一晩中抱き合い、文字通り精根尽き果ててナシアスは意識を手放した。
睦みあいではなく戦いのような時間を過ごしたヴァンツァーも、さすがにぐったりとした様子でベッドに横たわる。
ソファで暴き、床で嬲り、ベッドで突き上げ。
これだけ使われればこの部屋も満足だろう、と妙な感想を抱く一方、この同じ場所でシェラがナシアスに抱かれていたのかと思うと頭の中に蝿が飛んでいるかのように雑音が煩くて、思考が定まらなくなる。

「──……何が、『自分は本気で尽くすタイプ』だ」

やはり目算が狂っているのはレティシアの方だ、と結論付けたヴァンツァーは、身体を起こし、一服すると脱ぎ捨てた服を身に着けた。
携帯で確認した現在時刻は、午前四時。

「……先に眠ると、罰ゲームが待っているんですよ」

面白くもなさそうに冷笑を浮かべ、鞄からデジタルカメラを取り出すと眠るナシアスを撮影する。
我ながらイイ趣味だとは思うが、罪悪感だの後悔だのを覚えるだけの心の広さは持ち合わせていない。
ましてや、肉体関係を持った人間の顔を撮影して眺めて楽しむ嗜好も持っていない。

──これは、保険だ。

画像を確認すると、ヴァンツァーはそれ以降一度もナシアスの顔を見ることなく部屋を後にした。
ホテルを出ると、もう既に日は出ており、蒸し暑い。
それなりに落ち着いた雰囲気のシティホテルだとて木の一本もあればこの時期は煩く鳴き喚くセミがいるものだ。
ジリジリと皮膚が焼かれる音が聞こえる気すらするような錯覚を覚える。
これから暑くなる一方の季節、──ヴァンツァーが、一番苦手な季節だ。
うんざり、と顔を顰めそうになってはいても、長袖の服を着ているというのに、その美貌は涼しい顔を微塵も動かさない。
凍てつくほどに冷たい藍色の瞳のまま、電話をかけた。
時間が時間だけに出るかどうかは分からなかったが、思ったよりも早く反応があって逆に驚く。

『……はい』

少し掠れて、疲れたような声。
情事の後というよりは寝起きの声に似ている──というよりも、起こしたのだろう。
日が昇ったばかりのこの時間、休日ともなればまだまだ夢の中にいる時間だ。

「おはようございます」
『……おは、よう……』

どこか声に怯えが混じっている気がする。
横たわる沈黙に、ヴァンツァーは知らず口端を吊り上げた。

「昨夜お会いできなかったので」

わざとそこで言葉を切れば、電話の向こうで息を呑む気配。

──そう。 獲物は獲物らしく、草むらで身を震わせていればいいのだ。

「これから会いましょうか」

殊更ゆっくりと、やさしい声音で言ってやる。
しかし、藍色の瞳は『にこり』とも笑っていなかった。
この上なく落ち着いているというのに、何だか神経が尖っている気がする。
シェラの声が返らないので、ヴァンツァーはもう一度言った。

「これから会いましょう」
『……今日は』
「──空いているよな?」
『今日はちょっと』

早口になってきた。
電話を切られる前に、ヴァンツァーは核心を突いた。

「──昨日、他の男に抱かれたからか?」

ひっ、と短く悲鳴が上がり、電話を取り落とす派手な音が耳元で聞こえた。
瞬間的に携帯を耳から離し、再び耳元に宛がう。
数度呼びかけても、電話を取る気配がない。
青褪めてカタカタと震えている様子が目に浮かぶ。
すっと胸が軽くなると同時に、何とも言えないもやもやとしたものが胸中に生まれた。
こんな、吐き気にも似た、それでいて外側ではなく内側へとベクトルが向かう感覚など知らない。
同じような感覚ならばよく知っている。
自分のもとに群がり、一時の快楽を求める人間に対する侮蔑が一番近い。
けれど違う。
それならば、ベクトルは外へと向かうはずだ。
この内側へ、内側へと向かう感覚の正体は何なのか。

「とりあえず、切りますよ」

どうせ電話を取ることなど出来ないだろう。
通話を打ち切り、メールを立ち上げる。

「……きっと」

ぽつり、と声にならないようなちいさな声で呟く。

「きっと、すぐに分かる……」

この感情の正体が。
シェラに会えばきっと分かる。
だから、ヴァンツァーは恐慌状態に陥っているのかも知れないシェラにメールを入れた。
昨夜の自分のように、相手が指定した場所に来るということは、分かりきっていた。


目覚めたナシアスは、時計を確認するとため息を吐いた。
意識を失ったまま、三時間ほど眠ってしまったらしい。
分厚いカーテンに阻まれているとはいえ、外が明るいのが分かる。
もう、かなり暑くなっているだろう。
二日間押さえたこの部屋も、昼過ぎに出れば良い。
倦怠感がひどくて、シーツに身体を沈み込ませる。
目を閉じて額に手を置けば、昨夜の己の痴態が思い起こされる。
苦しいのに、気持ちいい。
怖いくらいに背筋が、腰が震えて、声を上げることを我慢出来なかったことなど、他のどんな男と寝たときにもなかったことだ。

──やはり、興味深い。

目は覚めていても頭はまだぼんやりとしていて、だからナシアスは普段あまり手を伸ばさない煙草に火をつけた。
かなり軽めのメンソールだが、鼻腔の奥に残る香りと違うことに気づいて微かに眉を寄せた。
いくらも吸わないうちに灰皿に押し付け、今度は携帯を取り出す。

「あぁ、──バルロ?」

明るい口調で話しかければ、電話の向こうで「何だ」という不機嫌そうな声がした。
それにちいさな笑いを漏らし、ナシアスは「頼みがあるんだ」と切り出した。

『頼み?……何だ、胡散臭いな』
「おや、心外だね。ちょっと、迎えに来て欲しいんだ」
『迎え?』
「あぁ。身体が動かなくてね」
『──どこか具合でも?』

一瞬の間の後、焦燥感色濃い声音。
やさしい男なのだ、バルロという男は。
彼といると、落ち着くのは事実だ。
容姿だけでなく、家柄でなく、まず個人を見るその漆黒の瞳は気持ちが良い。
彼に愛された人間は間違いなく幸せだろう、と自分でも思うくらいだ。
遊びならいくらでも派手にやるが、だからといって浮気なわけではない。
本命がいれば、その人間に対して誠実に振舞うだろう。
遊ぶにしても、相手も割り切れる人間しか選ばない。
その辺りの選定は、さすがに多くの人間を見ているだけのことはある。
受け入れるのを躊躇っているわけではない。
バルロという男が嫌いなわけでもない。
それでも頷けないのは、──きっと彼が光の中にいるべき人間だからだ。

「いや。体調が悪いわけではないんだ──ちょっと、ハメを外しすぎた」
『……』
「足腰立たない状態、って言うのかな。起き上がるのも億劫でね」

しばらく沈黙が横たわるが、ナシアスはただ耳を傾けて待った。

『……何で俺が、他の男と寝たお前を迎えに行かなければならないんだ』
「よく『男』だと分かったね」

くすくす、と笑えば、電話の向こうだというのに思い切り顔を顰められたのが分かる。

「確かに。わたしはフェミニストだからね。女性に対して足腰立たなくなるような扱いをすることは良心が許さない」
『お前のはフェミニズムじゃなくて、ただのシスコンだ』
「アランナは可愛いからね。わたしの宝物だ。早く嫁にもらってやってくれ」
『……婿にしようという人間を顎で使う気か』
「未来のお兄様の言うことは、きちんと聞くものだよ──坊や?」
『──断る』

きっぱりと言い切られ、ナシアスは微笑を浮かべた。
好きだとは言っても、相手の歓心を得るために何でもするわけではない。
みっともなく土下座をしてまで誰かを手に入れようとは思わないだろうし、またそうする必要もない男だ。
本当に、自分なんかのどこがいいのか不思議で仕方ない。
それでも、今このときに声をかけたのがバルロであるという事実に、ナシアスは内心で苦笑した。

「──……頼む、バルロ……」

作ったつもりが、思ったよりも弱い声で自分でも驚いた。
しかし、そんな動揺を表に出すナシアスではなく、むろんナシアスの胸中など知るはずもないバルロは苦虫を噛み潰したような顔になった。

『……普段我が儘放題のくせに、こういうときにそういう声は卑怯だ』
「うん、知っているよ」

静かに微笑み、低く豊かな声に目を閉じる。

『俺を電話一本で呼びつける人間なんて、そうはいないぞ』
「うん。それも知っている」

この声は、落ち着く。
心が騒ぐわけではないし、気分が高揚することもないのだけれど、無性に聞きたくなるときがあるのだ。
笑っていても、怒っていても、不機嫌でも。
それがどんな感情であれ、そこに『自分に真っ直ぐ向けられた感情がある』というだけで、こんなにも心が和ぐ。

『それに、お前は俺の言葉に耳を傾けたことなんてないんだからな』
「うん。そうだね」
『なのに俺が一方的にお前の希望を叶えるというのは、あまりにも不公平だ』
「うん、よく分かるよ」

くすくすと笑ったナシアスは、相手が「何がおかしい」と不機嫌全開になるのにも構わず、「ねぇ」と話しかけた。

『……何だ』
「うん。それでね────迎えに、来てくれるんだろう……?」
『……』

沈黙の中にも『諾』の意思を受け取って、ナシアスはにっこりと微笑んだ。

久しぶりに、人としての体温が戻ってきた気がした。




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