙り込んでしまっても、何かと話題を提供してくれる。
ありがたいことだったが、その日ナシアスが切り出した話題は、まったくシェラの想定外のものだった。

「──そうそう、バルロが」
「──っ?!」

意識していないときに突然耳に入ってきたその名に、シェラは冷酒のグラスを取り落としそうになった。
だいぶ銚子を空けているナシアスはその動揺に気づかなかったのか、にこにこと笑ったまま話を続けた。

「あぁ、バルロというのはわたしの妹の婚約者なんですが」
「──妹さん……」
「一年近く前に見合いをしたのはいいが、まぁ、これが信じられないくらいの朴念仁の唐変木でして」
「……」

シェラは思わず、グラスを握る手に力を込めた。
そうか。
なぜふたりが知り合いなのかと思っていたが、あのときのお見合いの相手がナシアスの妹だったのならば納得がいく。
自分と彼が別れる原因となったのがナシアスの妹──と考えて、シェラは頭を振った。
人のせいにしてはいけない。
自分たちは、そもそも住む世界が違う人間だ。
いずれそうなる運命だった──それが、早いか遅いかの違いだけ。
それならば、やさしい彼に別れを切り出させるよりは、自分から去った方が楽だっただけだ。
ゆらゆらと揺れるグラスの中身を見つめているシェラには構わず、ナシアスは銚子の中身がないのを知ると酒を追加した。

「これが、見合い相手をデートのひとつにも誘えないんですよ」
「……」
「うちの妹は、どうやら見合いの席でひと目惚れしたらしいんですがね」

そうだろう。
だって、あんなに素敵な人なのだから。
惹かれない方がどうかしている。

「やはり女性から誘いをかけるというのは、気が引けるようでしてね」
「……」
「誘ってもらえるのを待っているんですが、なしの礫というわけです」
「……あの?」
「はい?」
「どうして、私にそんな話を?」
「あぁ、これは失礼」

苦笑したナシアスは、「実は」と若干身を乗り出した。

「──あなたのことが気にかかっているようなんです」
「────……っ」

ドクン、と大きく心臓が跳ねた。
そんなわけない。
あの人が、自分のことを気にかけているわけがない。
こんな自分勝手で我が儘な人間のことを、あんなにも素敵な人が。

「ほら。以前、居酒屋の前で見かけたと思うんですが」
「……」
「どうやら、あのときから気になっているようなんですよねぇ」

ふぅ、とため息を吐いたナシアスは、きっと自分たちのかつての関係など知らないのだろう。
あんな別れ方をして、気にかけてもらえているわけがない。
それでも、ナシアスの勘違いなのだとしても心臓が煩く騒ぐ。
一日のほんの数秒でも、自分のことを考えてもらえていたら嬉しい、と今でも思う。
思っては、望んではいけないことだとしても、やはり嬉しい。

「……あの、どうしてそんな話を……?」

同じ言葉しか口に出せない。
声が震えないように気をつけているつもりだが、喉が渇いて仕方がない。
だから、シェラはグラスの中身をひと息に空けた。

「お。いい呑みっぷりですね」

楽しそうに言って、ナシアスはシェラのグラスに冷酒を注いだ。

「あの……」
「あぁ。いや、別にどうして、ってこともないんですけど」
「……」
「先生は、彼のことをどう思います?」
「──は?」

思いがけない台詞にまた心臓が大きく脈打ち、ドクドクと血液が全身を駆け巡る。

「いや、バルロのような男は好みですか?」
「……」

手が震える。
目が泳ぐ。
喉はカラカラで、またもやぐいっ、と酒を空けた。
そこにまた酒を注ぐナシアス。

「こ……好みって……私は男ですし……」

上手く言葉を紡げているのかも定かではない。
それでも、何かを返さなければ、と思ってそう言った。

「別に、今時珍しいことでもないでしょう?」
「……」
「どうなんです?」
「……どうして、そんなことを……?」

もうほとんど泣きそうになって何度も同じ言葉を繰り返して俯いているシェラに、ナシアスは「いやぁ」と頬を掻いた。

「正直、妹は先生ほど器量が良いわけではありませんからね。もし先生がバルロのような男が好みだと言うなら、妹には諦めてもらわないと」
「──そんな必要ありません!!」

反射的に顔を上げ、珍しく声を大きくするシェラにナシアスは水色の目を丸くした。

「そ……そんな必要は……」

そのあまりにも必死な様子に、ナシアスは瞬きを繰り返し、「すみません」と頭を下げた。

「え……?」
「いきなりこんなこと言われても、困りますよね?」
「……」
「すみません。馬鹿なことを言いましたね。忘れて下さい」
「いえ……」

ふるふる、と首を振るシェラに、ナシアスは殊更にっこりと微笑んでみせた。

「お詫びに今夜はわたしが奢ります──さ、呑み直しましょう!」

言ってシェラにグラスを空けさせる。
そうして新たに酒を注ぎ、自分も注文した酒が来たら次々と空けていった。
ここ数年、こんなに呑んだことはない。
いや、もしかしたら人生で一番呑んでいるかも知れない。
それでも、不思議と気分が悪くはならない。
酒そのものも、良いものなのだろう。
バルロの話題が出たときは焦ったシェラだったが、その後ナシアスが提供してくれた話題はどれも興味深く面白かった。
だから、たくさん話しもした。
大量の酒に、長時間のお喋り。
いつの間にか終電の時間が過ぎてしまっていた。

「──おや、いけない。こんな時間だ」
「……え……」

もうほとんど眠りかけているシェラは、ナシアスが腕時計を確認したのをぼんやりと見つめた。

「先生、確かお宅は遠いんですよね?」
「え……? えぇ……」
「──うちへ、来ますか?」
「──え?」
「わたしも電車は逃したんですが、幸いタクシーで帰ってもさほど遠くありませんし」
「でも……」
「そんなに呑ませてしまったのはわたしの責任ですし」

申し訳なさそうに苦笑するナシアスは、軽く一升は呑んでいるというのにまったく酔った様子がない。
羨ましい限りだ、とほとんど思考能力の残っていない頭でぼんやりと思う。

「でも……」

まだ頷くことを躊躇っているシェラに、ナシアスは「とりあえず出ましょう」と促した。
宣言通り会計はナシアスがもったが、シェラはそんなことを考慮する余裕すら残っていない。
ふらふらとした足取りで店を出て、倒れそうになってナシアスに抱きとめられる。

「あ……ごめ、なさ……」

とろん、とした瞳で見上げた視界の先で、ナシアスの端正な容貌が揺れる。
目を擦って数回瞬きし、頭を預けていたナシアスの肩に手をついて自分の脚で立とうと試みる。
しかし、距離を取ろうとしたはずが逆に引き寄せられてしまった。

「え、あの────」

どうしたのか訊ねようとする前に、焦点が合わないほどの距離に色白の美貌が近づき、唇に熱が触れた。
目を瞠って何が起きたのか考えようとしたが、全然頭が働かない。
そうこうするうちに、軽く啄ばむようにして熱が離れていく。

「……」

呆然と見上げるシェラに、ナシアスは普段のにこやかさとは違う、どこか真剣な表情を見せた。
その、女性的なまでに端正な容貌に浮かべられた男の表情に、ぞくり、と背筋が騒いだ。

「ぁ、っ……」

いけない、と思いナシアスの身体を押し返そうとするが、その手を取られてまた唇が重ねられた。
奪うのではなく、まだ戸惑いが残るような重ねるだけの口づけだが、シェラはそれを嫌だと思っていない自分に気づいているからこそ、抵抗したのだ。
しかし、酒のせいで身体に力が入らない。
されるがままになっていたが、しばらくして唇が離れていき、はっとして周囲を見回した。

「こ……どうしてこんな」
「すみません──でも、可愛かったから」
「────……」
「嫌、でした……?」

男でも女でも、きっと望めば誰でも虜に出来てしまうような端正な美貌が、不安に揺れて歪められている。
シェラが何も答えられないでいると、ナシアスは唐突に「──ダメだ」と呟いた。

「──……どうしても、あなたが欲しい」
「……」

真剣な表情でそう懇願する。
やはり何も返せないでいると、きつく抱きしめられた。
自分と同じほどに細く見えた身体は、鍛えているのか思ったよりずっと力強かった。
酒のせいか、身体を通してダイレクトに伝わってくる鼓動が速い。
その速さにも、やはり背中が震えた。
何が起こっているのか混乱の極みにあるシェラの頬にそっと手を添えたナシアスは、菫の瞳を覗きこんで目許を笑ませた。

「────わたしにすべてを委ねてくれるね……シェラ……?」

こういうときに断る術を、シェラは持っていなかった。




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