寮の自室でひとり読書をしていると、携帯が震えた。
シェラからの連絡かと思いフリップを開ければ、意外といえば意外な名前に眉を上げた。
どうするか、と一瞬躊躇ったが、出ない理由もないのでとりあえず出ることにした。

『やぁ』
「何です?」
『つれないな。──あんなに激しく求めあった仲なのに』

笑いを含んだ声でそう言う男に、ヴァンツァーは冷笑を浮かべた。
自分が一体何を求めたというのか。
声をかけて来たのも向こうなら、会おうという連絡を寄越していたのも向こうだ。
自分からは、一切この番号にかけたことはない。

「言ったでしょう?──飽きた、って」

あんたの身体にも、抱かれ方にも、と告げれば、くすくすと笑う声。
しかし、ヴァンツァーには相手の眼が笑っていないことが手に取るように分かった──だから、飽きたのだ。

『これから会わないか?』
「人の話聞いてました? もうあんたと寝る気はない」
『もしかして、これから約束でもあるのかな?』
「……いい加減にしろよ。だったら何だ」

話を引き伸ばそうとする様子に、もともと自分の許容範囲がさして広くないことを自覚しているヴァンツァーは声に険を含めた。
もう少し頭の良い人間だと思っていたが、案外つまらない。
話を続けるのも面倒なので切ろうかと思っていた矢先、しかし耳を傾けざるを得なくなった。

『行かないよ』
「……は?」
『行かないよ──きみの可愛い、銀色のうさぎちゃんは』
「──……』

藍色の目を瞠る。
ごくり、と喉が鳴ったのが分かる。
電話越しにそれを感じたのか、ナシアスは明るく告げた。

「ここにいるからね、きみのうさぎちゃんは」
『……なに?』
「ここに……生まれたままの姿で、白いシーツに埋もれるようにして眠っているよ」

可愛いな、と喉で笑えば、電話の向こうで気配が膨れ上がったように感じた。
ゆったりと形の良い唇を吊り上げ、ナシアスは相手の反応を待った。

『……言ってることが、よく分からないな』
「ふむ。きみにしては陳腐な受け答えだね」
『……』
「きみが夢中になるのも分かるよ。このうさぎちゃんは、嗜虐心と闘争本能を煽るのが抜群に巧い」
『……』
「きっと計算ではないのだろうね。──だからこそ、クセになる」

ちろり、と唇を舐めるナシアス。
視線の先には、すやすやと健やかな寝息を立てる天使の寝顔。
可愛らしいのは間違いないが、それだけではない。
男を煽るのは巧みだが、長引かせる手管は持ち合わせていないその辺の坊やとは違う。
計算ではない、本能だからこそつい手を伸ばしてしまう──まぁ、そういう男が多いだろう、という話であって自分には当てはまらないが。
これからも手が伸びるかは、電話相手の坊や次第だ。

「この寝顔。何人の男に見せたのかな……?」

呟く声に、ヴァンツァーは我知らず眉間に皺を寄せた。
携帯を握る手に、なぜだか知らないが力が入る。
最初に抱いたときから分かっている。
シェラは自分が初めての男というわけではない。
先を急いで絡みつく視線を振り切ろうとしているように見えて、その実全身で男を誘っている。
怯えた瞳の奥には、こちらを興醒めにさせないだけの期待も見えた。
そうして、その期待を自覚した自分自身を嫌悪している。
かといって、最後まで抵抗するわけではない。
流されやすい、といえばそれまで。
だが、それに本心から必死で抗おうとしているのも事実だ。

『どこまで追えば堕ちるのか……分からないからこそ、余計に興奮する。獲物としては、最高だ』
「……それが、どうした」
『本当につまらないことしか言わないんだね。残念だよ』

呆れたように嘆息するナシアスに、ヴァンツァーは押し殺した声で告げた。

「あんたに気に入られたいなんて、一度も思ったことはない」
『だろうね。きみはそういう子だ』
「話は終わりか? だったら──」
『──さすがのきみも、無理か』

いっそ嘆くような口調に、ヴァンツァーは思わず耳を傾けてしまった。

『いくらきみでも……────自分の獲物を抱いた身体は、抱けないか』

慈悲──否、むしろ憐憫すら含まれていそうな声音に、ヴァンツァーは腹の底が冷えるのを感じた。
相手が何も言わないでもその気配を感じたナシアスは、ホテルの場所と部屋、落ち合う時間を告げた。

「安心するといい。きみが来る頃には、うさぎちゃんは帰っているからね」

それじゃあ、と電話を切ったナシアスは、相手がこの場に来ることを疑ってもいなかった。
そうして、それは確実な未来となって、数時間後に姿を現すのだ。


鳴らされたドアベルに、ナシアスはにこやかに客人を迎えた。

「来ると思っていたよ」

学校では決して見ることのない無表情に、自然と笑みが零れる。
嘲るような冷笑すらも浮かべていない、人形のように綺麗なだけの顔。
逆にこんな表情は見ることがないだけに、どこか心が躍る。
我が物顔で部屋に入ったヴァンツァーは、ひと通り部屋を見渡し、ソファの上に鞄を放り投げた。
着ていた上着も脱ぎ捨てると、さっさと袖のボタンを外し出した。
その性急な様子に、ナシアスは意外な思いがしながらも口許に薄っすら笑みを浮かべた。

「そんなに急ぐことはないだろう? どうだい、きみも一杯」

高校生に酒を勧める教師もどうかと思うが、ヴァンツァーは無言でシャツのボタンを外していく。
その様子を横目にソファへアルコールとグラスを持っていったナシアスは、琥珀色の液体を注ぐ。

「さぁ、まずは乾杯といこうじゃ──」

グラスを手に立ち上がろうとし、肩を突き飛ばされてソファに腰を打ち付ける。
クッションがあるから身体にかかる衝撃はそれほどでもなかったが、反動でグラスを落としてしまい服が酒に濡れてしまった。
さすがに視線をきつくして舌打ちしそうになり、頭上から落ちてきた影を睨むようにして顔を上げた。
ソファに片膝を乗り上げるようにして立ち、高い位置から傲然とナシアスを見下ろす冷たい瞳。
絶対零度のその視線に射抜かれ、さすがのナシアスも思わず口をつぐんだ。

「──脱げよ」

甘く響かせればこれ以上はないという美声なのに、そこにも温度という温度が感じられない。
はだけたシャツの前から覗く白い肌は、細身でありながら綺麗に筋肉がついており、若い瑞々しさに溢れている。
しかし、その身体にも、表情にも、瞳や声にも、これから訪れようとしている情事への期待や興奮など、微塵も含まれていない。
視線を逸らすことすら出来ずに見上げるしかないナシアスに、十数も年下の男は昏い笑みを口許にだけ浮かべた。

「さっさと脱げよ。────抱いて欲しいんだろう?」

だったらお前が俺を熱くしろ。
そう、言っているかのようなヴァンツァーの様子に、ナシアスは知らず身震いした。
それが期待なのか、恐怖なのか、そのどちらでもないのかは分からない。
はっきりと分かったのは、目の前にいる誰よりも美しく妖艶な男の苛立ちだけ。
一度見てみたい、と思った相手の新たな一面であるというのに、それを堪能する暇はナシアスには与えられなかった。
性急というよりも乱暴。
相手を堕とすことばかり考えているがためにまずは相手の快楽を引き出すことを優先させていたというのに、今日はまったく違った。
相手の快楽はおろか、自分のそれすらも求めていない。
ただ、暴くだけの行為。
苦痛しか与えず、受け取らず、既に暴力でしかない行為。
それでも彼らは自分の身体が熱くなっていくのを感じていた。
一番深い部分は醒めて、冷え切っているというのに、肉体はそんなものは関係ない、とばかりに熱くなる。

ナシアスは、その今までに受けたことのない苦しい──しかし、激しい行為に声を上げた。
ヴァンツァーは、なぜ自分がこんなにも苛立っているのか分からず、分からない事実にまた混乱し──それをぶつけるようにナシアスを抱いた。

──それぞれが、自分の感情を持て余していた。




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